第三章 2
ボックス席の外は茶色のカーペットが敷き詰められた落ち着いた雰囲気の廊下になっている。ここから、化粧室やバックヤード、楽屋などに行けるようになっていた。
アポロは化粧室に向かう振りをしながら、柱の陰に隠れ、バックヤードに向かうメイドの様子を見守る。バックヤードの入り口の前には男性の使用人が一人立っていた。執事服の襟元に、使用人をまとめる立場の証である小さな襟章が縫い付けられている。
メイドは駆け足で男性執事に近づいて報告をはじめた。二人の会話の内容はアポロのいる位置からでもギリギリ聞き取れる。
「どうだった?」
「あの、特に怪しむような素振りもなく、納得されていました」
「そうか。ひとまずは切り抜けたな。もう一度聞かれた時も同じ対応で良い。揉め事になりそうになったらすぐに私を呼べ。くれぐれもグラン閣下にオペラグラスは渡すなよ。ターレック様に叱られる」
執事長の最後の一言でアポロの鼓動の速度が上がる。警戒していなかった足の小指を敵に触れられたような感覚だ。一体この国のどこまで錬金術師の息がかかっているのか。
二人の使用人はそのままバックヤードへと消えていく。
オペラグラスがグランの元に届けられなかったのは意図的な采配だった。しかし、それがどのような意味を持つのかは全く分からない。オペラグラスに仕掛けがあるとして、それはいつからはじまったことだったのか、少なくともアポロが宮廷画家になった年には、既にボックス席の賓客に配布されていたような気がする。
「失礼、ちょっといいかな?」
考え事をしている時だった。化粧室から出てきた大柄な男に声をかけられる。人の気配には気づいていたが、まさか声をかけられるとは思っておらず驚いた。
一目で高級品と分かるシャツとベスト。首元には紫のタイ。抱えたグレーの上着には色形様々な装飾品が付いている。たっぷりと蓄えた髭とほとんど白くなった頭髪は、老いよりも貫禄を感じさせた。強面と濃い赤色の瞳がアポロに絶大なプレッシャーをかける。
「あ、あの、何でしょうか?」
「女王ククル様か宮廷錬金術師のターレック殿にお会いしたいのだが、どこにいらっしゃるか知っているかね? 何分、我が輩達はこの島に到着したばかりで右も左も分からない」
『我が輩達』という言葉に合わせて男の視線が右に寄る。
その視線の先、男の三歩後ろに、身体のほとんどをフード付きの外套で覆った者がいた。
似たような格好をしていたスラム街の住人と違って汚れた印象はない。外套は新品同然の状態だ。顔すら見えなかったが、何となく体つきを見て男だろうなとアポロは予想した。よく見ると、外套の裾から覗く手には鞘に収められた立派な剣が握られている。
「ククル……様はこの廊下を進んだ先、ちょうどここからホールを挟んで反対側にある専用の個室にいらっしゃると思いますが、基本的に競売祭の間は人とお会いにならないと思います」
一応、昨日まではアポロもこの競売祭の運営側で働く予定だったので、一通りの情報は頭に入っていた。
「それから、ターレック様はおそらく舞台裏に……」
「私ならここにいる」
突如背後から切りつけられたかと錯覚する。振り返ると廊下の奥に昨日とはまた別の色のローブを羽織ったターレックが立っていた。
「困るな。部外者に接客なんかされては」
怒りと不快感を隠さず、ターレックは金色の瞳でアポロを睨め付けた。
「申し訳ありません」
咄嗟のことだったとはいえ、自分が応対したのは過ちだった。できるだけ穏便にこの場を収めるために頭を下げる。
ただし腸は煮えくり返っていた。
目の前の相手が今こうしている間も卑怯な方法で国を乗っ取ろうとしているのかと思うと、この場ですぐに魔法を行使したくなる。
ターレックが大股で廊下を歩いてくる。
「そもそも、どうして君は今も尚、この王宮にいるんだろうね。忘れ物でもしたか。私は昨日の内に荷物をまとめろと言ったはずだが」
「お客様から案内役を仰せつかりました」
本当のことを話す。正式な身分があることを明示しなければ追い出されかねない。ただし、聞かれない限りは雇い主がグランであることは伏せるつもりだった。この男に与える情報は少なければ少ないほど良い。
「ああ、なるほど」
近づいてきたターレックは、日光を忘れたような白い指でアポロの肩を撫でる。
「宮廷画家を首になったばかりの君は従者にするにはもってこいの人材だ。何せ安上がりだからな」
鞄の中でブイレンが暴れ出す。アポロはそっと鞄に手を添えた。それだけで意図が伝わったのか、ブイレンはすぐに大人しくなる。ここで怒りを発露させて喜ぶのはターレックだ。挑発に乗ってはいけない。
暫く黙っていると、ターレックは小さく鼻を鳴らしてアポロから離れた。そして、高級な服を着た大柄な男と外套を着込んだ人物に対して交互に視線を送る。
「して、あなた方は何者ですか? この王宮に入る資格を持つ者なのですか?」
アポロに対して程ではないが、言葉に強い敵意が含まれている。少し考えてその理由に思い至った。
大柄な男はつい先程この島に到着したと言っていた。つまり彼らは外から来た人間であり、当然、この島の住人と違ってターレックと魔力線で繋がれていない。そして、品評祭に参加していないため催眠魔法にもかかっていない。
今思えば謁見の間の時もターレックは催眠魔法を潜り抜けたトレイに対して執拗に話しかけていた。どうやら彼は自分の手中に収まっていない相手が目の前にいると苛立ちを覚えるらしい。
初対面でいきなり敵意剥き出しの対応をされたにも関わらず、大柄の男の余裕は崩れない。
「一応、我が輩達がこちらに来る旨は事前に知らせたつもりだったんですがねぇ」
「祭りに参加する予定だった来客は昨日の時点で全員到着しています。いい加減なことを言うのはやめていただきましょう」
ターレックの言葉に対し、大柄な男と外套を被った男は一度顔を見合わせた。そして、大柄な男の方がくっくと可笑しそうに笑う。
「やはりそういうことになっていましたか。……少々お耳を拝借」
大柄な男がターレックに近づき、何かを耳打ちした。会話の内容は聞こえなかったが、余程の内容だったのか、ターレックの表情が驚愕に染まる。
「そんな馬鹿な!?」
「まぁまぁ、驚かれるのも無理はない。詳しく事情を説明したいのですが……ここだと少々都合が良くない。彼を不用意に混乱させるのも悪いでしょう」
大柄な男は芝居じみた大声で喋り、最後にアポロに向かって片目を閉じた。どうやら、ターレックとアポロの仲が悪いことを察して、距離を取ろうとしてくれているらしい。それだけならただ親切な人という印象だが、そのついでに自分達の都合も通している。強かな人物だ。後日、この一件を貸しにしたと言ってきてもおかしくはない。
「……では、こちらへ。防音魔法が施された楽屋がございます」
ターレックは男達のことを完全に信じた様子ではなかったが、一旦は話を聞くことにしたらしい。ローブを広げて二人の客を誘導する。大柄な男が先にそれに着いていき、外套を羽織った男は間隔を開くためか少しその場で待っている。
ターレックは廊下から姿が見えなくなる手前でわざわざ振り返り、アポロに対して怒鳴った。
「元二十九位! くれぐれも城の中をうろついてくれるなよ」
深緑色のローブが消えていく。
もう我慢も限界だったのか、鞄の中からブイレンが飛び出した。
「何を偉そうニ!」
廊下にはまだ、外套を被った人物が残っていた。
「ちょ、馬鹿!」
慌ててブイレンを止めようとするが間に合わず、彼女はまんまとアポロの頭の上に立つ。麦色の巣の上に鳥が降り立ったような状態だ。
「興味深いね」
外套の人物が声を出す。かなり若い声だった。
「主の悪口に反応するゴーレムなんて、王都でもお目に掛かったことがないよ」
若者は一切の足音を立てず、握った剣すらほとんど動かさずにブイレンとアポロに近づいた。その美しい足運びに思わず見蕩れそうになる。
「何だオマエ」
ブイレンがくちばしを前後に揺らしながら言葉で威嚇する。相手を怒らせるのではないかとアポロは焦ったが、若者は無礼な態度を気にしているようには見えなかった。雑貨屋で珍品を見つけた客のようにブイレンを観察している。
「うん。良い相棒だと僕は思う。大切にした方が良いよ」
見たい物を見て言いたいことを言い終えたのか、若者は外套を翻してターレック達が消えた方向へと歩いて行った。
アポロは何が起きたのかいまいち分からずその場で暫く立ち尽くし、ブイレンは嬉しそうに頭の上でダンスを踊っていた。