第三章 5
アポロは体勢を直して塔の内部を見回した。
まるでそこは神か何かに出会うために作られたような場所だった。
部屋の広さそれほどではない。王宮前の広場の方が余程広いだろう。
ここはおそらく剣型の塔の鍔にあたる部分だ。
天井の真ん中が円形にくり貫かれていて塔の先端まで空間が伸びている。上に向かって伸びた空間部分が外から見ると柄のように見えるというわけだ。
柄部分とアポロ達が乗ってきた床の間には、鉄の枠で支えられた巨大な薄青色の宝石があった。宝石の中は空洞になっていて、中に白く輝く液体が入っている。ほぼ満タンだ。魔力を液体化させるとこのような状態になると昔祖父に教わったことがあった。
部屋を囲む灰色の壁には三角形と逆三角形の窓が交互に並ぶ。一カ所だけ窓がない箇所があり、そこに台形の形に黄色く塗装された壁があった。台形の真ん中には先程の動く床にもあったあの紋章が刻まれている。
グランは台形に塗装された場所へ、トレイはその反対側へと歩いて行く。
「お前も動ケ」
ブイレンにせっつかれて、アポロも行動することにした。まずは三角形の窓に近づいてみる。ここから空が見えれば御の字だ。
しかし、残念ながら窓から空を確認することはほとんどできなかった。全ての窓が磨りガラスになっていたのだ。しかも、どの窓も破壊しない限り開きそうにない。
「割るカ」
「割れそうだけど、それは最終手段に取っておく」
まずはこの部屋の中を探索するべきだろう。床が動く魔法があったように、どこかに窓が開く仕掛けも存在するかもしれない。
「アポロ、ちょっといいか」
トレイがアポロを手招く。その足下には見覚えのある物体がいくつも散乱していた。それは絵画を飾るために使われる額だった。
「これはもしかして、競売祭で売れた絵に取り付けるための物か?」
その質問に答えるために、アポロは散乱する額を一つずつ手に取って確かめた。ヘルメトスの王宮には一人だけ額縁職人が仕えていて、毎年の芸術祭のために額を作り続けている。調べてみてすぐに分かったが、ここにある額は全てその人物が手がけた作品だ。
「間違いない。これは今日売れた絵に使われる額だ。……何でこんなところにあるんだ」
トレイは宝石と額を交互に指差した。
「僅かだが、この額と宝石は魔力の線が繋げられている。おそらく宝石の中の液体から魔力を抽出して、額に流し込んでいるのだろう。……その逆もあり得るな」
「魔法的な仕掛けが施されているのは額だけじゃないのう」
いつの間にかこちらにやってきたグランが例の筒を起動させていた。空中に浮かび上がる記号と文字。だが、先程に比べてその量は少ない。
「この額にはレシピの半分ほどしか刻まれていないようじゃ。残りは絵画の方じゃな。大方キャンバスに使う木枠にでもレシピを刻んだんじゃろうて。この額を作った職人も、キャンバスの木枠を作った職人も、ターレックの息がかかっとるはずじゃ」
魔法のレシピはデリケートであり、元々別の使用用途で作り出された物品に書くと魔法が上手く起動しないという特性がある。アポロが己の名前を刻む魔法を記録した手帳も魔法のレシピを書くために作られた品だ。
つまり、レシピを刻み込まれているのであれば、額もキャンバスの木枠も元よりそのためだけに作られた物ということになる。そこにターレックが関与していないはずがない。
「どういう効果か分かるか?」
アポロの問いに対し、グランは眉根に皺を作った。
「何せ半分じゃからな。正確な事は分からん。じゃが、儂の経験から判断するに、魔力を大幅に吸い取るレシピの一部のような気がするのう。前にこれに近い形を見たことがあるんじゃ」
魔力は生命活動にも使われているエネルギーである。人が何かに大量の魔力を吸い取られれば、最悪死に至る。
アポロは想像した。
競売祭で競り落とした絵画を持ち帰り、例えばそれを暗殺したい相手に送る。その相手は何も知らず絵画に魔力を吸い取られて死亡する。
思わずトレイの顔を見た。彼も同じ想像をしていたのか、深刻な顔つきで頷く。
「どうやら、傾国の絵画という評判にも仕掛けがあったらしいな」
毎年競売祭で高値の付いた絵を持ち帰った国では何かが起きるという噂。そこにはターレックの用意したであろう邪悪な魔法が関与していた。彼の計画は島内だけでなく、島の外の世界をも巻き込んでいたということになる。
グランがさらに付け加える。
「もしかすると他にも効果があるやもしれん。所々、別の効果に繋がるようなレシピの一部が見える。買い手がそれを把握しているかどうかまでは分からんがな」
アポロは大ホールで聞いた使用人達の会話を思い出した。
「きっとオペラグラスだ。ボックス席の賓客はオペラグラスを使って絵画に仕掛けられた魔法の効果を確認しているんだ!」
オペラグラスがグランに届けられなかったのは、催眠魔法にかかっていないトレイが護衛についていたからかもしれなかった。
「だが、それだと購入希望届を出した後に、絵に仕掛けられた魔法の効果を知るということにならないか? そうすると望んだ魔法が仕掛けられた絵を買うことができない」
トレイの指摘は的確だ。しかし、その絡繰りにも予想がつく。
「もしかしたらターレックは、品評祭の時点で既に一部の客にはどんな魔法が組み込まれる予定なのか教えているのかもしれない。競売祭でオペラグラスを使うのは、本当に魔法がちゃんと組み込まれているかどうか確認するため……とか」
「理屈は合うが、品評祭の最中にどうやって予定を知……解説の宮廷画家から教えてもらうというわけか」
トレイが答えに辿り着く。アポロも同じ結論だった。解説をする宮廷画家達にその自覚があるのかどうかは分からないが、画廊に来た賓客は解説を通じて、その年の絵画に付与される予定の魔法の効果を把握しているのだろう。
「随分手の込んだ裏取引だ。おそらく絵画に仕込まれた魔法は碌でもない物ばかりだろうな。でなければ、ここまでする意味がない。君の推測通り、客も分かっていて買っているのだとすれば、救えない連中だ」
「どうするんじゃ? 額を壊しておくか?」
グランが額縁を踏みつけるジェスチャーをする。
「閣下の提案は素晴らしいですが、おそらく予備が用意されているので辞めておくべきでしょう。この件も含めて、星空を描くことがターレックのアキレス腱であることは変わりありません。アポロが絵を完成させることが計画を破綻させる早道だと俺は予想します」
「何か、さっきからどんどんオレの責任が重くなってるような気がするんだけど」
極限まで状況を噛み砕くと、アポロの絵に世界の命運がかかっているということになる。あまりに話の規模が大きくなりすぎていて軽く目眩を覚えるほどだった。
「気張レ」
そんなピンチをたった三文字で片付ける無慈悲な相棒。グランとトレイもアポロの弱音には耳を貸さず、さっさと次の話に移っていた。
「閣下、ここから空を見るためにはどうしましょう?」
「安心せい。その方法も見つけておいたぞ」
予測器を一度ケースに戻し、グランは台形型に塗装された壁の前に移動する。一行の足音が部屋の中に反響した。
「この壁には二つの魔法が組み込まれておった。一つは儂でも解析するのに時間が掛かりそうな代物じゃったが、もう片方はおそらくすぐに使えるぞ。そして、これを使うことで外が見えるようになるはずじゃ」
「おそらく使えるっていうのは?」
曖昧な部分をアポロが聞くと、グランは目を細めて頭を掻く。
「さっきの床の魔法が起動した理由が分かっとらんから、はっきりとしたことは言えんのじゃ。今回も特別な者がいなければならないという条件があってのう」
「しかし、閣下はそれが今回も起動すると読んでいる」
「さっきと今で状況は変わっとらんはずじゃからな」
「物は試しです。二回連続で成功すれば我々の中に特別な者がいるということが確定します。閣下、呪文は?」
グランは喉に指を当てた。先程、ソラリスが舞台で見せた仕草と似ている。喉に魔力を集めているのだ。呪文の詠唱は言葉と魔力を混ぜることで成立する。先程、床の魔法が起動したのは、魔導具の発する魔力とグランの『再生せよ』という言葉が反応してしまったせいだろう。
『開け』
魔力によって僅かに歪んだ声が部屋の中にゆっくりと染み渡っていく。直後、床が動いた時と同じように、部屋全体が揺れはじめた。
魔法は起動した。アポロ達の内、誰かのおかげで条件を満たしたのだ。
「さて、今度は何が起きる?」
そう問いかけるトレイは遺跡の時と同じかそれ以上に楽しそうだった。
空が見えるようになるというグランの説明から、何か起きるとすれば上だと当たりをつけて天井を見る。剣の形をした塔の柄の部分を取り囲むドーナツ型の屋根にいくつもの切れ目が生じた。
切れ目を境に屋根が稼働する。屋根を構成していた石の板はやがて全て一カ所に集められ、それ以外の場所は完全に吹き抜けとなる。
目を見張る。そこに六年ぶりに目撃する夜空があった。
魔霧の壁はない。ここは霧の層の上だ。塔の柄の部分が頭上に残ってはいるが、空を眺めるのに大した障害にはならない。
アポロは空を眺めながら、布で包んだキャンバスと下書き用の鉛筆を鞄から取り出す。一秒たりとも時間を無駄にしたくはなかった。
黒と青が混ざったような空と、そこに散る星々。
欠けた月が見上げる者達を歓迎するかのように笑っている。
吹き抜けを横切る風が低い音を鳴らす。まるで夜が吠えているかのようだ。
六年前の記憶と照らし合わせながらキャンバスに鉛筆を走らせた。集中力が高まり、次第に風の声も気にならなくなっていく。もしかするとトレイやグランがアポロに話しかけてきたり、天井の仕掛けに対する感想を言い合ったりしていたのかもしれないが、作業に集中する余り、音を拾うことができなかった。
六年前より知識がある、技術がある。今の自分はこの空に立ち向かうことができる。
回転する思考が脳内に火花を散らす。激しい頭痛に目を閉じそうになるが、そんな暇はないと瞼に力を込めた。
星の大きさ、輝きの強さ。夜の濃さ、深さ。
記憶する対象、描くべき対象は無数にあった。輝きと空のバランスをどうキャンバスの上で表現するか、百通りの方法を考えた。
しかし、すぐにその百通りの方法を却下した。この空を描くためには特別な手段が必要だ。
そこまで考えてアポロはようやく目の前に広がる夜空の違和感に気づいた。
六年前に見た空とどこか違う。
見ている場所が違うせいではない。明確に、あの時に見た夜空とここにある夜空は別の物だと直感が訴えかけている。
「何だ……これ」
全身に鳥肌が立つ。目の前に広がる空の正体に思考が追いつこうとしている。
ありえないと理性が叫ぶ。しかし、それが答えだと直感が吠える。
混乱する脳にストップをかける声があった。
『アポロ、呆けている場合ではない!』
それが誰の声かは分からない。しかし、酷く懐かしいような気がした。
「アポロ! 話を聞くんだ!」
別の声がだぶって聞こえてくる。トレイだ。
我に返る。どうやらいつの間にか画材を持ったまま固まってしまっていたらしい。目の前にトレイがいて、アポロの肩に両手を乗せている。どうやらアポロを正気に戻すために身体を揺らしていたらしい。
「あれ……オレは」
濁流を流し込まれたように荒れていた思考が徐々に落ち着きを取り戻していく。脳の奥に、混乱の中で獲得した答えが保存されているような気もしたが、トレイの焦りを見るに、どうやらそれを今確認している余裕はないらしい。グランも何かに怯えて窓際まで下がっている。
部屋の中央に穴が空いている。
宝石のちょうど真下、自分達を押し上げた床が下に戻っているのだ。
「誰か……来る?」
「ああ、悪いが作業は中断だ。君も迎撃の用意をしてくれ」
先程聞いたばかりの音が聞こえてくる。石の木が生長して床を押し上げる音だ。
やがて、重い音を立てて床が部屋に到着した。新たにこの場に増えた人影は四つ。
「随分、好き勝手やっているようだな」
その内の一人がアポロ達三人をそれぞれきつく睨め付けながら発言した。相も変わらず色の濃いローブを羽織ったターレックだ。
その背後に黒と金色のドレスを着た女王ククルの姿がある。
名前が分かるのはその二人までだった。残る二人は姿を知っていても名前を知らない。
グレーのベストを着用した大柄な男が革靴で床を叩いて前に出る。
「あなたは……さっきホールにいた……」
「よう、また会ったな少年!」
大声がビリビリと部屋の中を震わせる。まるで落雷のような挨拶だった。
「そうだ。あの時は自己紹介をしていなかった。混乱させるのも悪いと思ったんだが、まさかこんなところで再会するとはなぁ。それならあの時しっかりと名乗っておくべきだった」
男は白髪の交ざった頭髪を片手で撫でつける。赤い瞳はぎらついていた。
そして、男は信じられない名前を名乗った。
「我が輩の名はグラン・モーリス。王都ノリアの財宝管理府をまとめる立場にある者だ」