第三章 4
静寂に支配された王宮の白い廊下。窓から差し込む光は皆無で、代わりに濃くなった夜の暗闇が流れ込んでくる。
周囲が暗ければ暗いほど、黒い塗装が施されたブイレンの活躍の場が増える。曲がり角から顔を出させて状況を探知させた。
「扉の前に衛士フタリ」
最初にアポロが索敵を命じた時は不満気だったが、トレイやグランが頼りにしていると声をかけた途端、意気揚々と自分から動きはじめた。今までさっぱり気づかなかったことだが、どうやら彼女は褒めると調子に乗ってくれるらしい。
衛士二人が見張る扉は大ホールを出た廊下のちょうど中程にあった。作業棟と呼ばれる建物への入り口だ。
魔霧を貫く塔は、大ホールのある東区画ではなく、中庭を挟んで反対側の西区画に存在する。そこに向かうにあたって最も安全と思われるのが、作業棟を突っ切るルートだった。
それ以外だと、特殊な扉で固く閉ざされた謁見の間を通るか、王宮の出口まで一度戻るしかない。どちらもリスクが高すぎる。
とはいえ、作業棟の前にいる衛士も無視はできない。
「どうする?」
尋ねると、トレイはブーツ脇に装着された銃を示した。
「これで無力化する」
「殺したり大怪我させたりするのは賛成できないんだけど」
扉を守る衛士達に罪はない。無茶を言っているのは自覚していたが、なるべく穏便に作戦を遂行したいという気持ちがあった。
グランが親指を立てる。
「安心せい。今夜のために特別な弾を儂が作っておいた」
「え? グランは弾を作ったりできるのか?」
普通の銃弾でさえ、素人が作成するのは難しいと聞く。どんな力なのかは分からないが特別製の弾を作成するとなると、かなりの技術力が必要になるはずだ。
「ま、まぁの」
歯切れの悪い返答に、アポロは不信感を隠さずに目を細くする。
「閣下の技術に関しては後で説明する。今はこの場を突破することに専念してくれ。……ブイレンに衛士を油断させるように頼めないか?」
トレイがグランを庇いながら指示を出す。アポロは今度こそ主らしいところを見せようと、ブイレンに話しかけた。
「ブイレン、お前ならできるよな? 危なくなったら逃げて良いから」
一応褒めながら頼んだつもりだったが、ブイレンは顔を背けてしまう。
「シラジラシイ」
「頼むよぉ」
思わず情けない懇願の言葉が口から漏れる。その様子に満足したのか、ブイレンは小さな二本足で廊下を進みはじめる。
「ったく。何なんだあいつ」
そんなアポロとブイレンのやりとりがおかしかったのか、トレイとグランは必死に笑いを堪えていた。
扉に近づいた小さな黒い闖入者に、簡易的な兜と鎧を身につけた衛士二人が即座に反応して剣を抜く。
「何だ!?」
突きつけられた剣先に驚くフリをして、ブイレンは両翼を広げた。ひょっとすると本当に驚いているのかもしれない。その姿はまるで人間が諸手を挙げて降参しているかのようだった。
「すみません。その子は私のゴーレムでして」
顔の前で手を縦にしながら、トレイが扉の前に近づく。衛士二人は変わらず剣を構えていたが、トレイの姿を見て彼が王都からやってきた騎士であることに気づいたのだろう、明らかに警戒度を下げた。誰も、こんなところで彼が強硬手段に出るとは思わない。
「ついさっき逃げられてしまいまして。追いかけていたらこんなところにまで……」
ブイレンに身体を寄せるようにトレイが廊下でしゃがみ込む。端から見るとブイレンを抱き寄せているように見える。
「やや、そうでしたか。珍しい形のゴーレムですね。……あ、いや、宮廷画家の一人もこんなゴーレムを連れていたかもしれません。最近の流行なんですか?」
トレイの気分を害さないように配慮しているのか、衛士は剣を収めて朗らかに話しかける。
その時だった。
トレイは素早く立ち上がり、右手を二度動かした。しゃがんだ際に引き抜いておいた拳銃を使用したのである。
銃声はほとんど聞こえない。おそらくそうなるように銃に細工をしたのだろう。弾丸を撃ち込まれた衛士二人は慌てて剣を抜こうとするが、それよりも先に弾丸の効果が発動した。
緑色の紐が蔓のように広がり、二人の衛士達の身体を絡め取る。口元にも紐がかかり、声すら出せない状態になった。弾丸の効果は、六年前にククルがオルグに使用した魔法に酷似していた。
「あれは魔法?」
トレイに追いつくために廊下を進みつつ、弾丸の作成者であるグランに問いかける。
「どちらかというと魔導具に近いの。魔術師のレシピを誰でも使えるように加工した品じゃ。そんなに数は用意できんかったが、威力は保証する。ああなったら数時間は動けん」
三人と一羽は合流した後、縛った衛士を作業棟の扉の内側に引き入れた。
作業棟の中に入るとまず広めの通路がある。通路の右側には汚れた扉がいくつも並んでいて、その扉の向こうに宮廷画家が共同で利用するアトリエがある。昨日アポロとソラリスが会話していたのはここだ。左側には一つ階段があり、そこは王宮で生活する画家のための寮に繋がっている。
その全てを無視して一行は通路を真っ直ぐに進む。突き当たりに、今しがた通ってきた物と同じような扉があった。そこを抜けると王宮の西区画に到着する。
当然、その扉の外側にも衛士の見張りがいるわけだが、そちらの対処は早かった。
アポロが忘れ物を取りに来た宮廷画家という設定で扉の内側から衛士に声をかけ、油断した隙にトレイが銃弾を撃ち込む。沈黙した衛士は一回目と同じように作業棟の中に隠した。
西区画まで来れば塔は目と鼻の先だ。幸運なことに塔入り口に見張りはいない。
現在この城で最も価値のある物は宮廷画家の手がけた作品であり、それらは全て競売祭の行われる大ホールに集められている。当然、警備が厳重になるのは大ホール周辺であり、その皺寄せで他の場所の警備が薄くなっているのだ。
「ところでアポロ。作画にはどれくらい時間がかかりそうだ?」
廊下を歩きながらトレイが尋ねてきた。
アポロは頭の中で必要な作業工程を洗い出す。
「今日はキャンバスを持ってきたから、まずはそこに直接鉛筆で下書きを書く。下書きは一度紙にも書いているからここでそんなに時間はかからない。だから、その後の下塗りまでは終わらせたいかな。その先は帰ってからでもできるはず。……大体二時間あったら嬉しいけど、一時間で終わらせるつもりで作業する」
「二時間でも良い。念のため俺達の提出した購入希望届には、順番が後ろに回りそうな作品ばかりを選んで記入しておいた。かといって参加すると目立ちそうな一番人気の絵は避けたがな」
グランが謁見の間の交渉で購入希望届を提出する期限を先延ばしにしたことを思い出した。それが功を奏したということだろう。参加希望を提出している作品が登場するまではボックス席が空になっていることに気づかれにくい。
「作戦が終わった後、絵も競り落とすのか?」
「いや、少額を提示して終わりだ。持ってきた資金はついさっきばら撒いてきた」
「は?」
アポロとグレイが同時に驚く。トレイはさらっととんでもないことを言った。
「ちょ、持ってきた資金全部をか!? 一体何のためにそんなことしたんじゃ?」
グランの顔が青ざめる。もしかすると二人は共同で資金を管理していたのかもしれない。自分のあずかり知らぬところで財布が空になっていたとなれば誰でも焦る。
「閣下、競りの参加者の懐が厚くなればなるほど、競りの時間は延びます。それだけ我々の作戦遂行時間が確保できるということなのです」
恭しく頭を下げつつ、しかし、淡々と金のばら撒きについて説明するトレイ。
グランは頭を抱えた。
「だからって、そんな……ああ、もう、どうしてお前さんは極端なことばかりするんじゃ」
「問題ありません。素晴らしい絵画を一枚買ったと思えば、これくらいの出資何でもないことでしょう」
そう言いながら、トレイがアポロをチラリと見る。
つまり、彼はアポロの描く絵のために大金を惜しげもなく使ったということか。
「ヘタクソは許されないナ」
肩の上で相棒が追い打ちをかけるように呟く。期待されていること自体はありがたいが手加減はして欲しかった。
塔の入り口に到着する。扉は存在せず、そのまま内部に入ることができる。
坑道にも似た狭さの通路を抜けると、中央に紋章が刻まれた白い部屋に出た。石界大樹内部の遺跡に雰囲気が若干似ている。同じ者が建築に携わっていたか、もしくは遺跡を参考に塔を建てたか、そのいずれかだろう。
どこにも塔を登るための階段がなかった。
「また隠し通論の類いか」
アポロは呟きながら部屋の中を見回す。
しかし、今回は壁画や石版のようなヒントも見当たらない。目立つ手がかりと言えば、床に刻まれた岩を支える樹木の紋章だけだった。
「閣下」
トレイに言われて、グランが手に持っていた皮のケースを床に置く。昨日スラム街の住人達に盗まれた荷物だ。ケースの蓋を開くと中に精緻な機械と道具が収納されていた。
「全部魔導具か?」
「儂の自慢のコレクションじゃ」
レンズ、ナイフ、コンパス、筆記具、鏡。ケースの中には多種多様な道具が揃っていて、またその全てに機械的な部品が取り付けられている。
どれも相当に古い。魔導具が普及しはじめたのはごく最近だが、製作のための基礎理論自体は百年以上前から存在していたという。黎明期に作られた魔導具は再現性が低い代わりに効果が強力で価値が高い。このケースの中身を全て売却した場合、小さな町であればそのまま買えてしまうのではないだろうか。
「これ、もしかして王都の財宝なんじゃ……?」
もしそうだとすれば、財宝管理府長だからこそ揃えられた一式ということになる。しかし、グランは首を振った。
「いんや。あくまで儂の私物じゃ」
私物としてこれらを蒐集するのにどれほどの金と時間が必要になるのか、アポロには想像がつかなかった。
「トレイ。お前さんの目には何か見えるか?」
ケースの中からレンズと何かの筒を取り出しながらグランが尋ねると、トレイはブーツで床を叩いた。
「明らかに紋章に魔力が溜まっているな」
「まぁ、そうじゃろうな」
頷いてからグランがその場にしゃがみ込む。床の上に筒を置き、上部のスイッチを押し込むと、筒が開いて羊皮紙が現れた。羊皮紙に刻まれているのは図形や文字……魔法のレシピだ。
「さて、上手くいくかの?」
舌なめずりをして待つグラン。三十秒ほど経過すると、羊皮紙の真上に黒い線が浮かび上がる。まるでたった今誰かが空中に文字を刻んでいるかのようだった。刻まれているのもやはり魔法のレシピに見える。
「一体何が起きてるのさ」
耐えかねてアポロが問うと、グランは浮かび上がる文字と記号の羅列に視線を固定した状態で、今起きている現象の解説をはじめた。
「儂が使った魔導具は魔導予測器と呼ばれる代物でな。魔法のレシピが近くにある場合限定じゃが、そこに構築された魔法の中身を読み取ることができる」
「なっ……!」
想像以上の効果だった。年代物の魔導具の中でもここまでの高機能を持つ物は珍しい。使うだけで魔法の仕組みを明らかにするということは、やりようによっては魔術師の切り札を即座に分解できてしまう。
「お前さんが思っているほど便利ではないぞ。見ていたと思うが起動に時間がかかるし、魔法のレシピが近くにないと発動せん。防御の魔法も特に組み込まれてないから攻撃されればそれだけでおしまいじゃ」
そう聞くと戦闘に向いた道具ではなさそうだが、それでもやはり便利であることに変わりはない。この世には扉や窓に鍵をかける類いの魔法もあるというが、この道具に対しては意味をなさなくなる。
「あ、でも、レシピが分かってもそれを読み解けないと意味ないのか」
「その通り。じゃが、儂はレシピを読み解くのに長けておる。魔法辞典と呼ばれる王都の探偵ほどではないが、大抵の魔法を理解するぞ」
その異名を持つ探偵については知らなかったが、他者の魔法を読み取ることがどれだけ難しいのかは理解できる。
魔術師は己の構築するレシピに独自の暗号を組み込む。それが解読できなければレシピの意味は分からない。アポロは祖父の魔法を引き継いでいるが、その習得も、直接祖父に教わることができる立場にありながらかなりの年月が必要だった。
グランは浮かぶ文字を指で辿りながら、調査の結果を話しはじめた。
「こいつはそれほど複雑な魔法ではないのう。その代わり発動に無視できない条件がある」
「どんな条件?」
「特別な者がここにいる状態で『再生せよ』と呪文を唱える必要があるらしい。特別な者がどういった存在なのかまでは予測器では分からんかったようじゃな」
「それ、今ここでこの魔法を起動させるのは難しいってことだよな」
特別な者というのがターレックを示している可能性もある。その場合、ここの魔法を起動させるのは不可能だ。
階段が存在せず、魔法も使えない。八方塞がりの状況だった。
「いや、待て。紋章に変化がある」
トレイの言葉にグランもアポロも視線を床に移す。黒い塗料で刻まれた紋章が緑色の輝きを放ちはじめていた。
「これもグランの仕業?」
「違う。どういうわけか魔法が起動しとる」
「何で!?」
グランの話と全く噛み合わない現象に困惑する。
「謎解きは後だ。起動したのであれば、ありがたく使わせてもらうとしよう」
トレイが身構えながら言った。アポロも見習って鞄の中にある護身用の鉛筆を握りしめる。
遺跡の隠し通路が開いた時ほどではないが、部屋全体が小刻みに揺れた。この振動で塔への侵入が誰かにばれるかもしれないが、今更どうしようもない。
突然、天井が真っ二つに割れて開く。細長い空間は上方向にどこまでも続いていた。
身体に重圧がかかる。つい昨日、地上と採掘場の行き来に昇降機を利用したが、ちょうどその時と同じような感覚だ。
「おお、こりゃ凄いの」
グランがせり上がる床の縁から下の様子を眺め、興奮した声を上げた。
「グラン、危ないぞ」
と言いつつ、アポロもグランの身体を押さえながら下を確かめた。木のような形の柱が一気に成長して床板を押し上げている。
「これ、石樹だ。石界大樹以外にもこんな大きい物があったのか」
おそらく魔法によって成長を制御しているのだろうが、この国に長く住むアポロでさえ、石樹に対してこのような操作ができるとは知らなかった。今の魔術師がこれを再現できるのかも分からない。
「紋章と同じような構図だな」
トレイも仕掛けに感心した様子で呟く。確かに、今のこの状況は岩を木で支えている紋章の絵にそっくりだ。
木の生長に見蕩れていると、いきなり襟元を引っ張られた。グランも同じようにされたらしく、二人して動く床の上に転がる。二人を乱暴に引っ張ったのはもちろんトレイだ。
「な、何だよ!」
文句を言い終わらないうちに、床板が大きな音を立てて停止した。
今到着した部屋の床の真ん中に穴が開いていて、一階の床がそこにはめ込まれた形だ。
グランとアポロが下を覗き続けていた場合、床の石と石の間に頭を挟まれて絶命していただろう。知らず命の危機にさらされていたことにぞっとした。
「あ、ありがとう」
トレイは口元だけで仄かに笑う。気にするなということらしい。
アポロは体勢を直して塔の内部を見回した。