第四章 4
シャーリの小屋は当然のことながら、スラム街にある。
しかし、小屋の外に出てみて分かったが、そこはつい先日カイルスとアポロが踏み込んだ洞穴とは違う場所だった。
また、アポロは以前にも身を隠すための外套を購入するためにスラム街の闇市に顔を出したこともあったが、そことも景色が異なっている。
「あたしらは衛士に見つかると牢屋に入れられる身だ。一カ所に留まっているといざという時に一網打尽にされちまう。だから、生活拠点は地下にいくつかあるんだ。ここは一度も見つかったことがない、あたし達の最後の砦。コロニーって呼んでる」
シャーリが腕を組み、誇らしげに町を語る。
砦という言葉が大袈裟とは思えない程、スラムの作りはしっかりとしていた。
地下採掘場より少し狭い程度の大空洞。
頭上は岩盤が覆い、足下には適度に草が生えている。
草地の上には生活に必要な様々な施設があった。土地の一部は島の外に面していて、そこから魔霧と雲に覆われた空が見える。
「個人で小屋を建てている奴もいれば、あそこにある集合住宅に部屋を作っている奴もいる。どの建物も、あたしら皆で建てた」
シャーリが小屋の隣にある長方形の建築物を指した。
木材と鉄、僅かな煉瓦で作られたその建物をスラムの住人達が頻繁に出入りしている。彼らは皆、手に何かしらの道具を持っていた。それぞれが生活のために働いているのだろう。
「あっちの農場や畑も自分達で作ったのか?」
集合住宅のある区画から公園と空き地を挟んだ反対側に、牛や豚、鶏などの家畜が飼育された区画があった。その隣、外に面した崖の近くには作物や樹木が植えられた畑もある。畑には傘を被せた電球がいくつもぶら下がっていた。普通の電球に比べて放つ光が暖かい。太陽の代わりなにしているのかもしれない。
頭巾を被ったドゥハが答える。
「そうです。自給自足のために全部自分達で用意したんですよ。水や光、栄養周りは俺の構築した魔法や魔導具が使われてます」
「もしかして、スラムにいる魔術師ってドゥハ一人なのか」
「そうですね」
アポロは驚いた。町作りに魔法が使われるという話自体は珍しくない。そもそも魔法とは人々の生活を豊かにするために編み出された技術である。しかし、町の機能を魔法で構築する際は複数の魔術師、もしくは弟子をたくさん抱えた魔術師が総出で作業にあたるという。一人で全て担うというのはかなりの労力がかかるはずだ。
「ああ、でも魔法を作ったのはオレ一人ですけど、それ以外の部分では常に皆に手伝ってもらいました。物資の調達とかね。そういう助け合いでここは成り立っている」
「皆、上の町での生活で培った経験を忘れてねぇのさ」
シャーリの付け加えた言葉でアポロは自分の暮らしていた地上の町も同じだったことを思い出した。
誰かの家を建てる時は皆で力を合わせ、時には喧嘩もしながらデザインを決めていく。
誰かが病にかかれば、近所の者が医者を呼ぶ。
余っている材料は足りない誰かに譲り、完成した作品は皆で見せ合って商品になるかどうか検討した。
特に祖父が生きていた頃は住人同士の繋がりが強固だった。ヘルメトスは皆で協力することで出来上がった町だと祖父は何度も自慢していた。
今、ヘルメトスの地上の町では民同士の繋がりが徐々に希薄になっている。今でこそ、祭りという特別な雰囲気のおかげで町が一体化しているように見えるものの、それはターレックが祭りという仕組みを必要としているからに過ぎない。
一時は薄れていく民の繋がりを時代の流れと考えたこともあったが、今はそうではないということをアポロは知っている。
ターレックは民同士の繋がりを断ち、代わりに己一人と民を接続した。民はそれを知らず、国には少しずつ毒が回っている。
しかし、この地下の町には、正常だった頃のヘルメトスの空気が残っている。
それは数日前の視野が狭まった自分では到底気づけないことだった。
「良い町だな。いつか描きたいくらいだ」
アポロが呟くと、ドゥハが頭巾を震わせて笑った。
「宮廷画家に絵の題材にしてもらえるんなら、ここを作った皆も鼻が高い」
「あたし達はその皆を集めないとな。……ったく、人使いの荒い空賊様だぜ」
シャーリはカイルスへの悪態を吐きつつ集合住宅の方へと向かう。ぼんやりその背中を視線で追っているとドゥハに耳打ちされた。頭巾で隠した頭が近づいてくる姿が何とも不気味だ。
「あれでも喜んでるはずです。姉さんは照れ屋なんですよ」
「おいこらぁ、ドゥハ! お前もこっちだろうが」
何となく自分の話をしているという予感があったのか、シャーリが振り返ってドゥハを怒鳴りつける。
慌ててドゥハがシャーリに追いつこうと駆け出す。アンバランスな足運びが少し間抜けだった。
「それじゃあ、アポロ。また後でな」
「画家君、いろいろ話を聞かせてくれてありがとうございました」
二人はアポロに向かって手を振りながら離れていく。鞄に入っていたブイレンが頭だけ出して「またナ」と挨拶した。
二人が集合住宅の中へ消えていくのを見届けた後、アポロは足をスラム街の中央へと向ける。
そこには柵でしっかりと囲まれた公園があった。
公園の中はおそらくシャーリ達が作ったと思われる木製の遊具の連なりが占拠している。スタートからゴールまで、遊具を踏破する速度を競い合う子供達の姿が思い浮かんだ。
その遊具に対して懸命に挑戦する大人が一人。
カイルスだ。
どこを目指しているのかは分からないが、彼の表情は実に生き生きとしている。
体が子供に比べて大きい分、逆に攻略が難しいのではないかとも思ったが、カイルスは次々と器用に遊具を突破していった。狭いアーチは背中を思い切り曲げてくぐり、平均台は跳躍で一気に飛び越える。
昨晩とは格好が違う。もはや軍服で身分を偽る必要がなくなったからだろう。生地を薄くしたコートのような老竹色の上着を羽織っている。動きやすくするためか左右に二カ所スリットが入っていた。
「いい歳してあやつは何をやっとるのかのう」
木製遊具の手前に作られた藤棚の石ベンチにダイダがいた。季節がずれているため、藤棚に花の彩りはない。
ダイダもまた、昨晩とは違う服装だ。
襟の広いシャツに短パン。額には分厚いゴーグルがかかっている。
昨晩、彼は宝石の付いた上着を早く脱ぎたいと言っていた。カイルスもダイダも、今の服装が本来好む格好ということなのだろう。
「アポロ、目が覚めたんじゃな。体調はどうじゃ? ターレックに受けた魔法の呪いは自然治癒されていたみたいじゃが……」
「オレ、呪いなんかかけられていたのか」
言われてみると黒い炎をぶつけられたような記憶がある。黒は呪いの強い魔法であることを示す。自然治癒したとダイダは言ったが、アポロは不安になって改めて自分の体の調子を確かめることにした。すると、ブイレンが鞄から這い出し、脇腹をつつきながら言う。
「呪いは残ってなイ。体の調子が悪くないならもう大丈夫ダ」
彼女には危険な魔力を探知する能力が備わっている。彼女がそう判断するのなら、本当に大丈夫なのだろう。
「ほう。あれだけ強い魔法を受けても完全回復できたとなると……お前さん、事前に何か対策でもしとったんか?」
「いや、オレは防御に関する魔法は何も覚えてないから対策なんかできやしない。何で自分が助かったのかも分かってないんだ。オレが屋根から落ちた後何があったんだ?」
「あいつが無謀にもお前さんと一緒に飛び込んで、横穴に引っ張り込んだんじゃ」
アポロが黒い炎を受けて落下した縦穴は、スラム街に続く横穴が存在した。前日、アポロと共にスラム街の洞穴に入ったカイルスは当然そのことを知っていたため、アポロと一緒に縦穴に飛び込むという決断ができたのだろう。とはいえ、一歩間違えればそのまま縦穴の底まで落ちる。ダイダに無謀と言われても仕方ない。
「儂らは船で一旦離脱して、それからシャーリとドゥハの案内で別ルートからお前さん達を迎えに行った。正直、二人の無事な姿をこの目で確かめるまでは気が気じゃなかったわい」
「悪い。心配かけたんだな」
ダイダは二人と言った。つまり、アポロのことも気にかけてくれていたのだ。
「いや、儂がもっと早くターレックの接近に気づいておれば回避できた事態じゃから、お前さんが謝ることはない。第一、儂らはその……嘘をついてたからのう」
ダイダは申し訳なさそうに下を向いた。
「それは納得してる。お尋ね者なんだし、そう簡単に正体は明かせないだろ」
「まぁ、そうなんじゃがの」
アポロが納得していると言っても心苦しさは消えないのか、ダイダは俯いたままだ。
「あんたもカイルスも変わってるよな。オレ、空賊ってもっとあくどい連中だと思ってたよ」
素直な感想を言うと、ダイダは俯いた頭を上げて痛快に笑った。
「そりゃあ、儂らは他の空賊からも嫌われとるくらいだからのう。いろんな人間から変わってると思われとる」
「へぇ、何で嫌われてるの?」
ダイダはゆっくりと上を見る。視線の先ではカイルスが、遊具の順路を無視して上に登りはじめていた。
「あやつは弱者から何かを奪うことを酷く嫌う。空賊として旅をしようと決めた時、法を無視することはあっても人の道は外れないようにしたいと言っておったな。他の空賊の仕事を邪魔したりもした」
それはアポロと似た考え方だった。空賊と呼ばれる立場でありながら、盗むこと、奪うことを否定する。その生き方は矛盾しないというのか。
「じゃあ、何で空賊って呼ばれてるんだ。それに、賢者って呼ばれる姫から瞳を奪ったことはあるんだろ?」
「空賊と呼ばれているのは、美しい物を見るためであれば相当の無茶をするからじゃな。危険域に勝手に入ったり、国庫に保管されている物を暴いたり。できるだけ他者に迷惑がかからんように配慮はしているが、為政者からしたら結局目障りなんじゃろう」
つまり、この国で昨晩やろうとしたようなことを他の土地でもやってきたということだ。
星空を描くことを禁じられようとも、その絵の完成形が美しくなると期待できるのであれば、王宮で衛士を無力化して、立ち入りを許されていない塔に登る。確かに、たとえ奪うという行為をしていなくとも、その在り方は空賊と称されるに相応しいのかもしれない。
「そんな生き方をするようになったきっかけが、ナクタネリア王国の賢者姫との出会いじゃった」
ダイダは絵本を読むような調子で、賢者と空賊の物語を語った。
『ナクタネリア王国という国がある。
ヘルメトスと同じくらい小さな島にある国で、そこには一体の獣が封印されていた。
その獣は、精霊より荒々しく、魔獣よりも遙かに気高い。
実体は存在せず、魂だけが獣の形をしているという。
ナクタネリアの人々はその獣を封印し、動向を見守る義務があった。王国と世界の安寧を保つためだ。
しかし、獣を封印するにも鍵が必要だった。
その鍵の役割を担うのが賢者と呼ばれる大量の魔力を保有した存在だ。大抵は王族の中から該当者が生まれる。色素の薄い瞳が目印だった。
賢者は生まれながらにして封印された獣が所持する力を扱うことができた。その御技をナクタネリアの人々は跡術と呼び、賢者が幼い時にその恩恵を受ける。
しかし、その時期は決して長くはない。
賢者は齢十五の年に封印の議を行うことになる。
獣がいる遺跡の個室に閉じ込められ、そこで次の賢者が生まれるまで時を過ごす。その行いが獣を国に縛り付ける。
一人の人生を犠牲に国と世界を守るという偏った仕組みだ。
偏っていると分かっていても誰もその仕組みを崩すことはできない。
一度でも封印が解かれれば獣は世界を滅ぼしにかかる。その侵攻はたとえ大精霊の力を持ってしても防ぐことはできないという。
今から八年前。若い旅人がちょうど封印の儀式が行われる直前にナクタネリア王国を訪れた。旅人は好奇心旺盛な性分であり、一目賢者に選ばれた姫の姿を見ようと考えて、城に忍び込む。
旅人の名はカイルス・キャンベラー。賢者姫の名はスオウ・ナクタネリア。
スオウはやや赤みがかった紫色の髪を持つ、中性的な外見の少女だった。
城の窓から忍び込んだカイルスを見てもスオウは驚かなかった。それどころか、彼を一目見るなりこう言ったのである。
「私を一晩だけで良いから自由にして欲しい」
カイルスは有無を言わさぬ少女の雰囲気に気圧され、言われるがままスオウを連れて城を脱出する。衛兵に気づかれるまでそう時間はない。どこに向かえば良いかと尋ねたカイルスに対し、スオウは町外れにある魔導具職人の店を指定した。その店はスオウが町で跡術を振る舞うのに疲れた際、度々避難していた場所だった。
三日月が夜空の頂点に達する頃、二人は店に到着した。
出迎えた職人の名はダイダ。彼も当然儀式のことは知っていたので、二人の来訪に心底驚く。
スオウはダイダに自分の瞳の摘出を依頼する。そしてその瞳を誰かに売って欲しいと願った。
瞳を移植しても尚、瞳と賢者の関わりは残る。移植した者の視界は賢者と共有することができるのだ。
たとえ体は遺跡に囚われていたとしても、その瞳で美しい世界を見てみたい。
それは、齢十五の少女による、世界と運命に対する抵抗だった。
カイルスにとってスオウはその日出会ったばかりの相手である。しかし、目の前の少女がこの先ずっと狭く暗い一室に閉じ込められて過ごすという非情な現実を許容できなかった。
カイルスはスオウの瞳を自分に移植するようにと主張する。
自分が必ず、この世界のありとあらゆる美しい物を見届けてみせる。それが自分の夢であり、少女の夢となる。自分のこれまでの旅路とこの先の旅路はそのためにある。
その晩、賢者姫の瞳を移植した一人の若者と老職人が王国から船で去った。
城で発見されたスオウの顔には包帯が巻かれていた。何が起きたのか察した国王達は、全世界に向けて、旅人の若者と老いた職人を捕縛するように通達する。
カイルスの瞳は今もスオウと繋がっている。
カイルスが見る物はスオウも見ることになる。
伝説となった空賊は今も一人の少女に美しい夢を見せるために奔走している』
短くも濃い、ダイダの語りが終わった。
アポロは深くため息を吐いた。
「それって……盗んだって言うのか?」
ダイダは静かに首を振る。
「ナクタネリアでは儀式の日を迎えた賢者を、霊獣を封印する装置として扱う。儂らのやったことは装置を勝手に持ち出して部品を奪ったということになるらしい。一人の少女に全責任を負わせるという非道を忘れるための考え方じゃな」
「……ふざけた話だな」
封印措置を施さなければ霊獣は世界を滅ぼしにかかる。それを誰も止められないから一人の人間の生涯を犠牲にする。苦しみを一人に背負わせているにもかかわらず、他の者は自らの心を守るために賢者を人として扱わない。ダイダは偏った仕組みと言ったが、アポロもそう感じた。
「儂もカイルスもそう思ったからスオウに協力したんじゃ。儂はナクタネリアに店を構えていたが、国の出身ではなかったから、根無し草になることに何ら抵抗はなかった」
そして二人は空賊として旅をした。その目的は世界中のあらゆる美しい物を見ること。もしかするとその過程の冒険も少女を喜ばせるスパイスになっているのかもしれない。
そんな彼らが次に見たいと願ったのは、アポロの描く星空の絵。そして、ターレックから解放したヘルメトスで生まれるかもしれない新しい芸術。
アポロはもうすぐ遊具の頂点に到着するカイルスを見上げた。
「顧客がもう一人いるなら、早く言えよな」
芸術家という者は存外単純で、見たいという者がいればいるほどやる気を出す。昨晩の失敗は多少堪えたが、彼らの事情を聞いたアポロは再び熱意を取り戻していた。
ふと、ダイダが笑った。
「アポロ、お前はあやつにそっくりじゃのう」
「は?」
突然の指摘に面食らう。
「今、何かをやると決めた時の顔をしとったぞ。そうなるともう誰にも止めようがないということを儂は良く知っておる。お前さんらはまるで追い風を受けた船じゃ」
昔、アポロの性分を同じように例えた者がいた。いつか自分の目指した場所に辿り着くために進み続ける船のようであると。
アポロは出会ってからずっとカイルスから目が離せなくなっていた理由を理解した。夢の中でククルが言っていた通り、彼もまた、前に進もうという強い熱を持つ者なのだ。
彼の巻き起こす熱風が自分をさらに前へと向かわせる予感がある。
命を賭さなければ突破できない窮地ではあるが、どうしてもその先を夢見て心が躍ってしまう。
度々カイルスがスリルを楽しんでいるように不敵に笑うその感覚も今なら理解できる。
ダイダに似ていると言われるのも納得だ。
ついに木製遊具の頂点に達した灰髪の空賊は、そこで満足げに周囲を見回した。賢者姫から授かったという色素の薄い瞳が爛々と輝いている。そこには彼自身の感動と、瞳の持ち主である少女の感動が混ざっているような気がした。
「カイルス! そこから何が見えるんだ」
下から呼びかけるとカイルスは遊具を構成する木の柱に腰掛けながら答えた。
「コロニー全体を見渡すことができる。後で君も登ってみるといい。素晴らしい景色だ。ここには人の生活の魅力が詰まっている」
数秒後、彼は登った時よりも素早く地上に降りてきた。
「もういいのか?」
「ああ、客が来るのも上から見えたからな」
その言葉で、スラムの子供達が言っていたことを思い出す。カイルスとダイダは客が増えるとシャーリの小屋に入りきらないから、集合場所を公園にしたのであった。
「客って?」
カイルスが農場の脇にある道を指差す。おそらく、そこがコロニーの外に繋がっているのだろう。道を辿り、こちらに向かってくる二つの人影があった。
「あれは……!?」
その二人はアポロもよく知る人物だった。
「先程、ダイダと町の様子を見に行った時に遭遇した。話し合いたいことがあるというからここに招いたんだ」
「それ、大丈夫なのか?」
ここに向かってくる二人は、自分達が隠れている場所を教える相手としてはあまりにも危険に思える。
「俺の勘はあの二人が敵ではないと言っている」
二人の内の一人がこちらに向かって大きく手を振った。貫禄のある歩調を見ていると、どこからか太鼓の音まで聞こえてくるような気がしてくる。対照的に後ろから付いてくる臣下の足取りは油断していると見失ってしまいそうなほど静かだ。
そこに、グラン・モーリスとトレイ・ガーベルがいた。