第五章 2
アポロはこれから精霊契約魔法に使う複製画を甲板に描く。
空蛇に対抗するためにいつもよりも大きな場所を使い、大きな絵を描く。複製する箇所が増ええれば増えるほど、呼び出せる精霊の力も大きくなる。
「全部出したぞ」
「ありがとう。早速描きはじめよう。カイルスはペンキの缶を持ってオレについてきてくれ」
「ああ」
一から絵を考えて描くわけではないため、下書きは施さない。アポロは甲板に降りるとすぐに刷毛を取って黄色のペンキに浸した。黄色と紫色はかなり消費する予定なので、多量に用意してある。
「作業中は話しかけない方がいいのか?」
刷毛を床に下ろす前にカイルスが尋ねてきた。
「何だよそれ。何か話したいことでもあるのか?」
「まあな」
カイルスの表情を見るにどうやら雑談というわけではないらしかった。
「考えて描く作業じゃないから、話すくらいは大丈夫だよ」
「そうか」
刷毛を床に触れさせて迷わずに滑らせる。ペンキが飛び散った部分は布で拭き取り、ペンキの量が多すぎる箇所、色が濃すぎる箇所は絵の具だけを削る魔法を使用して微調整する。アポロの布鞄の中に忍ばせてあるレシピ手帳には、複写魔法と転写魔法以外にも作品制作に便利な魔法が多々記録されていた。手作業が早いところは手作業で、魔法を使った方が早いところは魔法で、優秀な画家になればなるほどその使い分けが上手いというが、アポロはその辺、まだまだ宮廷画家第一位のソラリスには及ばない。
数刻ほど手を動かし、刷毛を一度止めたところでカイルスが問いかけてくる。
「心変わりのきっかけは何だったんだ?」
心の門を思い切り開け放つような、単刀直入な質問だった。何かを尋ねるときも彼には迷いがない。
何を聞かれているのかは理解できる。何故、アポロが盗みを働いていたスラム街の住人や空賊と手を組む気になったのかということだ。
「考え直すきっかけの一つは、寝ている間に見た夢だ」
「夢?」
馬鹿にされたり、笑われたりするかもしれないと覚悟していたが、カイルスは真剣に話を聞いている。
「夢の中でククルと会って叱られたんだ。細かいことを気にするな。大事の前の小事だろうって」
「アポロの話で聞く女王は豪胆だな」
カイルスが感想を言うと、ブイレンが船首から飛び立ち、マストの周囲を旋回した。
「手を止めるナ。手を止めるナ」
「ああ、はいはい、分かってるよ。厳しい奴だな」
再びペンキの缶に刷毛を浸して、描画の準備をする。
「すまない。俺のせいで相棒に怒られてしまったな」
「いいよ。話しながら作業できるのに手を止めていたオレが悪い」
木板の上をペンキが巡る音が、岩と空でできた港に響き渡る。刷毛を持ち上げた時だけ訪れる静寂を狙ってカイルスはさらに問うた。
「それだけじゃないんだろう?」
使うペンキの色を黄色から紫に変える。脳の一端で祖父の残した絵画を思い起こしながら、一方で自分の気持ちを整理していく。自分の絵を描く作業ではないからこそできることだった。
「起きてすぐシャーリと子供達が食事をご馳走してくれたんだ」
カイルスはペンキの缶を持ってアポロについてくる。乾いていないペンキの部分は器用に避けていく。流石の足運びだ。
「量もあったし、栄養バランスも整ってた。でも、何より驚いたのは料理の見た目がとても綺麗だったことだ。色を判別できないシャーリが料理の色合いを整えるのは大変なはずだ。もちろん自分の分、子供達の分も一緒に作っていたわけだけど、そうして手間暇かけて作った食事をオレにも提供してくれたってことが素直に嬉しかった」
「それは惜しいことをしたな。俺達もここではなく小屋で過ごせば良かったか」
『ここ』というのはもちろんメルクリウス号のことだろう。どうやらカイルスとダイダは船のキャビンで寝泊まりしていたらしい。
「惜しいことをしタ。あのスープは美味かっタ」
まだ飲み足りないのか、ブイレンが名残惜しそうにくちばしを開閉する。
アポロは小さめの刷毛を使って紫色の細かな線を床に刻んでいく。
「その後、シャーリとドゥハは数日前にやったことを謝ってくれた。その時点でオレは自分の方に非がなかったのかとかそういうことを考えはじめていて、そしたらやっぱりオレにも悪いところというか、過剰な部分があったってことに気づいた」
一度言葉と刷毛を止めて腰を伸ばす。床に上体を近づける姿勢は腰に負担がかかるのだ。
「それはシャーリに言ったのか?」
カイルスの言葉に刷毛を握り直そうとした手が止まる。
「え? 言ったけど……」
「あいつは腹を立てたんじゃないか?」
小屋で話した時のシャーリの不満気な表情と剣幕を思い出す。
「ああ……凄い勢いで怒られたな」
「そうだろうな。シャーリ達が謝る場で逆に君に反省されてしまったら形無しだ」
言われてみると確かにその通りで、彼女の態度も腑に落ちる。改めてあの時に場を収めてくれたドゥハにアポロは感謝した。
「まぁ、流れはともかくそこまで腹を割って話したのなら、共に戦うことにも抵抗はなくなるか」
「……オレはいい加減かな?」
カイルスは微笑んだ。爽やかな笑顔だった。
「まさか。君は法を執行する立場にないのだから、君の判断には誰も文句を言えまいよ」
アポロは密かに胸を撫で下ろす。
かつて前に進む熱があるとククルに評価されたアポロだったが、今回の件で一度足を止めるととことん弱いということを知った。進んでいる時は足が自動的に動くにもかかわらず、再出発しようとすると周囲の安全が気になって仕方がない。
「ところで……俺達のことはもういいのか?」
カイルスはペンキを抱えながら片方の手で自分自身を指差す。
「ダイダから空賊になった経緯を聞いたんだ。カイルス達は別に誰かから何かを奪うようなことをしていなかった。だから気にしない」
「……あのお喋りめ」
色素の薄い瞳をコロニーのある方向に向けて呟く。彼の悪態を聞くのは珍しい。
「聞かれたくなかったの?」
「若気の至りだからな」
表情をやや前髪の伸びた灰色の髪で隠す。さらに珍しいことにどうやら彼は照れているらしい。
「にしても、盗みをやってないのに空賊って呼ばれてるんだもんな。これまで一体どんな無茶をしてきたんだよ」
カイルスは瞼を閉じ、眉間に皺を寄せる。
「大型魔獣の体内に生成されるという宝石がどのような物なのか確かめるために、危険区域に入って魔獣の口の中に飛び込んだことがあった。あとは、そこでしか見れないという景色を目撃するために一度入ると出られなくなると評判の鏡の森に入ったこともある。……宝剣を得るために傭兵の町で闘技大会に出場したなんてこともあったか」
アポロの想像を遙かに上回る危険な状況が次々とカイルスの口から語られる。しかし、それが嘘とも思えなかった。何せ目の前にいるのは競り際の時間を引き延ばすために己の資財を使い果たした男だ。それくらいのことはやるだろう。
アポロはダイダに言われた言葉を思い出す。
「どうした? 不機嫌そうな顔をして」
「ダイダにオレとカイルスは似ているって言われたんだ。だけど、いくらなんでもオレはそこまで無茶をやらない」
「そうか? 君も十分無茶な男だと思うが? 六年前に飛空挺に忍び込んだことを忘れたわけでもあるまい」
何か言い返そうと懸命に言葉を探すも見つからない。見つからない以上、やはりアポロとカイルスは似ているということになるのか。アポロは筆を持ったままその結論を受け入れられずに唸った。そうしていると再びブイレンに「手を止めるナ」とつつかれる。
カイルスはそんな様子を見てひとしきり笑った後、ぽつりと呟いた。
「ナクタネリアで賢者の瞳を受け取るという選択をしていなければ、俺は無茶を繰り返す男になっていなかったんだろうな」
ナクタネリア王国で獣を封印するために留まっているという賢者姫スオウは、今もカイルスの瞳を通じて世界を見ている。彼が無茶を繰り返すのは彼女に美しい物を見せるためだ。
「何だよ、後悔しているのか?」
「そんなわけはない。あの時の選択を僅かでも後悔する気持ちがあるのなら、俺はとっくに空賊なんて家業を辞めている」
「にしては、賢者姫の話を聞かれたって知った時に恥ずかしそうにしてたな」
「それとこれとはまた話が別だ。自分のルーツを誰かに知られるというのは、子供の頃に寝小便をしていたと知られるような、そんなむず痒ささがある」
「何だそれ。変な例え話だな」
何とか例えを理解しようと試みるも結局よく分からない。ただ、本人が気恥ずかしいと言うのであれば、これ以上追求するのは意地が悪いと思ってアポロは作業に戻ることにした。
既に黄色を塗った場所に白のペンキを塗り重ねる。色の重なりが上手くいかなかった箇所は魔法で調整を行う。
ペンキの色を変えるタイミングで、ふと、カイルスに瞳を譲った賢者に関して一つだけ質問が浮かんだ。
「なぁ、カイルスは俺の絵を気に入ってくれたみたいだけど、スオウはオレの絵を見て喜んでくれるのか?」
カイルスがアポロの絵の完成を望むのは、スオウにそれを見せるためでもあるのだろう。
だが、完成した絵を見てスオウが何を思うのか、それを知る術は果たして存在するのか。
カイルスは髪をかき分けて両の瞳を露わにした。
「魔力を視認することも、視界をスオウと共有することも、この瞳の持つ機能の副産物でしかない。常に全開というわけにはいかないが、この瞳があることで俺はスオウと感覚を共有することができる。だから、彼女が強い喜びを感じて、それを俺に伝えたいと思えば、その気持ちは必ず届けられる」
「じゃあ、オレの絵を初めて見た時のスオウの気持ちもカイルスは知ってるってことか?」
「ああ。だけど言語化はできない」
「何で?」
思わず反射で口から出た問いだったが、それがカイルスにとっては余程意外な物だったのか、少々大袈裟にも見えるくらいに彼は首を捻った。
「言語化できない思いを誰かに伝えるために、君はあの絵を描いているんじゃないのか? それならそれを見て得た感動もそう簡単に言語化できるはずがないだろう」
ぐうの音も出ない返答だった。アポロは先程口にした自分の問いを頬が赤くなるほど後悔した。
アポロは六年前に見た星空から受け取った感動をククルに伝えるためにその絵を描こうと誓った。今絵に起こそうとしているのは偽物の空だが、あの空にも本物の空と見紛うほどの美しさと、歴史を重ねた偽物だからこそ発せられる怪しげな魅力がある。
それが言葉で伝えられる物であるならば、最初から絵という手段は選ばなかっただろう。
「王宮で散々自分の絵を言葉で批評されたせいか、そんな当たり前のことも忘れてたな」
反省すると同時に宮廷画家として過ごした王宮での日々を思い出し、どこかへ逃げ出したい気持ちに駆られる。
「随分揉まれたようだな」
「ああ、それもターレックが自分のための絵を作らせるためだったのかと思うと頭が痛くなってくる」
今思えば王宮で蔓延していた『宮廷画家は王の為にこういう絵を描かなければならない』という価値観は、ターレックが傾国の絵を生み出すために用意した地盤だったのだろう。
アポロはそれに対して必死に抵抗していたつもりだったが、それでも多かれ少なかれ影響があったということが今の会話で判明した。魔力線で繋がれていなくともそうなるのだ。今の王宮で働く者達の思考がどの程度ターレックに掌握されているのか、それを考えると寒気がする。
話を続けている間に、甲板に描く絵は最後の仕上げの段階に入っていた。青いペンキを魔法の力を借りて薄め、絵の輪郭部分に幕を張るように、ゆっくりと染めていく。
直前にターレックのことを考えたせいか、手の動きに合わせるように脳裏に一つずつ戦う理由が浮かんだ。
自分の夢のため。
ククルの夢のため。
カイルスとダイダの夢のため。
共に食事をして言葉を交わしたシャーリやドゥハ、国のために戦いたいと言ってくれたスラムの者達のため。
王都のために協力すると言ったグランとトレイのため。
ヘルメトスという生まれ育った国のため。
傾国の絵画に乱されている世界のため。
自分一人ではどうすることもできないような事態だが、今のアポロには仲間がいる。
ブイレンが自分もついていると言いたいのかアポロの肩の上で足踏みをする。自分を常に支えてくれている彼女のためにもこの勝負は負けられない。負けた瞬間、先程感じた寒気が島を支配して、世界すら飲み込もうとするだろう。
「カイルス」
今の内に言っておこうと思って灰髪の空賊に声をかける。
「何だ?」
「カイルスやスオウがオレの絵を見て何かを感じてくれているっていうのは本当に嬉しいことだ」
絵から一度手を離し、カイルスと向き合う。岩の隙間から風が流れ込み、運ばれてきた魔霧が周囲を包む。だが、アポロもカイルスも互いの視線を見失うことはない。遠く離れた国にいるスオウもまた、アポロを見て、アポロの言葉を聞いているはずだ。
「だけど、この絵はやっぱりククルに見せたくて描きはじめた作品だから、カイルスにこれを売ることはできない」
「……ああ、そうだろうな」
そうは言いつつも、カイルスはどこか寂しそうな顔をする。
「だけど」
その顔を、言葉で無理矢理持ち上げた。
「オレはこの国をターレックから取り戻した後、たくさんの絵を描く。言葉にできなくても誰かに伝えたい思いや、描きたい物はまだたくさんあるんだ。あのコロニーの町も、この船も、オレはきっと描いてみせる。空賊も賢者姫もまとめて驚かせてやるさ」
一時指針が狂っていた羅針盤が明確に目的地を示す。
六年前より蓄えた心内の熱が走り出せとうなりを上げる。それだけで足下のメルクリウス号が出航してしまいそうなくらいだった。
「カイルス。そのためにオレをもう一度だけ魔天の間に連れて行ってくれ」
それは数日前、スラム街の洞穴でカイルスから受け取った「お前の絵を買うぞ」という言葉にたいする回答だ。
この絵を売ることはできなくとも、この先何度でも心を動かしてみせる。
これはそのために共に命を賭してくれという頼みだ。
伝説と謳われる灰髪の空賊は笑う。
「お安い御用だ」
少し先の港へ連れて行くような調子で彼はアポロの頼みを引き受けた。
それぞれの思いが約束となる。それはかつて飛空挺の見張り台でアポロとククルが交わした誓いと同じ熱を湛えていた。
「とは言ったものの、俺やダイダの力だけではおそらくこの空は攻略できないだろう。アポロ、契約の絵はどうだ?」
カイルスが甲板の上でしゃがむ。そこにあるのは祖父が唯一精霊そのものを描いた作品の複製だ。
アポロはペンキの付着した手を床に下ろし、最後の仕上げとして青いペンキの幕を完成させる。それは祖父が精霊の姿に深みを与えるために編み出した手法だった。
「完成だ。おそらくこれで発動する。この力を使えば空蛇も突破できるはずだ」
祖父の遺した精霊契約魔法のほとんどは護身用の域を出ない。その証拠に、昨晩の戦いでトレイには通じなかった。
しかし、今メルクリウス号に描いた契約だけは、攻撃の矛となる可能性を秘めている。
通常の契約魔法とは違い、消費する魔力は絶大。だが、それを補う仕組みも既に用意されていた。
アポロは額に溜まった汗を拭って一息つく。ブイレンが「お疲レ」と労いの言葉をくちばしから零す。
「さて、それでは明日に備えて休むか。今日は君もキャビンを使うと良い」
カイルスの提案に異論はなかった。明日の夜仕掛けるのは小規模とはいえ戦だ。そこに向かうにはそれなりの覚悟が要る。おそらくシャーリには家族だけで過ごす時間が必要だろう。
と、今夜の寝床を定めた時だった。
港の奥、コロニーへと続く細い洞穴から急ぐ足音が聞こえてきた。その数二つ。
アポロは布鞄に手を伸ばすが、それをカイルスが止める。
「片方の音はダイダだ。だが、これはおそらくただ事じゃないな」
足音を聞いただけで相手の状況をある程度把握出来るのは、長年の付き合い故か。
彼の言葉の通り、洞穴からダイダが飛び出してくる。その横を走るのは頭巾で頭を覆ったドゥハだ。
「ダイダ、どうした!?」
船の欄干から顔を出してカイルスが尋ねる。しかし、ダイダは急いで走った代償か息を整えるので精一杯の様子だった。代わりにドゥハが叫ぶ。
「旦那、大変です! 町に偵察に向かったスラムの仲間が教えてくれたんですけど、ターレックの奴、今夜いきなり後夜祭を行うって宣言したらしいんです」
一日前倒しで開催される後夜祭。
港に集った全員が予感する。
錬金術師が予定を大幅に変えると言い出したのだ。そこには確実に何かしらの意味がある。
外から流れ込む風が一際強まって、メルクリウス号の船体を軋ませた。
おそらく今夜、再びヘルメトスの町が荒れる。
アポロは好き勝手やろうという地上の錬金術師を岩盤越しに睨み、血が零れそうになるほど歯を食いしばっていた。