最終章 1
視界が一時、白に染まる。
甲板に流れ込む魔霧。噎せ返るほどの甘い匂いが嗅覚を狂わせる。
メルクリウス号はついにヘルメトスを覆う魔霧の層に突入した。
目指すところは王宮の塔の頂上、魔天の間である。
アポロは布に包まれたキャンバスを背中に固定した。布鞄の中に入っている画材の状態も同時に確かめる。
武器として、複写画を巻き付けた鉛筆を数本、ポケットの中に用意する。
大精霊トゥエルの力を借りることができれば頼もしいが、そのためには大量の魔力が必要だ。先程はメルクリウス号の燃料を借り受け強引に契約を発動させていたが、船から下りればそれも叶わない。アポロ自身が操作できる魔力では、トゥエルの指先を召喚するので精一杯だ。それだけでも十分な力を得られるが、魔天の間を破壊してしまうだろう。そうなると自分達の命が危うくなってしまう。
この先の戦いで使えるのは水の精霊が呼び出す水流のみということだ。
しかし、アポロは一人ではない。
優れた身体能力を持ち、賢者の瞳を宿すカイルスと、魔導具に精通した職人のダイダが味方についている。
この面子ならばターレックがどんな罠を仕掛けていようと突破できるとアポロは信じていた。
視界が白から黒に変わる。
目に飛び込む広大な星空。
改めて見て確信した。ここにある星空は六年前に見た本物の星空とは違う。誰かが描いた偽物であり、それが魔天化している。
空蛇がいなくなった今、船の上からでもこの星空を描くこと自体はできるだろう。しかし、空を見る位置と角度が違えば得られる情報も異なってくる。おそらく、魔天に刻まれた魔法のレシピは塔の頂上でなければ意味を理解することができない。
メルクリウス号の船体の角度が水平になる。船首が向けられた先は当然、王宮に聳え立つ塔の頂上。
剣の形をした鍔の部分に向かって船はゆっくりと進んでいく。
塔に近づくに連れて、昨晩とは違う部分に気がついた。
魔天の間を囲む壁の一部が破壊されている。
昨晩、塔から脱出した際に割った窓かとも思ったが、それにしてはいくらなんでも破損箇所が広い。誰かがあの晩の戦いの後に意図的に壁に穴を開けたのだ。
そこに緑色のドレスを着た少女が立っていた。
「……ククル?」
瞳は青い。だが、魔法で操られている住人とは輝きが異なる。元々彼女の瞳は青いのだ。
燃えるような光を放っていないのであれば、彼女は魔法に操られていないということか。
「アポロ、油断するな。町から伸びる魔力線は女王に集まっている」
魔力線の束が目に毒なのか、カイルスは苦悶の表情を浮かべながらそう言った。
「なんでククルに……」
昨晩まではターレックに繋げられていた魔力線。しかし、接続先はがいつのまにかククルに切り替わっていた。それが何を意味するのかアポロには分からない。
ククルの銀色の髪が強い風で揺れる。
まるでその髪の中から取りだしたように、ククルは手に杖を握った。
「あれはターレックの杖じゃないんか!?」
ダイダが叫んだ通り、それは昨晩ターレックが魔法の準備に使用していた杖だった。
これまでずっと無表情だったククルの口元が歪む。
杖が回り、先端のかぎ爪に引っかかる透明な球体が赤く発光する。
カイルスが船首近くに向かって走る。目指す先にあるのはレバーの付いた箱形の装置。先程、空蛇の飛ばした針を防いだ道具と形状が似ていることから、同じく魔壁を展開する魔道具だろう。
ククルの正面、塔の外側に黒い火の手が浮かぶ。その大きさは空蛇が吐く炎を上回っていた。
揺らめく黒炎の向こう側で、ククルの口が短く「沈め」と動くのを見た。
カイルスが無言でレバーを引き抜く。ダイダは舵輪を回すが、いくらメルクリウス号が速い船でも至近距離で巨大な炎を打ち出されれば回避は間に合わない。
青い壁が船を守護する。炎手の進行は壁によって遮られた。
しかし、防ぎきることができなかった炎手の指先がメルクリウス号の縁を掴む。
甲板を焦がす黒炎をアポロが水流を呼び出し、できる限り洗い流した。
今朝に見た夢を一瞬思い出す。
――お前が助けに来てくれるのだろう?
損害を受けた船の様子が余程可笑しいのか、ククルは身体を反らせて笑っていた。
それを見ただけで理解する。ターレックを打ち倒そうとも、まだ彼女は闇の中に囚われたままだ。
「ダイダ、船を一度近づけて道を作れ。その後は離脱だ!」
カイルスがダイダに指示を出しながら、アポロを招くように腕を振る。
メルクリウス号は塔の前で旋回し、その翼を破損した壁に近づける。
ククルの背後に黒い火球が浮かぶ。
カイルスは空蛇との戦いで、魔壁は連続で使用できないようなことを言っていた。
次の攻撃を防ぐ術はない。
アポロは少しでも火の勢いを抑えるために鉛筆を引き抜くが、その行動をカイルスの手が遮った。
「駄目だ。君は塔に行くことだけを考えるんだ」
そう言ってカイルスはメルクリウス号の翼に飛び乗った。
迷っている暇はない。
アポロもそれに続く。
ククルの杖が振り下ろされ、中空に浮かんだ火球が船を襲う。先程の魔手に比べれば一つ一つの火の大きさは小さいが、その代わりに数が多い。
火球が船体に衝突する。その内の一つが船首の方に向かった。
「ダイダ!」
振り返る。火球はダイダの足下に直撃し、船を加速させるためにダイダが踏んでいた鉄の板を破壊した。
ダイダは炎を踏み潰しながら叫んだ。
「構わん、行け! 行くんじゃ!」
「アポロ!」
カイルスがアポロの腕を引いて翼の上を駆け出す。
「俺達が塔に辿り着けばメルクリウス号も離脱できる。前を見るんだ」
歯を食いしばって前を向く。ブイレンがアポロとカイルスのすぐ横を滑空した。
ククルの放った炎球を、姿勢を低くしながら避ける。
翼の先端でカイルスが跳躍した。アポロも続く。
空中にいる間、時間が狂ったように景色の速度が落ちる。強い浮遊感がそう錯覚させる。
その最中に見た。
ククルの背後に残る三つの火球。
相手は確実にこちらを迎撃するために攻撃を二段構えにしていたのだ。
銀の杖が回る。カイルスもアポロも自分の身を守る術はない。
ここで強い呪いを持った炎に身を焼かれれば後がない。
なにより、キャンバスが燃えればこの国を救う手段が失われてしまう。
その時、どこからか聞こえてくる呪文があった。
『鍵は解ける。黄金石の城壁よ、民と土を守れ』
それは昨晩のカイルスとトレイの戦いの際にも聞いた詠唱。
打ち出される黒い炎をどこからともなく現れた金色の盾が受け止めた。
ククルの青い目が驚きで見開かれる。
カイルスはその瞬間を見逃さなかった。
アポロの目の前でコートの内側から短剣を抜き取り、それを構えながらククルに向かって落下する。
刃物を取り出したところを見ても、アポロはカイルスを疑わない。たとえどれだけククルの様子がおかしくても、カイルスは彼女の命を奪うような手段は選択しない。
カイルスの構えたナイフはククルが再度振り上げた杖を弾いた。
そのまま、ククルに体当たりをするような形で塔に飛び込んでいく。
アポロはその脇をすり抜けるように魔天の間の中に着地した。勢いで滑る身体を、腕の振りで発生した遠心力で止める。振り抜いた右腕にブイレンが止まった。
三角形の窓と紋章が並ぶ壁。昇降機の台座とその真上に掲げられた宝石。中央だけ屋根部分が残された円形状の天井。
神秘的な雰囲気に満たされたこの地に踏み込むのはこれで二度目だった。
カイルスは床にククルを組み伏せ、その背中に短剣の背を当てている。体当たりした後、体術で彼女の動きを止めたのだろう。近くにはターレックの銀杖も転がっていた。
その背後、破壊された壁の向こうでメルクリウス号が離脱していく。船体の一部を黒い火炎が焦がしている。
「ダイダ……!」
思わず外に駆け寄ろうとしたところで、カイルスが叫んだ。
「大丈夫だ。メルクリウス号もダイダもあの程度では沈まない。それより君は星を描け!」
間違えそうになった足を止め、彼らの献身に報いるために歯を食いしばって空を睨む。
国民を操る魔法を使用する際にそうする必要があったのか、既に魔天の間の天井は開いている。アポロは背負ったキャンバスを降ろしながら、ゆっくりと歩いて最適な位置を模索した。
その折、魔天の間の中央に飾られた巨大な宝石が目に飛び込む。
昨晩は宝石の中を満たしていた液体が、今夜はほとんどなくなっている。
「減ってル」
アポロの代わりにブイレンが呟く。
宝石の中に溜め込まれていたのは魔力だ。一体誰が何のために使ったか。
一番に思いつくのは今もヘルメトスを混乱させている民を操る魔法。
ターレックはここに溜めた魔力の全てを使ってヘルメトスを掌握したのかもしれない。町で相対した時にもそんなようなことを自白していたはずだ。
「だけど、今は、宝石よりも魔天だ」
宝石のさらに奥、頭上を覆う巨大な空に目を向ける。
青黒い夜と満点の星々。そこに記録されていた数多の情報。
昨晩よりも魔天の星空に記録された情報を深く理解できる。魔天を見るのが二度目だからか、それとも、ダイダやドゥハが魔法を解析する姿をすぐそばで見ていたおかげでアポロの魔法に対する理解度が上がったか。
頭痛と目眩が同時に襲いかかり、視界が歪む。この空はアポロの脳には毒だ。理解できるようになろうとも、流れ込んでくる情報量に殺されそうになるのは変わらない。
「くそっ。オレだけこんなところで音を上げていられるか!」
己を鼓舞するために拳でこめかみを叩く。しかし、自分の身体に備わった防衛本能が無理矢理働いて瞼が徐々に狭まっていく。魔天から知識を得ることを脳が拒否してしまう。
「こっちダ」
相棒の声がアポロを呼ぶ。見れば、いつのまにかブイレンがアポロの右腕でから離れていて、近くの床に立っている。その黒い翼が見るべき方向を示していた。
ふらふらとした足取りでブイレンのそばに向かう。そして、翼の示した角度から星空を見た。
アポロは魔術師ではない。故にレシピを細かく解読することはできない。しかし、長らく魔法と絵画に携わったことで得た直感が、この角度から見る星空の中に答えがあると告げている。
「ブイレン……ありがとう」
相棒に礼を言うと、返事の代わりに足をつつかれた。
星の連なり、光の強さが記号になっている。ブイレンの示した位置から確認できるレシピの数は七つ。効果は分からないが、どこからどこまでが一つの魔法なのかは何となく把握出来る。
しかし、七つ全ては絵に収まらない。広大な星空のどの部分を切り取って描くのか、ここからさらに考えなければならない。
その間、当然アポロの脳に負担がかかり続ける。
痛みに耐えながら星を見ていると、七つのレシピの中で最も目立たない一つが妙に気になった。
「あれ……か?」
描くべき箇所を定めた後はそれを描く作業に入らなければならない。
絵の具と水の入った瓶は服を固定するベルトに装着してある。そこに筆の先端を浸して、複写魔法を使いながらキャンバスにレシピを描き写せばいい。自分の目指す作品に星をうまく取り入れる構図も考えてある。
しかし、手が動かない。
アポロの脳が警告している。
あそこに見えるレシピはターレックの魔法を打ち消すが、取り返しの付かない事態を引き起こす。
その時、不快極まりない笑い声が魔天の間に響いた。
しかし、その声はどこか懐かしくもある。
噛み合わない声と笑い方はまるで不協和音のようにアポロの聴覚に負荷をかける。
「どうやって私のコレクションを破壊する気なのかと思っていたが、そうか、元より備わった機能を複写つもりだったのか。しかし、いいのか? それを使えばヘルメトスは死ぬぞ」
喋っているのは、カイルスが床に組み伏せた者。
「ククル……?」
乱れた銀髪の下で醜く笑うククルは何かが決定的に違ってしまっていた。
操られて生気を失っていたソラリスや町の住民とも様子が違う。
「アポロ、これは……!」
ククルの身体を押さえるカイルスの表情が強張る。ククルのことを深くは知らない彼でさえも今の女王の様子は危険だと察知したのだ。
『火炎をも焦がす、我が怨を知れ』
カイルスが状況に驚いたその一瞬の隙をついてククルが呪文を唱える。
「しまっ……!」
カイルスの足下から五本の黒い火炎が生まれ、火柱となって彼を焼く。
「カイルス!」
五本の炎に焼かれたカイルスはククルの身体から離れて床を転がった。アポロはキャンバスを抱えて走り、精霊の水流を呼び出す。
老竹色のコートを浸食する黒炎を水で払い落とす。しかし、肌もいくらか焼けていたのか、カイルスの呼吸は苦しそうに乱れたままだ。
「無駄だ。お前もその身をもって味わっただろう。私の炎で焼かれれば呪われる。その呪いはそう簡単に解けない。伝説の空賊だろうとしばらくは動けない」
緑のドレスを着た女王が、ゆっくりと立ち上がる。だらりと垂れ下がった銀髪と両腕が亡霊を思わせる。
「お前……ククルじゃないんだな」
アポロは敵の正体に気づいて睨む。
ククルの姿をした者は慣れない身体の調子を確かめるように、両手両足を一本ずつ屈伸させた。
「おかしなことを言う。この身体は紛れもなく女王ククルそのものだ。しかし、まぁ言わんとしていることをあえて汲み取ってやるとすれば、そう、この魂はククルという名ではない」
黒い炎を操る魔法。コレクションという言葉。そこから導き出される最悪の正体。
「ターレック……コルトナ!」
美しい顔が、欲を求める醜い魂に歪められた。
「やぁ、先程ぶりだな。元宮廷画家二十九位」
ククルの身体は今、宮廷錬金術師ターレックによって乗っ取られていた。