序章 4
船倉はその構造上、船内の音が届きにくくなっていたのかもしれない。出た途端に戦場の音が耳朶を激しく打った。
「思ったより逼迫した状況のようだな」
ククルの瞳が険しさを帯びる。
剣戟の音、銃声。微かに届く血と消炎の匂いが死を連想させた。
自分だけ死ぬならまだ良い。アポロは勝手に船に乗った立場であり、このような状況に巻き込まれているのは身から出た錆である。だが、王女の命が損なわれれば、ヘルメトスの未来も閉ざされる。彼女が描いた理想は理想のままここで沈む。
見張り台で得た感動を、賊のように襲ってきた魔獣達に奪わせたくはない。そう思ったアポロは鞄から紙と鉛筆を取り出した。ただし、今回取り出した紙は甲板でスケッチのために使った物より二回り程度小さい。
「おい、まさかこの状況を絵に残そうというのではあるまいな。心意気は買うが流石にその余裕はないぞ」
ククルの言葉にアポロは首を振る。端から見るとそうなるのは分かるが、これはアポロにとって魔法の行使のために必要な準備だった。
「次はオレも戦えるようにしておこうと思ったんだ」
「なるほど、そういうレシピか」
アポロは否定も肯定もしなかった。魔法は弟子や教え子に継承する場合を除き、誰にも構成を明かしてはならないというセオリーがある。効果や使い方が漏れれば、そこから法則が破られてレシピを破壊される恐れがあるからだ。ククルも当然それを理解しているはずなので、アポロが返事をせずともそれを咎めることはなかった。
小さな紙に川と橋の絵を簡単に描く。書き終えた絵は鉛筆の側面に巻き付けて、用紙に元々着いている糊で留める。これで事前準備は完了。アポロは護身用の武器を一つ用意することができた。
「道は分かるか?」
アポロの作業が終わるタイミングを見計らっていたのか、ちょうどククルが声をかけてきた。
「分かる。船尾に向かうなら廊下を左。右に行けば脱出艇がある場所に出られる」
「船尾付近に打ち込まれたであろうアンカーを外して状況を好転させるということも考えていたが、戦いの音の激しさを聞く限りそれは辞めたほうが良いだろう。この船は遅かれ早かれ陥落する。大人しく脱出艇に向かうぞ」
異論は無かった。護身用の魔法だけで、オルグと本格的な戦闘を行う事態は避けたい。何より、姫様を連れて激戦地に向かうのは、爆発物を持って火薬庫に突入するようなものだ。
身を低くしながら廊下を駆ける。道中で厨房や客室の様子も確かめたが、既にもぬけの空であり、乱された調度品だけが残されていた。おそらく乗客や非戦闘員は皆避難したのだろう。血痕は少量しかない。ここで犠牲になった者はいなさそうだった。
廊下の突き当たりが見えてくる。勢いをなるべく殺さずにそこを曲がる。瞬間、血の匂いが一段と濃くなった。
「う……」
目にした光景に思わず一歩下がる。
倒れた船乗りと、その上にのしかかるオルグ。鬼の左手が船乗りの肩に深く突き刺さっていた。床に血が零れて赤い水溜まりを作る。そこに爪で切り取られた肉と、主を守ることができなかった剣が転がっていた。
しかし、奇跡的にも船乗りはまだ無事だ。アポロとククルが訪れたタイミングは、今まさにオルグが獲物にとどめを刺そうという時だった。不気味なうめき声を上げながら、怪物は船乗りから爪を引き抜き、それをもう一度刺すために振り上げる。
「やめろ!」
ククルがきつく叫ぶとオルグの動きが停止した。壊れかけの人形のようにぎこちない速度で、オルグの角がこちらを向く。楽しんでいたところを邪魔されて不快だったのか、口の形は険しい。
襲われている船乗りもククルに気づき、掠れた声を出す。
「姫様……逃げて」
オルグが立ち上がる。装備した胸当てと腰の鎧から血が滴り落ちる。
「鍵は解ける……」
ククルは応戦するために呪文を唱えはじめた。しかし、相手が先手を打つ。
「危ない!」
アポロはククルの頭を掴んで強引に身体を屈ませた。オルグが落下していた船乗りの剣を右手で拾い、それを投擲してきたのだ。武器を投げるのに慣れているのか、放たれた刃は先程までククルの後頭部があった場所をまっすぐに通過した。
当然、ククルの魔法の行使は途絶えた。日々戦いに明け暮れているような獰猛な魔獣がその隙を見逃すはずもなく、オルグは廊下の板を踏み砕きながらこちらに向かってきた。巨大な左腕はいつでも振り下ろす準備ができているように見えた。
ククルの魔法はもう間に合わない。今必要なのは呪文の詠唱を必要としない攻撃だ。
アポロはポケットから川の絵を巻き付けた鉛筆を抜き取った。
絵を描くという工程が詠唱の代わりとなる。効果が持続するのはせいぜい十五分程度だが、まだ絵を描いてからそれほどの時間は経過していない。
鉛筆を握る右手が一瞬だけ熱くなり、すぐにそれが冷気に変わる。
アポロが描いた簡素な川の絵は、自宅にある祖父の絵に自動的に接続される。そして、祖父が残した精霊との契約が起動し、この場に水が届けられるのだ。
鉛筆を振り上げると同時、発生した水流が思い切りオルグの左腕を弾き飛ばす。間を開けず、今度は鉛筆を反転させて斜めに振り下ろし、その動きに合わせて水流がオルグの身体の側面を叩いた。当たったのは腰の鎧に守られている部分だったが、それでも威力は十分で、オルグの身体は廊下の壁に激突する。
「魔獣と言えども生物だ。脳も頭の中にある。顎を狙って揺らせ!」
ククルのアドバイスを聞いたアポロは、水流を再び操作してオルグの顎を打った。オルグはぶくぶくと口から泡を吹き出し、やがて身体ごと床に沈み込む。命は潰えていない様子だったが、しばらくの間は起き上がってこないだろう。
船上での戦いが終わったわけではない。今も近くから剣と銃の雄叫びが聞こえてくる。それでもアポロは修羅場を一つ潜り抜けたことに安堵し、思い切り息を吐いた。
ククルがその脇を通り抜け、すれ違いざまに肩を叩く。
「大義であった。見直したぞ」
短い言葉ではあったが、アポロは命を賭した甲斐があったと思えた。あそこで動かなければ、彼女の声を聞くことはもうなかったのだ。
駆け出したククルは痛みに呻く船乗りの側に行き、まだ無事な方の肩を担ぐ。船乗りはそれを拒否するように首を振った。
「姫様、自分は置いていってください。私はヘルメトスの民ではないのですから」
「馬鹿を言うな。お前達は余が外へ行く為の道を作ってくれた同胞だ。見捨てれば王家の誇りは地に墜ちる。何より余の魂がそれを許さない」
言葉を発する声はまだ幼くとも、そこには既に王家の者として相応しい気高さが垣間見える。アポロは船乗りを担ぐククルを手助けするために近づこうとした。
木が破れる音を聞いた。
見上げると頭上の木板で組まれた天井にヒビが入っていて、それが凄まじい勢いで広がっている。
「下がれ!」
目を剥いて叫ぶククル。アポロは素早く床を蹴って後退した。
思わず耳を塞ぎたくなるような破壊音と共に、先程戦ったオルグよりも遙かに身体の大きい影が降ってくる。
甲板に固定されていたと思わしき荷物も一緒に落下して、降りてきた怪物の背後に落ちた。アポロとククルは完全に分断された状態だ。
怪物……巨大なオルグがアポロの方にいるのは幸いと言うべきか、それともアポロが被った不幸と言うべきか。
「今助けに行く!」
「駄目だ!」
アポロは王女の言葉を強く否定した。
巨大なオルグは尖った爪の切れ味を確かめるように、床の木板をバラバラにして遊んでいる。だが、その角はしっかりとアポロを捉えていた。その向こう側、荷物の隙間でククルが困惑していた。
「姫様はその人を連れて脱出艇に行け」
「だが、お前はどうする! 私のために犠牲になるというのは許さんぞ」
優しさではない。きつく細められたその瞳に宿るのは、自らの定めたルールをそう簡単には破らせまいという覚悟だ。
「もちろん死ぬつもりはない。他にもルートはあるから、こいつから逃げ切って合流する。この状況、集団で動けば全滅だ。一人の方が逃げやすい時もある」
半分は詭弁だ。今はとにもかくにもククルの命を第一優先にするべき状況だ。王女本人はそう思っていないのかもしれないが、王と民では明確に一つの命にかかっている責任の重みが違う。少なくともアポロはそう思う。
未だククルが制止の言葉を叫んでいたが、これ以上この場に留まれば本当に死んでしまうと判断したアポロは、元来た道を駆け出した。オルグが壁を粉砕しながら追跡してくる。彼らの角は動く対象に鋭敏に反応するようにできているのかもしれない。
見張り台で頭にたたき込んだ船内地図を脳内で広げる。先程まで進んでいたルートが脱出艇に辿り着く最短ルートだ。ここからそこに戻るためには廊下を回り込んで厨房を横切る必要がある。
背後を確認すると、オルグとの距離は徐々に狭まりつつあった。このままでは逃げ切れない。何か一手必要だ。
「――――――アゥガァァァアア」
聞いただけで意思疎通は不可能と分かる雄叫びを発しながら、オルグが迫る。アポロは反転し、既に魔法を発動させた鉛筆を突き刺すように前に出す。水流がオルグの足と足の間を抜けた。外したのではない。最初からそうするつもりで発射した攻撃だ。そのまま鉛筆を、円を描くように動かすと、水流がオルグの足に巻き付くように滑る。
足を取られたオルグが横転する。同時に鉛筆に巻き付けていた紙が塵となる。護身用の武器はなくなった。何としても今の内に距離を取らなければならない。
廊下を曲がり、走り、我武者羅に前に進む。体力の限界が近いのか呼吸が苦しい。喉が焼けるように熱い。だが、足を止めている余裕はない。
今更ながら、島の外に出ようというのなら、もっと便利なら攻撃魔法を習得しておくべきだったと後悔する。
アポロが先程使用した魔法はあくまで護身用で、長期戦を戦い抜くことができる代物ではない。一度に作れる数が一つという制限もあるので、予め大量に用意しておくということもできない。一応大技もあるにはあるが、今はそれを準備する隙がなく、また状況も適さなかった。
懸命に走った甲斐あって、予想よりも早く厨房に到着する。念のため慎重に入り口の戸を開くが、そこに敵影はない。他のオルグはまだ甲板で戦っているのか。
船が一瞬大きく揺れる。
船乗りから渡された本によるとこの飛空挺は緊急時でも飛行を持続できるような魔法が施されているらしい。今まで落下しなかったのはその魔法のおかげだろう。
だが、それもいつまで持つか分からない。何となくだが、今の激しい揺れは飛行の魔法が解ける前兆のような気がした。
散らばる調理道具を避け、揺れで傾いた窯を抑えながら前に進む。廊下と違って障害物が多い分、足取りは重くなった。呼吸を整えるのにはいいが、敵に追いつかれるのではないかと気持ちが焦る。
急げ、急げ。
警鐘が早鳴る。もたもたしていれば脱出艇がアポロを置いて発進してしまうかもしれない。
焦燥がことの発覚を遅らせた。
厨房の出口まであと半分というところで、ようやくアポロはその音に気がついた。
木を砕く音、物を蹴散らす音、また砕く音。一定のリズムで近づいてくる怪物の気配に怖気立つ。恐怖に髪を引かれるように背後を振り返った。
あまりの衝撃音に耳が麻痺する。壁を突き破って現れるオルグの巨体。あろうことかこの敵は、各客室を破壊しながら進むというショートカットでアポロに追いついたのだ。オルグは先程転倒させられたことに怒りを覚えているのか、顔が一層険しく歪んでいた。
冗談じゃない。怒りたいのは自分の方だ。そんな文句を言う暇もなく、アポロの身体は気づけば吹き飛ばされていた。
砕けた壁の板が間に入ってくれたおかげで肉を切断されるような事はなかったが、背中から棚に激突し、その痛みで意識を手放しそうになった。
骨の一カ所や二カ所、ヒビが入るか、折れているかしているかもしれない。
立ち上がろうとも身体が言うことを聞かない。思い切り手をつくと、掌に痛みが走った。棚から落ちて割れた皿の破片で切ったのだ。耳が麻痺しているせいで皿が割れたということにも気づかなかった。
オルグは角でアポロの位置を特定し、調理器具を踏みつけながら近づいてくる。大きな影が視界を覆う。その辺に落ちている包丁か何かで抵抗しようかとも思ったが、あいにく近くの器具は先端が丸みを帯びた物ばかりだった。
オルグが長い左腕を振り上げる。先端の爪が、しぶとく点いている電灯の光を反射した。その輝きがアポロの身体を引き裂こうと落下する。
どうせならこの体験もいつか絵にしたかった。アポロは目を閉じながらそんなことを考えていた。
痛みはない。そうか、死とは存外痛みを感じないものだったのかと一人納得する。しかし、いくらなんでも自分の状況に変化がなさ過ぎるのではないかと疑って、その目を開いた。
分厚い背中。丸太のように鍛えられた腕。手先に握るは使い込まれた巨大な鉄の槌。その柄が見事にオルグの爪を受け止めていた。
守り手の茶髪、その背格好には見覚えがあった。
「ホエル……?」
職人は頬に汗を垂らしながら、僅かに首を横に向けた。耳の麻痺が解け、太い声が聞こえた。
「馬鹿野郎が。小僧のくせに一人で格好つけやがって」
ホエルの着ている麻でできた服とその上から羽織った皮のベストは至る所が破れていた。おそらく無理をしてここまでやってきたのだろう。何のために? 考えるまでもない。彼はアポロを助けるためにここまで駆けつけたのだ。
「どうして?」
今もオルグとホエルの力比べは続いている。質問などしている場合ではない。それは分かっていても、アポロは聞かずにはいられなかった。
「脱出艇が出る間際、姫様に頼まれたんだよ。お前の命を拾ってこいってな。お前はヘルメトスの未来に必要なんだとよ」
一度自分の命を諦めたせいか、届けられたククルの言葉は深く染み渡り、視界が涙で歪んだ。未熟者の自分に対してそこまで期待してくれていたのかと、喜びを叫びたい衝動に駆られる。
「つーわけで、本来仕事道具のはずのこいつを持ってここまでやってきたってわけ……よ!」
気合いの声と共に、ホエルは槌を前に押し出してオルグの爪を弾く。その後、流れるような動きで槌を槍のように構えた。職人であるはずのホエルだが、まるで熟達した兵士のような雰囲気だ。
「さて、こいつをどうにかしたら、俺の小舟が停めてあるところまで走るぞ。動く準備をしておけ」
先程ホエルは、脱出艇が出る間際にアポロの救出をククルから頼まれたと言っていた。つまり、既に脱出艇は発進してしまった後で、この戦場から離脱するためには別の手段が必要ということになる。それがホエルの所有する小舟というわけだ。
ホエルが踏み込みと同時に槌を突き出す。
自然な動きだが勢いは鋭く、オルグは回避が間に合わない。
辛うじて胸当てで攻撃を受けることには成功していた様子だったが、それでも目のない顔に苦悶の色が浮かんだ。
「そら!」
突き出した槌がさらに伸びる。オルグは避けるのが難しいと判断したのか、両腕を盾のように構えて防御の姿勢を取った。
「甘いんだよ!」
ホエルは突き出した槌をギリギリのところで振り上げた。先端の鉄塊がオルグの角に思い切り衝突する。
「―――グガァァアアア」
断末魔のような叫び声を上げながら、オルグはそのまま後ろに倒れ込んだ。右手で角を押さえながら右へ左へと厨房の床を転がる。
オルグの角は人間で言うところの感覚器官である。当然そこには神経かそれに類する物が通っているはずで、いくら角が硬い表皮で守られていたとしても、強力な打撃で中を揺らされればひとたまりもない。
数刻前にアポロはククルの助言を聞いてオルグの顎を狙って打撃を放ったが、実際は角を狙った方が効果的だったのか。
「よし、暫く起き上がって来ないだろ」
ホエルは額を拭いながら息を吐く。
「あ、ありがとう」
腰が抜けたような体勢のまま、アポロが礼の言葉を口にすると、ホエルは笑って手を差し出した。
「無茶しやがって。だが、よく姫様を守ったな。画家としては未熟者なんて言われてたが、男としては立派だよ」
差し出された手を掴む。それだけで、相手が自分より数倍鍛えられた筋力と魂を持っていることが伝わる。そんな人物に認められたことが嬉しかった。
「さ、行くぜ。あとは自分達の命を守らないとな」