序章 5
「さ、行くぜ。あとは自分達の命を守らないとな」
「ホエルの船はどこにある?」
「脱出艇と同じだ。外に直結する格納庫だよ」
答えるや否や、ホエルは槌を肩に担いで豪快に厨房を横断しはじめる。アポロもその大きな背を追いかけた。
いつの間にか、剣や銃の音はほとんど聞こえなくなっている。
「他の乗客や船乗りはどうなった?」
懸命に足を動かしながら尋ねた。半日共に過ごした船乗り達の安否がずっと気になっていた。
「奇跡的に皆無事だよ。怪我した奴はかなりいるがな。生き残るために必要な荷物以外は置いていったから、オルグも無理にこっちを追いかけるようなことはなかった」
船や荷物の放棄は、乗客や船乗り達の所属するギルドにとって、大きな痛手だろう。しかし、この場で命が失われなかったことにアポロは心の底から安堵した。
「おい。安心するのはまだ早いだろ」
それはその通りなのでアポロは今一度気を引き締めた。戦の音は途絶えていても、船のあちこちから人ではない者達の足音が聞こえてきている。いつ会敵するか分からない。
厨房を抜け、廊下に面した階段を駆け下りる。時折状況を確認しながら進むことで、オルグと交戦する機会を何度か避けることができた。
船底の後方に位置する格納庫に到着する。奥のシャッターが開かれ、そこから魔霧が流れ込んでいて視界が悪かった。脱出艇らしきものは見当たらない。
「おら、ぼーっとするな。こっちだ」
転がった箱や角材などを太い足で蹴散らしながら、ホエルが格納庫の奥へと進む。その先に丸みを帯びたフォルムのボートが停められていた。質の良い木材で組まれた外装には傷が多く、かなり年季が入った代物に見える。
「これ、動くの!?」
「何とかな。だが、起動に時間が掛かる。それまでに敵が来たらやばい」
「不吉なこと言うなよ!」
「はは、そん時はこれ使え」
ホエルはボートの縁に片足をかけながら、丸めた羊皮紙をアポロに投げ渡した。
「これは?」
「この船に乗ってた魔術師が念のためにって寄越してくれたスクロールだ」
スクロールという道具についてはアポロも知っていた。優れた魔術師が自分の身や開発した魔法を外敵から守るために用意する道具で、呪文の詠唱をカットして即座に魔法を発動させる事ができる。アポロの護身用魔法と仕組みが近い。
「これ、オレにも使えるのか?」
「ああ。やり方は……」
ホエルの説明が途切れた。遮ったのは轟音。天井が破れ、魔霧の立ちこめた格納庫にぼたぼたと黒い塊がいくつも落ちてくる。
一瞬泥の塊のようにも見えたそれは手足を伸ばして立ち上がった。
オルグの群れがたった二人の獲物を追い詰めるためにわざわざ上層から降りてきたのである。
その中に一つ、一際大きい塊がある。
それはつい先程までアポロとホエルが応戦していたあの巨大なオルグだった。敵は二度も苦汁を舐めさせられたことに対して明らかに怒っていた。その感情を一切隠さず全身に漲らせている。
「ホエル。あいつらの狙いは積み荷だから、こっちは無理して追いかけてこないんじゃなかったのか?」
ホエルはボートの操縦席のドアを開きながら、暢気に髭を掻く。
「そのはずだったんだが、やっこさん達はどうも俺たちに一発仕返ししなけりゃ気が済まないらしい」
巻き込まれたと叫びたいところだったが、ホエルよりも先にアポロがオルグを横転させていて、しかもホエルの助けがなければ自分は今頃死んでいた。これはどうあっても避けられない危機だったと考えるべきだろう。
「どうする?」
「スクロールを使え! 広げて地面に叩きつける……それだけだ」
後は任せたと言わんばかりにホエルはさっさと操縦席に入ってしまう。起動準備をしているのか、大きな身体に似合わない細々とした作業をしている。職人なのだから手先は器用だろうが、何とも見ていて不安になる光景だった。
本当は戦闘能力の高さそうなホエルにオルグの相手をしてもらいたいが、ボートの所有者はホエルであり、おそらくその起動準備は彼にしか務まらない。アポロも普通の船の操り方は船乗り達から触りだけ教わっていたが、旧式の小舟に覚え立ての知識が使えるかどうかは不明で、当然、それを試しているような時間はない。
黒い鬼達が槍や鉈などをぶらさげて、ゆらゆらとこちらに寄ってくる。幸い格納庫はそれなりの広さがあり、すぐに間合いを詰められるようなこともないが、もたもたしていれば囲まれてしまうだろう。戦いは基本的に数で決まるのだ。
それを覆す力があるとすれば、それは人類が辿り着いた奇跡、すなわち魔法である。
アポロはどういった効果があるのか聞かぬまま、丸めた羊皮紙を開いて床に押しつけた。
木の床に当たった衝撃が起動の合図だったのか、羊皮紙に刻まれた円と線で構成された陣が光る。ククルが王家の魔法を行使した際にも発生した暖かい空気が周囲に満ちる。自然の中に溶け込んだ魔素が、スクロールによって魔力に変換されているのだ。
羊皮紙から青く光る鎖が解き放たれる。鎖はそれぞれ格納庫の壁の端に激突し、鎖と鎖の隙間を埋めるように光の線が編み込まれていく。
発動したのは魔法としては基礎中の基礎の物。魔術師ではないアポロは習得していないが、その道を専門とする者はまずこれを学ぶという守りの一手。魔壁と呼ばれる万能の防御陣。
極めれば極めるほど、その使い方には個性が出るという。中には自動で敵の攻撃に反応したり、逆に攻撃をしかけたりするような反則級の魔壁もあるというが、離れた場所にここまで大規模に展開できるこのスクロールもなかなかに規格外だった。船に乗っていた魔術師の腕が窺える。
空間を遮る光の網に数多のオルグが衝突する。その数、凡そ十。船に乗り込んできたオルグの総数がどれくらいだったのかアポロは知らないが、少なくとも四分の一以上はここに集まってきているだろう。おそらく、あの巨大なオルグが道中で仲間を呼んだのだ。
魔壁に向かって振り下ろされる武器。その重みで光の鎖が震えた。これで窮地は脱したかと思いきや、オルグが攻撃を繰り返す度、光の網を構成する線が一本ずつ剥がれている。
「お、おい。これ大丈夫なのか?」
アポロが尋ねると、操縦席に屈むホエルはその体勢のまま怒鳴った。
「知らん! 言っておくがこっちは暫く手が離せない。魔壁が持たないなら……アポロ、お前が何とかしろ」
「無茶だ。あの数相手じゃ戦士も魔術師も苦戦する」
そうは言いつつも、アポロは必死に次の手を脳内で模索する。無茶に答えなければ命はない。何も敵を全て倒せと言われているわけではない。ある程度時間を稼げばいいのである。
「なぁ、この船……乗員は俺たち以外残ってないんだよな?」
「ああ、それは間違いない。他は全員、二隻の脱出艇で逃げることができたぜ」
それなら一つ、手があった。
アポロは鞄から色の付いた液体が入った瓶と、毛先の太い筆を取り出す。瓶の中に入っているのは絵の具だ。ヘルメトスで作られている絵の具は魔力の滑りが良い。
複数の瓶の中から紫を選び、中身を床にぶちまける。本来であれば絵の具は専用の道具に垂らして使うのだが、今は時間がない。とにかく大量の絵の具を使って一枚の絵を一気に描き上げる必要があった。
紫色の絵の具は床の凹みに溜まった。そこに筆の先端を浸す。脳内で、家に飾られた祖父の絵を思い起こす。
とある雷の精霊を惚れさせた激しく猛々しい風景画。その一部を床に描いていく。
雷の書き方は祖父の絵を見て学んだ。時に木の枝のように、時に氾濫する河川のように、荒々しく線を引いていく。色の濃淡はほとんど気にする必要がない。雷とは常に強い輝きを持つ。むしろ、手加減して発色が悪くなれば迫力が損なわれる。魔霧で霞む視界が絵に妖しさと凄味を持たせた。
光の網はもう破られかけていた。容赦なく振り下ろされる武骨な刃が一本一本光の線を断っていく。
だが、オルグが通過できるような隙間ができるよりも先に、アポロは床に雷の絵を描ききった。元の絵の一部を再現しただけだが、今はそれで十分だった。むしろ全て描いてしまうと、アポロもホエルも巻き込まれてしまう。
詠唱は必要ない。魔素から魔力への変換も少量で十分。アポロは絵を通じて契約を起動させるだけで良い。
「うお、何だ?」
ホエルが真っ先にその異変に気づく。続いて、攻め込もうとしていたオルグ達が戸惑いはじめた。船が揺れる。大気が揺れる。魔霧が渦巻く。圧倒的存在の降臨を前にして、生き物も自然も頭を垂れる他ない。
アポロは筆を握らない左手をゆっくりと巨大なオルグに突きつける。人差し指周辺が輝き、白く硬い装甲のような物に覆われた。
これは精霊の力を借りる契約魔法。精霊とは世界の神秘と自然のバランスを取る存在。魔力というエネルギーに法則を与えて行使する人間と違って、彼らは魔素をそのまま操る。自然を手中に収めているのだ。
アポロの祖父はいくつかの精霊と契約を交わした。それは本来、精霊の言語を理解する特殊な一族にしか許されないことだ。しかし、祖父は風景画という言語以外の手段を使って精霊とコミュニケーションを取った。もちろん、自然を知る精霊達は生半可な絵には惹きつけられない。彼らを魅了するために、祖父はこの世ならざる世界を想像し、それを現実であるかのように描いた。
アポロはその契約を引き継いだ。大切に保管された絵の一部を複製し、契約の一部を使用する。今は元の絵に描かれた雷の部分だけを真似て、精霊の指先だけを召喚した。
ただし、ただの精霊ではない。火や水、雷や土。それぞれの属性に数個体だけ存在するという精霊の王……大精霊。祖父でさえも契約できたのは一度のみ。相手は雷属性の大精霊。彼の名はトゥエル。
たとえ指先一本であろうともその力は優に世界を覆す。
「慄け魔獣共。これが大精霊の一太刀だ」
床に描いた雷が具現化するように、紫電が空気に鞭を打つ。船に火を付けかねない大いなる力がわだかまる。先程までは乗客や船乗り達を乗せたまま船が沈んでは困るのでこの力を使うことができなかったが、今はもう誰に遠慮することもない。
あれほど執拗に光の壁を越えようとしていたオルグ達が、一歩二歩と後ずさる。巨大なオルグだけは戦意を失わず、右手に剣を、左手は無手で構えている。アポロは心の中で笑う。その程度の準備で自然の猛威に立ち向かおうというのか。
最初は指を鳴らしたような軽い音。そこからまるで曲がはじまるかのように轟音が拡大していく。規則性のない動きをしていた紫電は大精霊の指揮の下、魔壁を内側から食い破り、空間を一塊になって駆け抜けた。
唯一立ち向かおうとしていた巨大なオルグの左腕に魔素で編み込まれた強力な雷が激突する。攻撃はそこから拡散し、戸惑っていた小さなオルグ達の身体を貫いた。
オルグの左手には魔法に対する抗体があり、魔壁ほどではないがそれなりの防御力があるという。それでも尚、紫電の雨が止んだ時、そこに立っているオルグは一体として存在しなかった。命を失ってはいなさそうだったが、誰も彼も二度とまともに戦えないような状態だ。持っていた剣や槍、銃も手放してしまっている。
最も強い攻撃を受けた巨大なオルグは格納庫の端まで吹き飛ばされ、壁に大きな凹みを作っている。何とか動こうと足をばたつかせていたが、ほんの数歩も移動できずに床に倒れた。
被害があったのは敵だけではない。アポロが予想した通り、紫電は船の至る所に火を付けた。今は小さな炎がチラチラと点滅するように燃えているだけだが、放置すればどんどん広がって船を蝕んでいくだろう。乗員がいる時にこの力を使わなかったのは正解だったのだ。
「よくやったじゃねぇか。すげぇな」
ボートの操縦席でホエルがパチパチと手を叩く。
「それより……準備はどう?」
魔素を操るのは大精霊だが、契約の使用にはある程度の魔力を消費する。アポロは船の外周を全力疾走したかの如く、息を切らしていた。
「おかげで終わったぜ。いつでも出せる。乗れ!」
乗れと言っておきながら、ホエルはアポロがボートに乗る前にエンジンを起動させた。バリバリと木を削るような音を立てながら、黄色いボートが緩やかに浮上した。船底を包むクッション部分が温度の高い空気を溜め込んでいるらしい。
魔霧を絶えず吸い込む格納庫の出口に向かって進み出すボート。アポロは併走して駆ける。操縦席にいるホエルが太い腕を外に伸ばすのが見えた。その手を掴むとふわりと身体が浮いて、気づいた時には操縦席の後方に着地していた。
カランと何かが後ろの床に転がる。視線を向けるとそこに武器がいくつか転がっている。余力の残っていたオルグがやぶれかぶれに投擲した物だった。
「バーカ。お前らなんかに殺されてやるもんか!」
エンジンに負けない声で悪態を置いていく。大事な約束があるから死ねないという理由は飲み込んだ。奴らに教えてやることもない。
「はっはー痛快だな」
豪快に笑うホエルがボートの速度を上げる。やがて白い視界を切り裂いて、ボートは飛空挺から離脱した。背後を振り返ると、立派な船底に鉄製の巨大な重りが突き刺さっているのが見える。重りに接続された鎖はツギハギだらけの別の船に伸びていた。あれがオルグ達の母船なのだろう。ククルの推測は当たっていたというわけだ。
ボートの操縦席を包む木板に背を預け、アポロは深く息を吐く。緊張が解け、代わりに疲労感がやってくる。
ふと、オルグ達の船の縁に黒い影が見えた。その手には木と鉄で組まれた猟銃がある。
銃口はこちらを向いている。
しまったと思う隙もなく、乾いた破裂音が空を飛ぶ。
アポロの身体が僅かに刎ねる。
背後を見ると、金属の塊が操縦席の板に突き刺さっている。幸いにも貫通してホエルに当たるようなことはなかったらしい。つまり、凶弾の犠牲者は一人だけというわけだ。
遅れて痛みがやってくる。思わず呻いて船底に手をついた。
ホエルが呼びかけている。どうした? 大丈夫か?
大丈夫かどうか自分でも判断がつかない。大丈夫であって欲しいと強く願う。まだ、自分は夢を叶えていない。
必死の抵抗も虚しく、アポロはそこで意識を失った。