幕間
どこからともなく呪文にも似た歌が聞こえてくる。
『傷に滴る治癒の雫
眠りの間に大海の風が命を運ぶ』
歌が終わり、深い夢の中に意識が落ちていく。
いつの間にか、霧の中にいた。
見た目は魔霧のようだが、甘い匂いが全くしない。それが自分の鼻のせいなのか、それともこの場所のせいなのか、アポロには判別がつかなかった。
自分のいる場所がどこなのか確かめようとすると、視界ははっきりしないにも関わらず答えだけが脳裏に浮かぶ。その不可思議さを何故か受け入れてしまう。
ここは飛空挺の見張り台だ。
船乗りに仕事を命じられたような気がして、目の前の手すりに備え付けられた望遠鏡を掴む。その拍子に望遠鏡と台座が擦れ合って不快な音を立てた。
そのままレンズをのぞき込もうと思ったが、足下が妙に気になって視線を落とす。
床が燃えていた。
黒い炎が見張り台の床を浸食してアポロの足に近づいてきている。このままではいずれ身体が焼けてしまう。
アポロは肩から提げた布鞄を降ろし、それで炎を叩いた。画材が壊れてしまうかもしれないが、死んでしまうよりは良い。
「その辺にしておけ。炎を消すのに、お前の大切な道具を使う必要はない」
聞き覚えのある声だ。
振り返るとそこに、懐かしい風貌の少女が立っている。
赤いドレスも銀の髪もあの日のままだった。
しかし、その表情は髪の陰に隠れて見えない。
「でも、このままじゃ船もオレも燃え尽きる」
すると少女は指を鳴らした。たったそれだけで黒い炎が鎮まる。
「呪いは余が消しておいた。あとは体力の回復を待てば良い」
少女は流れるような足運びで梁の上を歩んでくる。
いつかの日のように、狭い見張り台の中で並んで腰掛ける。あの日に何を語ったのか、今だけは上手く思い出すことができない。そこでようやく気づいた。
ああ、ここはきっと夢の中なのだ。
飛空挺も見張り台も幻でできている。船乗りに仕事など頼まれていない。
「どうやら細かいことを気にしているらしいな」
夢だと分かった瞬間、その声を聞いただけで涙が零れそうになった。
「細かいことってなんだよ」
「あの者達が盗みを働いた者であることを気にしている」
彼女はきっと、カイルスやシャーリ達のことを話している。
「それが細かいことなのか?」
「大事の前の小事だろうに」
アポロは少し腹が立って立ち上がった。今は思い出せなくとも、ここで語った夢は決して小さくなかったはずだと心が叫んでいる。
「オレ達の夢は、魔獣に奪われたんだぞ!」
アポロが怒鳴っても少女の態度は変わらない。彼女の視線はおそらく霧の先へと向けられている。影で顔が見えなくとも、それは分かる。
「奪われてなどいない。余はまだ自分の夢を諦めていない」
「でも……!」
現実では錬金術師がヘルメトスの全てを奪おうしている。このままの状態で自分達の夢が叶うはずがない。
だが、少女は決して怯まなかった。
「お前が助けに来てくれるのだろう?」
言葉を失う。彼女は未だ夢を託したアポロのことを信じていた。
これは自分を鼓舞するために用意された都合の良い世界か。
否、今立っているこの場所が幻だったとしても、少女の言葉は本物のような気がした。
「助けたかったけど、失敗したんだ」
「諦めるのが早すぎる。お前の長所は前に進もうとする熱だと前に言っただろう。しかも、今はそばに同じくらいの熱を湛えた者もいる」
カイルスのことだろう。確かに彼は、自分の目的を果たそうという強い気持ちを持っている。彼と協力することでこの国を救えるかもしれないと思ったこともあった。
しかし、彼らは空賊であり、他者から何かを奪う者だ。
「奴らがいけ好かんか?」
どうやら思っていたことが顔に出ていたらしい。
「いや……そんなことはないと思う。オレが嫌いなのはあくまで空賊だ。そりゃあ、嘘をつかれていたことはショックだったけど、追われる立場だからなんだから仕方ない。オレを巻き込まないようにしてくれてた気もするしな」
むしろ、彼らの纏っている風のような空気感を好ましいとさえ思う。そうでなければ、塔から飛び降りて自分も一緒に戦おうとは思わなかった。
「なら、その直感を信じれば良い。一つの単語に惑わされるな」
空賊だから嫌う。そんな風に短絡的に考えるなということか。
アポロは少しの間、カイルスとダイダについて思いを馳せた。
彼らが空賊としてどのように生きてきたかアポロは全く知らない。しかし、手がかりはある。カイルスはグランとの問答の最中、この国で生涯二度目の盗みを働くと言っていた。空賊として生きてきた者にしてはどう考えても行いの回数が少ない。
自分のイメージする空賊とは違う道を歩んできた可能性はある。
「……カイルス達と一緒なら、この国を救えるかな?」
アポロは一度失敗したせいでいささか弱気になっていた。
「そんなものやってみなきゃ分からん」
少女は甘えることを許さない。昔からそうだったとアポロは口元を緩ませる。
「だが、やるべきことは明確だ。もう一度『魔天の間』に行け。自分でも分かっているとは思うが、お前が描こうとしているこの島の星空は、あの場でなければ完成させることができない」
塔の頂上で空を見た時にアポロの思考は混乱に陥った。
その混乱の中で辿り着いた答えは今も頭の中にある。危機を乗り越えたあと、そのことについてゆっくり考えようと思っていたが、彼女の言葉が答え合わせとなった。
見張り台の中で、少女の身体が霧に包まれる。あれほど近くにいたはずなのに、いつの間にか、もう手が届かないほど離れてしまっていた。
「待ってくれ、姫様。オレはまだ……!」
「時間がない。あとは任せたぞ。塔に登るときは必ず……を……れて……くんだ」
声が聞こえなくなる。霧の世界が段々と濃くなっていく。
誰かを連れて行けと言われたような気がした。
誰をと聞き返すことは間に合わず、意識は浮き上がるようにどこかへ運ばれていった。
どこからともなく呪文にも似た歌が聞こえてくる。
『涙は涸れ果てて傷は癒えた
風は大海に還り、命は陸に戻る』
歌が終わり、深い夢の中から意識が戻ってくる。
幕間 終