第三章 7
気づいた時には塔から降りたときと同じ感覚が身体を包んでいた。
強い浮遊感と、誰かの鍛えられた腕。
船から落ちたアポロは一人ではなかった。
カイルスが共に飛び降りてアポロの身体を抱えたのである。
鈍い音と共に、身体に重い衝撃が奔る。しかし、痛みはない。
衝撃はあくまで着地の際に生じたものであり、二人は地面に激突したわけではなかった。どうやら船は、カイルスとアポロが無事に着地できるくらいの高さまで町に近づいていたらしい。
「……ありがとう」
礼を言いながら、自分の足を下ろす。
カイルスは塔に登った時と同じように、僅かに口元を曲げただけだった。彼にとっては当然の行動だったということなのか。
そこは地面ではなく、どこかの建物の平たい石屋根の上だった。
見回して判断するに、おそらく港の近くだろう。この近辺は他の区画よりは尖った屋根の数が少ない。船がそういう場所の上を飛んでいたのは幸運だった。
町は静まりかえっている。皆、祭りの疲れで眠っているのか。それとも事前にターレックが家から出ないように通達したのか。どちらかは分からないが、自分達以外の誰かが助けに来てくれそうな雰囲気ではなかった。
暫くするとブイレンが遅れてやってきてアポロの肩の上に戻った。そしてすぐに警告を発する。
「誰か近づいてきてル。速いゾ」
ぎょっとして周囲を見ると、確かに少し離れた場所から近づいてくる影がある。
あろうことかその影は尖った屋根を足場にして何度も跳躍していた。この町に慣れているシャーリでさえ、屋根を足場にして飛んだのは一回きりだった。
「厄介な相手が来るな」
カイルスがナイフを抜く。思えば彼は先程も、空蛇よりその背に乗った若者を警戒していた。
「……トレイ・ガーベル。そんなに強い奴なのか?」
「ああ、名門ガーベル家出身の騎士は、たった一人で戦況を覆す力を持っているから、どの国でも兵器として扱われる。さっき俺達が空蛇とやり合っている間、手を出してこなかったのが不思議なくらいだ」
ヘルメトスは国が発足してから一度も戦争に巻き込まれたことがない国だ。しかし、戦争に関して記された歴史書を読むことはできる。アポロも後学のために数冊だけ目を通したことがあったが、どの書物も当時活躍した戦士のことは英雄と称していた。
もはや人として扱われない武力とは一体どれほどのものなのか。
「おーい! カイルス、アポロ、こっちじゃ!」
背後から旋回して戻ってきた小型艇が近づいてきた。その上でダイダが小さな手を伸ばしてこちらに合図を送っている。
しかし、カイルスは合図に気づくと血相を変えて叫んだ。
「馬鹿、来るな! 相手はガーベルなんだぞ!」
アポロは視界の端で、近づいてくる若者が静かに体勢を低くするのを見た。無論、尖った屋根の上で、である。
少しでも足を滑らせれば地面に落ちる。その状況で若者は外套の内側から剣を引き抜き、それを高く掲げた。
「まずい!」
カイルスの顔が青ざめる。今までで最も余裕を失った表情だった。
若者の剣が動く。振り下ろしたと気づくまでに時間がかかった。
風が切れる音を聞いた。
空中の船が僅かに揺れる。
しかし、何事もなかったかのように、夜のヘルメトスに静寂が戻った。
「……え? 何が起きたんだ?」
「アイツ、剣圧で魔素を飛ばしたンダ。チョットでもずれてたら船が切れてタ」
ブイレンが小さな身体を小刻みに震わせる。彼女が怯えるのはかなり珍しい。
空気中の魔素は様々な物に影響を与える微弱なエネルギーを含んでいる。しかし、それを魔力に変換せずに使用できるのは精霊と魔獣だけで、人には永遠に不可能とされていた。
しかし、ブイレンの話が間違っていなければ、あの若者は剣を動かした際に発生する圧だけで魔素を強引に飛ばしたのだという。風を切るような音は、剣で押し出された魔素が空気中を飛翔する音だったのだろう。
船が真っ二つにされなかったのは奇跡か。
アポロの隣に立つカイルスはそう思っていないのか、若者に対して疑問をぶつけた。
「ガーベル家の騎士は仕事に手を抜くのか?」
若者は数回の跳躍でアポロ達のいる屋根に辿り着いた。フードの下から僅かに見える口元が動く。
「まさか。僕はグランに与えられた命令を確実に果たそうとしているだけだよ」
二人が会話をしている間に船が離れる。近づけば切られると操舵を担うドゥハが判断したのだろう。剣圧を外したのがわざとにしろ、そうでないにしろ、次も当たらないとは限らない。
カイルスが小声でアポロに語りかけた。
「アポロ、一発勝負を仕掛ける。俺が失敗したら君は逃げるんだ」
彼の首に一筋の汗が垂れるのを見た。
「……あんた勝手だな」
「ダイダにもよく言われてしまう」
カイルスが微笑む。しかし、いつものような余裕は感じない。精一杯の強がりなのだと、短い付き合いでも分かってしまう。
「……嘘をついていて悪かった」
アポロの返事も聞かず、カイルスがナイフを逆手に持ち替えながら屋根の上を疾走する。
若者は屋根の端でその様子をただ眺めていた。
「ああ、話は終わったんだね。それじゃあ、少しだけ痛い目を見てもらおうか」
「悪いがそうはならない!」
カイルスがこれ見よがしに構えたナイフは囮だった。走りながら空いた手でブーツの横の拳銃を素早く抜き取る。そこに装填されているのは王宮で衛士達を無力化したあの特殊な弾丸か。当たりさえすれば、たとえ兵器と称される戦士でも身動きが取れなくなるだろう。
加工された細い発砲音が聞こえてくる。
弾は確実に若者の来ている外套に命中した。
しかし、そこには外套だけしか残されていない。
弾から発生した魔法の蔓は虚しく外套だけを捕縛する。
外套の下から現れたのは、トリコロール配色の制服を着た金髪の騎士だった。
銃弾を回避した動きの勢いのまま、トレイは剣を構える。歴戦の騎士は、攻撃を失敗した事実に落胆する隙さえ与えてはくれない。
襲いかかる銀閃に、カイルスは囮として振っていたナイフを戻して当てる。
刃の衝突が石屋根に火花を零した。
短刀では騎士の一撃を受け止めきれなかったのか、カイルスの身体は僅かに持ち上がって体勢が崩れる。
アポロは逃げなかった。
先程の中途半端なやりとりを最後に彼に死なれてもらっては困る。話さなければいけないこと、やらなければいけないことが残っている気がした。
「やるのカ」
「ああ」
相棒はアポロの無茶を止めなかった。
アポロは鞄から今夜三本目となる鉛筆を抜き出す。短く呪文を唱えて巻き付けた絵画に名を刻む。あとは魔力を流し込めば契約魔法が発動する。
水流が来る前に力の方向を定めようと鉛筆を突き出した。
倒しきれなくてもいい。カイルスが立て直す時間を稼ぐ必要があった。
突如、目の前を死が通過した。
そう錯覚するほどの剣圧。手元の鉛筆は、巻かれた紙ごと両断された。
金髪の騎士はこちらを見ていない。
「いいタイミングの援護だけど、気配が丸わかりだった」
優れた戦士は六感全てを使って戦況を把握するという。そう書かれた歴史書の記述を、アポロは今の今まで誇張だと思っていた。
カイルスが尻餅をついた体勢のまま、我武者羅にナイフを振る。
トレイはその攻撃を、僅かに動かした左腕の小手で防いでしまう。まるで子供の癇癪をあやしているかのようだった。
そのまま左腕を捻ってカイルスの右手を掴む。
「仲良く斬ってあげるよ」
トレイはそう呟くと、思い切り身体を反転させてカイルスをアポロの方へと投げ飛ばす。衝突したが最後、その隙に二人ともまとめて切断される。
アポロは何もできず、しかし、カイルスは動いた。おそらく経験の差が出たのだろう。
カイルスは両腕でアポロの身体を弾くように押し出すと、そのまま地面に手をついて後ろ足を振り上げる。
騎士が剣を構えた右手に振り上げたブーツが当たった。
「おっと!?」
予想外の反撃だったのか、騎士の目が見開く。その一瞬を逃さず、カイルスは逆立ちのような姿勢になってから身体を回転させ、そのまま二本の足を振り回した。
二度、三度と襲撃が続く。まるで舞踊のような攻撃だ。不安定な体勢に見えるが、一撃一撃に確かな重みがありそうだ。顎にでも当たれば昏倒は免れないだろう。
しかし、騎士はその連撃を剣の背面と肩当てで防ぎきる。カイルスは攻撃に変化をつけて膝を槌のように振り下ろしたが、それすらも難なく回避された。
カイルスは昨日、スラム街で十数人を相手に余裕の立ち回りを見せた。決して彼が弱いというわけではない。空賊としての生活の中で鍛えられたのであろうその身のこなしは鋭く美しい。
ただ、相手が規格外過ぎるのだ。
「うーん。やはり僕はまだまだだな。兄たちなら今ので仕留めていた」
何かの遊戯のように剣を回す騎士。隙だらけのようにも見えるが、踏み込めば一瞬で斬られてしまうような雰囲気もある。
「こちらが死んで当たり前のような発言は、やめてもらおうか」
カイルスの呼気は乱れている。今の攻防でかなりの体力を消費したのだろう。もう一回戦って持つかどうか、戦いの経験が浅いアポロには分からなかった。
「そうだね。いくらなんでも失礼だったか……。でも安心したよ。一日だけとはいえ弱者にガーベルの名を名乗られたとなったら、家に帰った時に僕が怒られてしまうから」
目にかかる金髪の下で、トレイ・ガーベルの青い眼が嘆く。彼はこの状況で、心の底から本気で家に帰った後のことを案じていたのだ。
「ああ、でも。その黒い装束はいけない。僕たちは戦い以外の時は目立たない衣装を心がけるけど、一度戦地に足を踏み入れた後は、遠くからでも分かる色の鎧や制服を着るんだ」
トレイが両手で剣を構える。圧力の大きさはまさに兵器。この場を剣一本で蹂躙するという明確な意思が伝わってくる。
「僕たちの戦いは、仲間を鼓舞するものでなくちゃならない」
『僕たち』という言葉が指すのは決してアポロやカイルスではない。彼の剣に重みを与えるのは、歴史の中で英雄、豪傑を輩出し続けてきた家の名前だけだった。
アポロは武器を取ろうと手を鞄に差し込むが、トレイが視線だけでアポロを牽制する。たったそれだけのことでアポロはこの戦いに参戦する気力を失った。戦うのであれば斬るという、彼の決断を理解してしまった。
「余所見してていいのか。黒い服は夜の中では簡単に見失うぞ」
注意を自分に向けるカイルスの手元にはいつの間にか再び拳銃が握られている。
射出された弾丸を、カイルスは僅かに首を逸らしただけで回避した。銃弾の速度がどれくらいのものなのかアポロは知らないが、最小限の動きで回避するためには常識外れの反射神経が必要だということだけはなんとなく分かる。
敵を捕縛する特殊な弾丸が底を尽きたのか、カイルスが拳銃を放り投げてナイフに持ち替える。
しかし、ナイフを十分に握りしめる前に、トレイの剣がそれを弾いた。
「遅いよ!」
振り抜いた剣が戻ってくるまで一秒もない。だが、カイルスはそこで笑った。
「道連れだ」
手元に投げ捨てたはずの拳銃が戻ってきている。よく見れば拳銃と黒服の袖が、細い紐で繋がっていた。捨てたと見せかけて、すぐに手元に戻せるように細工を施していたのだ。
彼は自分の身を犠牲にアポロの逃げる時間を稼ぐつもりなのだ。
「やめろ、カイルス!」
呪縛が解ける。アポロは銃と剣の攻防を止めるために腕を伸ばす。
鍛えたわけでもないその腕がなにかの役に立つはずもない。しかし、アポロの思いがそうさせた。どうしても今ここであの男を死なせたくない。
『鍵は解ける。黄金石の城壁よ、民と土を守れ』
その気持ちに何が答えたのかは分からない。
だが、その時、この状況を一変させる魔法が発動した。
銃と剣の間に展開された黄金の盾。先程、ターレックが空蛇の口内に作った物とよく似た魔壁だ。
二人の攻撃が盾によって相殺される。トレイは思わぬ障害の影響で身体のバランスを崩しかけて後退する。
「これは……?」
答えを求めて若い騎士がアポロを見る。だが、アポロとて自分が何をしたのか分からない。そもそも本当に今の現象は自分が引き起こしたものなのか。
魔力を生成したつもりはない。魔壁の魔法を習得した覚えもない。だが、どこからか聞こえてきた呪文だけは、聞き覚えがあるような気もした。
疑問が解決しないまま、新たな足音が後方から近づいてくる。
離れていた船から聞こえてくるダイダの声。
「気を付けろ! 錬金術師が戻ってきとるぞ!」
振り返るとそこに、険しい形相をしたターレックが杖を握りしめて立っている。空蛇をコントロールするのに手間取ったのか、ローブの一部が損傷していた。
「何故、お前がその魔法を使えるんだ!?」
明らかにアポロに向けられた問い。答える義理などないのはもちろんのこと、そもそもアポロ自身もその訳を知らない。
「お前はこの国で一番私を苛つかせる」
杖が振り下ろされる。油断していた。どうやらあの錬金術師は既に魔法の準備を完了させていたらしい。
黒い炎が自らの身体に当たる感触がある。不快な熱が腹を焼く。
アポロはそのまま屋根から落下した。そこは、かつてシャーリを追いかけていた時に飛び込んだ深い縦穴だった。
今夜は良く落ちる。
そんなどうでもいい感想が頭をよぎる。
近くで何かが光った。
その温かい光が、腹から広がろうとする苦しみを抑えてくれているような気がした。
その光の奥から飛び込んでくる影がある。
「だから、どうしてそこまでするんだよ」
思わず呟いた。この縦穴がどこまで続いているかは分からないが、無闇に飛び込んで助かる高さではないことは間違いない。
黒と灰色の空賊はそれでも一人の画家を助けるために命を賭けた。
彼がアポロの身体を捕まえる。今夜だけでももう三回、その両腕に救われていた。
だが、命の危機は未だ去っていない。
黒い炎はアポロの体力を即座に奪った。
落下の不快感と呪いの痛みに引き寄せられて、やがてアポロは気を失った。
第三章 終わり