第五章 6
メルクリウス号が町から離脱するために上昇する。
下からの追撃を不安に思う必要はない。
今、錬金術師を抑えているのは王都が誇る最強の騎士の一人だ。ソラリスに関しても、信頼できる二人の仲間がついている。
カイルスは老竹色のコートの内側から丸めた羊皮紙を抜き取り、それをターレックと対峙するトレイに向かって投擲した。金髪の騎士は戦いの手を緩めず、難なくそれを受け取る。
「あれは何?」
「通信用の魔法が記録されたスクロールだ。一度しか使えないが、情報共有は大事だと考えて、ダイダに用意してもらった」
スクロールは魔術師が作る道具の一種であり、羊皮紙に記録された魔法は誰でも簡単に使用できる。アポロは六年前に飛空挺で一度使ったことを思い出した。
先に立ち上がったカイルスがアポロに改めて手を差し伸べる。アポロは素直にその手を取って身体を起こした。自分一人で立ち上がるにはまだ息が完全に整えられていなかった。
「かなり無理をしたらしい。顔を見ればわかる」
「誰かさんの影響かもね」
皮肉を言うも、カイルスは首を振る。
「まさか、君は元々そういう性質だったさ」
そう言われることにも段々と慣れてきた。心に灯る熱だけは誤魔化しようがない。
二人はメルクリウス号の翼から甲板へと向かう。
「町の状況はどうだ?」
カイルスがアポロに尋ねた。先程までの穏やかな表情は消えている。
「ターレックが魔法を使ってヘルメトスの国民全員を操ってる。しかも、一人一人に強化を施しているから、そう簡単に制圧できない。それで一気に形成が不利になった。今はグランとスラムの人達が抑えてくれてるけど、それもいつまで持つか……」
「なるほど、どうりで町に張り巡らされた魔力線の色と太さが変わっているわけだ。禍々しくて直視できないほどだな」
カイルスは町を見下ろしながら目を細める。アポロもつられて下を見た。
島を横断する三本の街道に、不気味な青い列が見える。その正体は、広場に向かう操られた民の目の光だろう。
それはまるで死者の行進だった。
おそらく、列を形成する全ての民に太い魔力線が接続されている。それが全て見えてしまうというカイルスは今、どれほど醜悪な光景を目撃しているのか。アポロには線が見えていないが、想像するだけで胃が裏返りそうになる。
広場ではまだ騎士の装備を身につけたスラムの男達が戦っていた。一カ所に集まらないように。かといって孤立しないように。グランが必死に彼らの指揮を執っている。時間が経てば犠牲者が出てしまうとアポロは危惧していたが、思っていたよりも彼らは追い詰められていなかった。
広場中央に描かれていた星空の絵はほとんど掻き消されている。おそらくグランがそうするように指示したのだろう。レシピの複製を破壊したにもかかわらず、この状況は止まっていないということだ。
複写魔法で魔法のレシピを複製するのは難易度が高い。しかし、その分、複製したレシピには強みがある。
大抵の場合、複製を破壊されても魔法の行使が止まらないのだ。
既に発動した魔法は、複製したレシピが消滅しようとも、複製の元になったオリジナルのレシピが補完する。
魔法の発動した場所とオリジナルのレシピの距離が離れているとその現象は発生しないが、ヘルメトスの国内であれば、どこで複製を使おうともオリジナルが機能するだろう。アポロの精霊契約魔法も発動してしまえば、後から複写画を破壊されようとも効果は失われない。
この状況を食い止めるためには、複写画の破壊以外の方法が必要だ。
「カイルス、魔力線の接続先は相変わらず、ターレックなのか?」
尋ねると、カイルスは王宮の塔を指差した。
「それが違う。いつの間にか全ての魔力線はあの塔の上にある魔天の間に集まっている」
剣の形の塔は町の騒乱など無視するように、静かに聳え立っていた。魔天の間がある柄の部分は相変わらず魔霧に覆われていて見えない。
「やっぱり、もう一度あそこに行く必要がありそうだな」
魔力線がターレックに繋がれていないのなら、トレイが事前に言っていた通り、術師本人に何があろうとも状況が崩れない仕掛けになっていると考えて良いだろう。
そもそもターレックを倒して解決できるのなら、敵は魔法を発動した時点でどこかへ隠れていたはずなのだ。わざわざ戦場に出てきてアポロ達に攻撃しようとした時点で、自分はどうなっても問題ないと主張しているようなものである。
メルクリウス号の甲板に移動すると、船首近くで舵輪を握るダイダの姿が見えた。先に船に到着していたらしいブイレンが、当たり前のように彼の頭部で羽を休めている。
ダイダが振り返ってアポロに手を振った。
「アポロ、無事で良かったぞ! ……町は無事というわけにはいかんかったようじゃが」
「ああ、でも、まだ負けたわけじゃない」
グランとスラムの男達の役目は陽動だ。ある程度戦場をかき回した後は地下のコロニーまで逃走する計画になっている。トレイとターレックの決着がつけば、グランはそういう風に動くだろう。そうなれば、戦力と戦力の衝突はなくなり、被害は生じない。
おそらく現状、ターレックはコロニーの存在と場所を把握していない。彼が把握していないのであれば、暫くは町の住人もコロニーに辿り着くことはできないはずだ。
もちろん物量作戦でしらみつぶしに島中を探索されればコロニーも発見されてしまう。アポロ達はそうなる前に魔天の間に辿り着き、ターレックの魔法を阻止しなければならない。
「急ごう。オレ達が目的を果たせないと皆の戦いが無駄になる」
「そうだな。しかし、まずはアレをどうにかする必要があるだろう」
カイルスがマストに背を預けながら船の進行方向を見る。
その視線の先、塔の上から魔霧を貫いて、赤く禍々しい蛇が現れた。
ヘルメトスの空を守護する魔獣……空蛇。
守護と言えば聞こえはいいが、要するにターレックは魔天に刻まれたレシピを他者に破壊されないようにあの怪物を配置したのだ。
波打つ巨体はまっすぐにメルクリウス号に向かってくる。
アポロは事前に描いておいた甲板の絵の前に立った。
『名を刻め』
呪文を唱えて甲板の絵画の隅にアポロの名を記す。その間にカイルスが、予めマストと欄干に結びつけておいた三本のロープでアポロの身体を甲板に固定した。
身体を固定したことにはもちろん理由がある。
アポロはこれから甲板の絵を使用して精霊契約魔法を起動する。普段使っている水の精霊との契約は少量の水を呼び出すだけなので、魔法の発動から水の召喚までほとんど時間が掛からない。
しかし、今回は呼び出す存在があまりに強大なため、発動から召喚までそれなりに時間が掛かってしまう。
その間、メルクリウス号は空蛇の攻撃を掻い潜らなければならない。
ロープによる固定は激しい船の動きにアポロが振り落とされないようにするための措置だった。
名を刻んだことで甲板の絵画が輝きはじめる。
本来アポロの魔力ではほんの一部しか使うことができない契約魔法だが、今回はメルクリウス号の船体に保管された燃料を一部借り受けることで成立させる。
甲板の上に船から借り受けた魔力が沈殿する。魔法の行使者であるアポロの両掌が小刻みに震えた。
「アポロ、召喚までどれくらいかかりそうじゃ!?」
ダイダが舵輪を回転させながら叫ぶ。その間も空蛇の進行は止まらない。
「多分……一分はかからない!」
「楽勝じゃな」
小柄なダイダは舵輪の前で、恐れなど知らぬように言う。
「ら、楽勝なの?」
思わず口から疑問が漏れるも、苦戦すると思っているのはどうやらアポロだけという雰囲気だった。アポロのそばで控えるカイルスも嫌に落ち着いている。
「ダイダのメルクリウス号の操舵は一流だ。ちょっとやそっとの敵では追いつくことはできない。ヘルメトスに来る直前、グランに追い回されたときも、ダイダはメルクリウス号で気流の隙間を掻い潜り、逆にグランの船を気流の籠に閉じ込めた」
そんな話を確かに数日前に聞いたが、一部に違和感がある。
「謁見の間ではカイルスのおかげでヘルメトスに来れたって言ってなかった?」
「舵輪を自ら握る役人などいないじゃろう。だから、あの時は手柄をカイルスに押しつけたんじゃ」
どうやら身分を偽っている間は、それに会わせて手柄の所在も多少誤魔化していたらしい。思えば謁見の間でその話をしていたとき、カイルスは一瞬迷惑そうな顔をしていた。
「おっと、いよいよ来るぞう。全員覚悟せい!」
ダイダが前のめりになって舵輪を強く握る。
空蛇が大口を広げ、空そのものを焼き尽してしまいそうな巨大な炎を吐く。ターレックが何か強化を施していたのか、昨晩よりも吐く火の量が明らかに多い。火炎が届いていないにも関わらず、熱風が甲板の上を吹き抜けた。
飛空挺は魔力と風で動く船だ。当然風が来ればその影響を受ける。
メルクリウス号は傾きながら僅かに高度を落とす。そのまま町まで落下するのではないかと一瞬思ったが、ダイダが舵輪の足下にある鉄の板を踏みつけると、船体後方で何かが爆ぜる音がして、船体が浮上しながら加速した。
舵輪から落ちたブイレンをカイルスが受け止める。空を飛ぶ翼を持つブイレンでさえも対応不可能な加速だったということだ。
「なんか……普通の飛空挺では考えられない動きをしなかった?」
「この船は儂の魔導具の宝庫じゃ! この船はそう簡単に落ちんぞ!」
いつ船体に火がついてもおかしくない状況にもかかわらず、ダイダは楽しんでいるように見えた。ブイレンが「危ないだろウ」と抗議していたが、おそらく彼には聞こえていない。
「ダイダ、随分楽しそうだな」
アポロが言うと、カイルスは苦笑いを浮かべる。
「あいつは昔から自分の作った道具を試すのが大好きなんだ。こんな状況下で楽しんでしまう不謹慎さには目をつぶってもらえると助かる」
不謹慎だろうと今は構わないとアポロは思った。
甲板に固定された状態のアポロは船が落ちれば十中八九死ぬ。命を預ける相手に楽しむ余裕があるというのはむしろ心強い。
身体をロープで固定したまま、アポロは首だけを後方に向けて船後方の状況を確認する。
大きく離脱したメルクリウス号を赤黒い大蛇が追いかけてくる。船と空蛇の位置関係は直線。空蛇が遠くまで飛ぶ炎を吐けば当たってしまう。
そのことを知らせようと前を向くのと、船が突然進路を変えたのはほぼ同時のことだった。
ダイダは前を向いていながら後方の敵の位置も把握していたのである。おそらく何らかの魔導具の力を借りているのだろう。
進路を変えた船に空蛇も動きを合わせようとするが間に合わない。敵の体の長さはメルクリウス号の三倍はある。そう簡単に小回りの利いた動きはできない。
この調子なら精霊契約魔法による召喚が終わるまで逃げ切れる。
そんな甘い考えを押し潰すように、突如空蛇の胴体が膨らんだ。
敵はおそらく口から大量の空気を吸い込んだのだ。身体が大きい分肺活量も多いということか。
もちろんそれだけでは攻撃にならないが、形態をわざわざ変化させた以上何かがある。
「ダイダ! 空蛇が何かしてくる!」
「分かっておる、カイルス!」
「ああ!」
ダイダの指示が出る前に既にカイルスは甲板横の箱形の装置に近づいていた。突き出た黒いレバーをカイルスが両手で握りしめる。
瞬間、空蛇が溜め込んだ空気を胴体の真横から一瞬で吐き出す。その空気圧に乗った銀色の針がメルクリウス号を狙った。
カイルスがレバーを引き抜く。
間一髪、迫り来る銀針に対し、青色の壁が展開された。
「魔壁ダ。でかいゾ」
ブイレンが鳴く。彼女の言う通り、展開されたのは巨大な魔壁だった。ここ数日間、何度か魔壁を見たが、そのどれよりも大きい壁だ。
「言ったじゃろ。この船はそう簡単に落ちん」
青い壁に刺さった針は瞬く間に燃え尽きて消滅した。船に一発でも当たっていればそこから火事になっていたかもしれない。
「得意になるのはいいが、暫く魔壁は使えないだろう。どうするんだ?」
カイルスの疑問に対してはアポロが答えた。
「いや、もう大丈夫。間に合ったみたいだ」
甲板に描いた絵画が準備を整え終えた。
精霊の世界へ繋がる門が今、完全に開ききる。
今回アポロがメルクリウス号に描いたのは、六年前にも一度複写したことがある作品の一部だ。
だが、六年前に比べて今回は複写した範囲が広い。
嵐の大海原に浮かぶ一隻の船。
幾千もの雷と獣のように荒れる波が船を襲っている。
だが、その奥で、雲を割って差し込む太陽の光があった。その輝きの中に美しい天使の姿がある。
この世界に海という地形は最早存在しない。海は大地と共に呪われた。
だから、その作品に描かれているのは祖父が想像した架空の景色だ。
海とは何か。
嵐の時にはどうなるのか。
嵐を越えた先で船乗りは何を見るのか。
失われた世界に対する憧れの思いが大精霊の心を射止めた。
今宵、ヘルメトスの空に祖父の遺した契約が、異世界の王の力を呼び寄せる。
王の名はトゥエル。雷の精霊を率いる大精霊だ。
トゥエルは己の強大すぎる雷に身を焼かぬように、特別な鎧を身につけているという。
祖父は美しい絵画を見せる代価に、その鎧を借り受ける権利を得た。
メルクリウス号の周囲に紫色の稲妻が走る。
大精霊の力を初めて目の当たりにするダイダは舵輪を握ったままその場でしゃがみ込み、カイルスはその目を見開きながら欄干に掴まった。
アポロは目を閉じる。すると瞼の裏にメルクリウス号の船体が見えた。大精霊トゥエルが契約者であるアポロと視界を共有しているのだ。
メルクリウス号の船体を青と白の装甲が覆う。トゥエルが鎧を一時的に分解し、メルクリウス号に適合するように調整を施している。
木で組まれた巨大な鳥が、神秘の衣をその身に纏う。
顕現できる時間はわずか数秒。しかし、その間はメルクリウス号はいかなる攻撃をも全て弾く。
空蛇が再び身体を膨らませていたが、たとえ万を越える銀を打ち出そうとも大精霊の鎧は砕けない。
「ダイダ! さっきの加速をもう一度やってくれ!」
「よ、よしきた! あと一回なら行けるぞ」
ダイダが大精霊の圧力に慄きながら床の鉄板を勢いよく踏みつけた。
メルクリウス号が、風も星の重力も無視してヘルメトスの夜を貫く。
だが、その速度を持ってして、大精霊の鎧は剥がれない。
鎧にはトゥエルと同じ魔法を駆使する力があるという。
船は加速しながら雷鳴を轟かせる。
まるで船そのものが雷になったかのように、強烈な輝きが槍となって空蛇の胴体に迫る。
アポロは宣告した。
「墜ちろ魔獣。この空はお前のものじゃない」
空蛇の身体は膨らんだまま、ただの一本も針を打ち出すことは叶わない。その前にメルクリウス号の尖った船首が胴を貫いた。
溜め込んだ空気は破裂し、船体を覆っていた紫電が長い魔獣の身体を焼き尽くす。
大精霊の鎧を纏った最速の船が、錬金術師が放った害獣から空を取り戻した瞬間だった。
命を奪うことに対して躊躇はない。元より魔獣は人を脅かす存在であり、身体の大きい個体はそれだけ過去に他者を喰らっている。
ターレックによって辛うじて制御されていたが、楔が外れればすぐに町を襲ったことだろう。
メルクリウス号の被害は皆無。雷の余波も、焼けた空蛇が死に際に放った火炎も、その全てを大精霊の鎧が吸い込んだ。
役目を終えた鎧がこの世界から精霊の世界へと帰るために消失する。
「ありがとう、爺さん。トゥエル」
力を貸してくれた祖父と精霊に向かってアポロは礼を言った。