第五章 3
石造りの町並みに、いつもと違う夜が満ちていた。
相手が生き物であれば病を疑うほど、日常との明確な差が生じている。
空気が淀んでいる。
強い風が吹いている。
風に運ばれて濃い魔素が町にまで流れ込んできていた。その影響で甘い匂いが街道を這っている。
天候の乱れにアポロは僅かに期待して空を見上げたが、地上から星空を確認することはできなかった。あまりにも濃い魔素が空に浮かぶ魔霧の層を分厚くしていて、風程度の力では動かなくなっているのだろう。
光が増えている。
後夜祭を盛り上げるためなのか、街道のあちこちに、いつもは置かれていないランプが配置されていた。
一つ手に取って確かめてみると、それが地下採掘場の物であることが分かった。わざわざ地下から運び出したということか。
周囲を見渡せば、二日間の芸術祭の間でさえ地下にいた炭鉱夫達の姿も確認できる。ランプを運び出すという名目でターレックが地上に呼び寄せたのかもしれない。
アポロはドゥハ、シャーリと共に、街道を伝って王宮前の広場に向かっていた。品評祭で画廊が設置されていた半月型の空間だ。
道中、知り合いの職人に事情を聞いたところ、夜になって突然家にやってきた衛士に、今夜開かれることになった後夜祭に集まるように命じられたという。国民は全員祭りに参加する義務があり、拒否すれば投獄は免れないとまで言われたそうだ。
「何か、錬金術師様の焦りを感じるというか、何をしでかすか掴めない不気味さがありますね」
不気味な頭巾を被ったドゥハが、街道の様子を眺めながら呟く。
「危ねぇと思ったら港に直行だ。いざとなればあたし達の仲間や王都の二人が援護してくれるだろ」
アポロとドゥハの後ろからついてくるシャーリが言った。口調は鋭く、彼女の警戒心が高まっていることが伺える。
彼女は決して楽ではないスラム街の暮らしの中で幾度か修羅場を潜ってきたはずだ。こういう異常事態にはその存在が心強かった。
数刻前、港で知らせを受けたアポロとカイルスはそれぞれ別行動を取ることになった。
カイルスとダイダはメルクリウス号の出港準備。
アポロはドゥハと共に、シャーリと合流してから地上への偵察。
作戦効率を考えるとアポロも船に残った方がいい気もしたが、カイルスは「ターレックのやろうとしていることが分かるのはアポロしかいないかもしれない」と偵察に同行するように提案した。
ドゥハは魔術師であっても、画家としての知識が乏しい。シャーリはかつて宮廷画家だったが、その時に魔法を学ばなかった。両方の知識があるのは確かにアポロだけだ。
今、スラムの住人達は陽動作戦の準備を着々と進めている。準備が整い次第、グランが号令をかける予定だ。彼らが動き出した後、アポロはメルクリウス号からの合図を確認し、港に向かって空賊二人と合流する。
それまでの間は、地上でターレックの動向を見守るつもりでいた。
広場に入りきらず、街道にたむろする民の間をかき分け、何とか目的地に辿り着く。
広場だけはランプではなく蝋燭が闇を照らしていた。
半月型の広場の中央付近には、夜を模したローブを羽織るターレックの姿がある。
蝋燭の光に照らされた長い黒髪が、広場に面した王宮の白壁に魔物に似た形の影を作っていた。それがターレックという男の強欲な内面を表しているようにも思える。
そのすぐ側に、アポロのよく知る女性が立つ。
「……ソラリス」
声を押し殺して呟く。本当は大声で呼びかけてその場から遠ざけたかった。
宮廷画家第一位の証である赤色のカーディガンと金の混ざった黒髪が、陽炎のように揺らめいている。表情は俯いているせいでよく見えない。
「様子がおかしいですね。まるで生気を感じない」
隣でドゥハが冷静に分析する。だが、彼がいかに努力した魔術師であっても、広場の端から分かることは少ないだろう。
この場にカイルスがいないことが口惜しかった。彼がいれば、ソラリスとターレックの繋がりがどうなっているのか、この場ですぐに確認できたのだ。
「さて、皆様。今宵は急な招集にもかかわらず、お集まりいただきありがとうございます。この場は女王ククル様に変わって私、宮廷錬金術師ターレックが取り仕切らせていただきます」
後夜祭の開催宣言は毎年必ず王が行う。これは前代未聞の状況だったが、民衆はほとんど反応を示さない。何人かだけ、いつもと祭りの進行が違うことについて周囲の者と話していたが、それもすぐに収まってしまう。
「それでは、後夜祭をはじめましょう! まずは宮廷画家主席のソラリス殿にパフォーマンスを披露していただきます!」
コウモリが羽を広げるように、ターレックがローブの袖に通した腕を伸ばす。今夜は杖を握っていない。
錬金術師の言動を合図に、ソラリスが広場の石床に放置されていた巨大な筆を掴む。
近くにいた衛士が彼女のパフォーマンスの助手なのか、ペンキの入った桶を数個用意した。桶に入っているのは黒と白に近い色ばかりだった。
「何をはじめる気だ?」
シャーリが紺色の上着の内側に手を差し込む。おそらくそこに武器が仕込まれているのだろう。何が起きても即座に対応出来る構えを取ったのだ。
「桶に入っているペンキの色……嫌な予感がする」
「止めるか?」
アポロの言葉を受け、シャーリが僅かに身を低くした。だが、時期尚早だ。
「シャーリとドゥハはターレックに勝てる? ちなみにオレは無理」
スラム街の二人は暫く顔を見合わせてから、
「トレイかグランを探そう」
と結論を口にした。
本来であれば、賓客であるグランとトレイにはパフォーマンスを一望できる特等席が与えられていたはずだ。しかし、急遽予定変更があったこともあり、そんな席は見当たらない。王宮を守る高い城壁の上には広場どころか町全体を見渡すことができるテラスもあるのだが、そこにも人影はなかった。
既にグランは作戦のために姿を隠したのか、それともまだターレックの近くで賓客を装っているのか、彼らの動きによって、アポロ達の取るべき行動も変化する状況だった。
「ブイレン。起きろ、空からトレイとグランを探してくれ」
布鞄の中で眠っていたブイレンをそっと抱き寄せて周辺探索を頼む。ブイレンは眠そうに翼で目を擦りながらも、事態の深刻さを理解してくれたのか、すぐに飛び立ってくれた。コロニーにいる間に魔力は十分補給しておいたので、いくら燃費の悪い彼女でもしばらくは飛ぶことができるだろう。
視線を一度、広場中央に戻す。
ソラリスが筆に浸したペンキを広場の石床に叩きつけた。場所によっては元々色の付いた床もあるのだが、黒いペンキは下地を容赦なく塗り潰す。それがまるでこの国を上書きする行為に見えて気持ちが悪かった。
筆を振り回すソラリスは明らかに様子がおかしい。
作業に狂いはないが、目は虚ろで、筆を振り回す度に髪が乱暴に揺れる。そういう派手なパフォーマンスを好む画家もいるにはいるが、ソラリスのやり方ではない。彼女はいつも、静かなアトリエでゆっくりと筆を動かすのだ。
その豹変ぶりを見て、否が応でもククルのことを思い浮かべてしまう。ソラリスもまた、女王と同じようにターレックの強い魔力に支配されてしまったというのか。
ソラリスの様子を逐一確かめつつ、同時にグランとトレイの姿を探す。シャーリとドゥハも懸命に視線を左右に動かしていた。しかし、広場を囲む民の数は思った以上に多く、その中からたった二人の人間を探すというのは難しい。
ソラリスのパフォーマンスは進む。
筆先から魔法で黒いペンキを落とし、代わりに先端を白いペンキに浸す。ソラリスの口から小さく聞こえた呪文に反応して筆の先端が細く変化した。
アポロの悪い予感は的中しつつあった。
細くなった筆の先端が黒く塗りつぶされた地盤に小さな点を描画する。
「まずい。あれは複写魔法だ。ソラリスは今、ヘルメトスの星空を複写している」
アポロが言うとドゥハが近くで反応した。
「え? でも複写魔法って絵を一瞬で複製する魔法ですよね」
「情報量が多い絵を複製する時は直接描画することもある。直接描画した分、情報の複製に魔力を回すんだ」
例えばアポロの精霊契約魔法のやり方がそれに該当する。
徐々に完成しつつある星空の絵を見て、広場に集まった者達が騒ぎはじめる。第一位の宮廷画家が民衆の目の前で『星を描くな』という法を破ったのだから当然だ。
ターレックはこれまで密かに国を掌握するために暗躍してきた男だ。それがここにきて騒ぎを引き起こすような行動をソラリスに取らせた。それはすなわち、もはや隠れて行動する必要がなくなったということではないのか。
「待ってください、画家君。複写魔法って確か基本的に対象を見ながらじゃないと発動しないんじゃないんでしたっけ?」
ドゥハの言っていることは正しい。実物が存在しない状態での複写はよほど条件が揃わないと成立しない。
それを成立させている鍵はこの場にいない者にあるとアポロは推測した。
「ククルがいないんだ。もしかすると、ソラリスとククルの視界をターレックが繋げているのかも」
賢者スオウと空賊カイルスが瞳を通じて視界を共有しているように、魔力線を利用して視界の共有を図る。そうすることで、この場から見えない空をソラリスが複写することができるようになる。
例えば今、ククルが魔天の間にいて、その視界をソラリスが共有しているとしたら、複写魔法は十分成立する。
何故わざわざそんなことしたのか。それはソラリスの描く絵の大きさを見れば一目瞭然だった。とてもではないが魔天の間には入りきらない。それほど強大で複雑なレシピを広場の床に再現している。
「アポロ、もう限界だ。勝てなくてもあたし達でターレックを止めよう」
シャーリが上着から曲刀を静かに引き抜く。アポロも彼女の判断に賛成だった。武器を構えるために布鞄に手を差し込む。
その手が別の腕に止められた。
「待って、グランが動くから」
いつのまにか近くまでトレイが接近していた。身を隠すために制服の上から外套を着込んでいる。
彼の両腕が器用にシャーリとアポロの動きを同時に止めていた。その肩にはブイレンがいる。彼女がトレイを呼び寄せてくれたのだ。
トレイの言葉をなぞるように、広場の状況に変化があった。
「そこまでだ。ターレック・コルトナ」
火を噴く山のような声だった。空気は震え、蝋燭の炎が激しく動く。ソラリスの行動を見てざわめいていたはずの民の声もかき消えた。
よく磨かれた靴が広場に降り立つ。闇の中、グランの赤き双眸がターレックを射貫く。
「これはこれは、グラン閣下。どうなされましたかな? まさか、歴史あるヘルメトスの祭りを妨げようとでも?」
いけしゃあしゃあと、紫色に染められた唇が謳う。家族名を呼ばれたことも大して気にしていないようだった。
だが、グランとて、その程度の安い挑発でペースを乱されるような男ではなかい。
「白々しいな。計画の裏は取れている。お前が思っている以上にこちらの調査は進んでいるのだよ」
実際のところ、グランは正式な場所で使えるほどの情報や証拠を得ていないはずだ。アポロはともかくとして、カイルスやダイダの証言が裁きの場で有効になるとは思えない。十中八九、彼の発言ははったりだ。しかし、そう思わせない気迫がある。
グランの発言を補強するように、民の隙間から複数の影が現れた。
彼らは皆、トレイの着用している物とよく似た制服を装備していた。
よく磨かれた三原色の装甲。腰に差した白く輝く刀剣。
王都を守護する騎士十数名がこの場に集っている。
ただし、装備は本物でも、それを着用する男達は本物の騎士ではない。グランはヘルメトスにトレイ以外の戦闘員を連れてきていない。
グランはターレックに圧力をかけるため、スラム街の住人達に騎士の装備を与えて偽装した。
元々はグラン達の船を操っていた船乗りに使う予定だったらしいのだが、船乗りよりはスラムの男達の方が戦えるだろうと判断し、彼らに装備させることにしたという。
騎士に扮しているのはスラム街の者の中でもターレックとの魔力線が途切れた者達である。事故や病で体の一部を損傷している者もいるが、それはそれで戦いの中で失ったようにも見える。
グランが彼らに騎士としての振る舞いを教えた時間は僅か十分。それでも要点だけはしっかりと伝わったのか、彼らの雰囲気は様になっていた。
「随分と用意が良いんですね。まるで最初からこうすることを決めていたかのようです」
騎士の偽装に気づいているとは思えない。しかし、ターレックの余裕は崩れなかった。
ソラリスは一時パフォーマンスを止めている。正気でなくとも状況の変化は理解できるのか。
グランは葉巻を口から外し、煙をたっぷりと吐き出した。
「あらゆる状況を想定して備えておくのが王都で生き残るやり方だ」
それほど攻撃的な台詞には聞こえなかったが、それを聞いたターレックの表情が突如険しくなった。もしかすると、過去に王都での裕福な暮らしを手放さざるを得なかった両親のことを思い出して、世界を憎悪する気持ちが膨らんだのかもしれない。
ターレックはソラリスに命じた。
「構いません。トラブルは無視してパフォーマンスを続けてください」
「おっと、無視は困るな」
グランが素早く片手を挙げる。呼応して騎士に扮したスラムの男達が剣を引き抜き前に出た。よく見ればその動きは不揃いだったが、合図に対応出来ただけでも十分だろう。
彼らの剣の切っ先がソラリスの顎、ターレックの腕に触れる。
傍観していた民達がただならぬ状況であることを察して散っていく。
ターレックは獣の皮のような黒髪の下で体を震わせた。笑っているのだ。
「閣下だけが備えていたわけではないんですよ」
ターレックが指を鳴らす。歴戦の騎士であればその時点で剣を振り下ろしていたかもしれないが、急造の騎士団でそれは叶わない。
濃い魔力の渦が騎士の剣を弾く。グランも数歩後ずさった。
広場の中央を黒色のヴェールが覆う。昨晩見た魔壁とは全く違う雰囲気の障壁だ。
スラムの男の一人が魔力の圧に抗い、剣を振りかぶる。
アポロのそばで、トレイとドゥハがほぼ同時に叫んだ。
「やめろ!」
言葉は届かず、剣は黒のヴェールに激突する。
青い火花が迸った。
青い火花は魔力が生み出す反応だ。法則を与えられた濃い魔力は、特別な目を持っていない者にも視認できることがある。
ヴェールが僅かに震える。
その振動が凶器だったのか、突如、スラムの男の制服が切断された。
「ぐぁっ!」
制服が真っ二つに砕ける。騎士の制服は軽い鎧のような物であり、そう簡単に攻撃は通さないと聞いたことがある。しかし、ヴェールから放たれた魔力のカウンターはスラムの男の体にも届いていたのか、彼はその場で頽れた。
「回収!」
グランが叫ぶ。予め仲間が負傷した際の対応も伝えておいたのだろう。近くの騎士が男を抱えて引き下がる。
グランは悔しそうに葉巻を握りつぶしながら呟いた。
「何だこいつは」
疑問に答えるためか、トレイが前に出た。
「グラン、僕は戦場で何度かこれを見たことがある。魔術師が戦士相手に使う特殊な魔壁だよ。大抵の攻撃を防ぐのと、防いだ際に魔力を使ってカウンターを放ってくるのが特徴だね」
「反則技じゃねぇか」
この魔壁に関してはアポロも文献で少し調べたことがあった。
長時間展開できず、魔壁を使用している本人は展開中に他の魔法を新たに発動させることができない。そういった制限はあるものの、状況によっては有用なので、一部の国でレシピが共有されているらしい。ターレックはどこからかそのレシピの情報を得たということだ。
ドゥハが動いた。
魔壁の前まで移動してその場にしゃがみ込む。
「ドゥハ、何するつもり?」
「レシピを壊します」
アポロの問いにすかさず答えたドゥハは、腰に下げた巾着から見覚えのある筒を取り出した。ダイダが使っていた解析用の魔道具だ。
「それ……」
「ダイダさんから借りてきました!」
数十秒後、筒から現れた羊皮紙が光り、空中に黒い記号の列が刻まれる。ターレックが所持しているであろう魔壁のレシピを魔導具が解析しはじめたのだ。ドゥハは頭巾を剥ぎ取り、オレンジ色の瞳で文字と記号の列を懸命に辿る。
解析が最後まで終わらぬうちにドゥハが叫んだ。
「画家君! 君、水を操れるだろう? それをトレイさんに向かって放って。トレイさんはそれを魔壁の方向に弾くんだ」
目的を把握する前に、アポロの体は指示に従うために動いていた。布鞄から鉛筆を抜き取り、『名を記せ』と呪文を唱える。トレイは肩にブイレンを止まらせたまま、既に剣を構えている。ブイレンを巻き込むかもしれないという不安は一切ない。あの騎士がそんな下手を打つなどあり得ない。
言葉すらかけずにアポロは水をトレイに向かって放つ。トレイは剣の背を使ってそれを容易く弾いた。おそらく剣圧で押し出した魔素を使って流れを変化させたのだろう。
流れを変えた水流が黒のヴェールに当たる。ヴェールは先程と同じく震えたが、徐々にその挙動がおかしくなっていく。
「ドゥハ、お前何をやらせたんだ?」
シャーリが問う。
「あの魔壁は内側に対する攻撃に反応する魔法でした。流れ弾が当たった場合は自動的に魔壁が解除されるという条件が与えられています」
流れ弾が当たった際に魔壁を解除されてしまうという弱点をあえて作ってあるのは、レシピの破壊を防ぐためだろう。強力な魔法を長く使うために、弱点をレシピに明記しておくというのはよくあるやり方だ。そうすることで矛盾の発生を防ぐ。
「よくやったぞ、ドゥハ青年。戦えない者は下がれ! もっと離れろ!」
ヴェールの解除に合わせてグランが周囲に指示を出す。民は広場から脱出し、スラムの男達は再び剣を構えた。
黒のヴェールが溶ける。
『示せ。主へその因果を預けよ』
溶けるヴェールの奥で錬金術師が笑いながら呪詛を吐いていた。呼応するのは黒いヴェールの中で完成させられたソラリスの描いた星空だ。
「野郎!」
グランが周囲の騎士に合図を送るも、魔法の発動には間に合わない。
その時、ターレックの呪文に反応して、剣の形をした塔から青白い輝きが飛来した。
光はそのままソラリスの描いた星空に吸い込まれ、刹那、拡散した光が広場を駆け巡る。
風圧で蝋燭の炎が消える。
広場が一時静まる。
静かな夜の中でアポロは身震いした。
おそらく、ターレックの魔術が発動してしまった。