第三章 1
浮き足立った喧噪が四方八方に散らばっている。
あまりに座り心地が良すぎて逆に落ち着かないソファの上。アポロは手すりから僅かに身を乗り出して階下の客席を観察していた。
赤いカーペットをそのまま椅子の形にしたような客席の並び。そこに座る来訪者達は一様に目を煌めかせ、周囲の知人と歓談を楽しんでいる。
統一感のない衣装に反し、強引に統一された絵画に対する関心。バラバラの石を使うからこそ味が出るモザイク壁画を、あえて石を塗装し、形を整えてから作ったようなグロテスクさがそこにある。
事情を知ったからそう見えるのだと言われてしまえばそれまでだが、だからといってこのまま放置して生きていくのは無理だ。たった一日滞在しているだけでも意識を塗り替えられてしまう世界。そんな場所で暮らしているヘルメトスの民の今後を想像すると嘔吐しそうになる。
トレイと遺跡で計画の決行を誓ってから一日が経過していた。
今は夕刻。間もなくこの場所……王宮内の大ホールにて競売祭が開かれる。
アポロがいるのは二階のボックス席。グラン用に割り当てられた賓客用の個室である。一階に比べ、絵が登場するステージから離れているが、オペラグラスを使えば十分対応できる距離だった。第一、顧客のほとんどは昨日の間に購入する絵を決めているはずなので、絵が見え辛くとも問題はない。むしろ賓客達は個室という特別待遇に感謝しているはずだ。
アポロもまた、この待遇に感謝していた。
ただし、落ち着いて競売に参加できるからという理由ではない。
この個室なら、途中で離席しても誰にも気づかれずに済む。
アポロ達は競売祭で観客が競りに夢中になっている隙に塔に向かう手筈になっている。
その時に備え、ブイレンはアポロの鞄の中で眠っていた。トレイは何か準備があるということでまだ合流していない。グランは先程「緊張すると近くなる」などと言わなくても良いことを捨て台詞のように残して化粧室に向かった。そろそろ帰ってくる頃かもしれない。
やることもなく、再び会場に視線を落とす。
アポロが競売祭に訪れたのはこれが初めてではない。毎年できれば来たくないと思っているのだが、毎度ソラリスに「勉強になるから」と無理矢理連れてこられるのだ。
ソラリスは今、ステージの袖で何やら準備をしていた。他の宮廷画家に向けて身振り手振りで指示を出す。声を使わないのは裏側の雰囲気を客に悟られない工夫だろう。
――私はこのままでいいと思う?
昨日のアトリエでの会話を思い出す。あの時アポロは、自分達は進もうとする限り、いつか必ずどこかに辿り着くと答えた。しかし、この国でこのまま進もうとしても、いずれターレックに利用されて終わる。彼女の努力が彼女の望まぬ形でターレックに収穫されるのは許せなかった。
彼女に伝えた言葉を嘘にしないためにも今夜の作戦を成功させる必要がある。
「随分怖い顔をするんじゃのう」
つい最近聞いたような台詞だった。いつの間にかボックス席の正面にグランが戻ってきている。どこか愛嬌のある眉が心配そうに八の字を描く。
「ああ、何かすいません」
険しい表情をし過ぎたせいで心配をかけてしまったことを素直に詫びる。グランは周囲をキョロキョロと確認した後、椅子から腰を離して囁いた。
「儂にも敬語はいらんぞ」
昨日グランの泊まっている宿屋で作戦会議をした際、アポロがトレイに対して話しかける度にグランが挙動不審になっていたことを思い出した。おそらく、本当は自分も楽に会話したいと思っていたのだろう。
申し出はありがたく、実際アポロは敬語が苦手なのだが、だからといって、グランほどの立場の者に対して敬語を使わないのはそれはそれで精神の負担が大きそうだった。
どちらも大変なのであればグランに合わせるべきだ。
「分かった。これからはそうする」
「うむ。是非そうしてくれ。儂も堅苦しいのは苦手でのう。本当はこんな物もさっさと脱ぎたいんじゃ」
そう言って宝石の付いた豪奢な上着を揺らす。椅子にカチカチと音を立ててぶつかる宝石が今にも服から外れそうで気が気ではない。
暫く見ていて気づいたが、グランの雰囲気にその上着は似合っていなかった。エプロンを着てパン屋の店先に立つ方が様になりそうだ。
王都の財宝管理府の長を務めるグランと、その護衛を担うトレイ。どちらもある種その職に似つかわしくない独特な雰囲気を纏っている。
「グランとトレイってどういう関係なんだ? 雇い主と雇い人ってだけか?」
何となく尋ねるとグランは即答した。
「相棒じゃな。もう長い付き合いじゃ」
小さな老人は懐かしそうに目を細める。昨日の遺跡でもトレイが一度似た表情をしていた。
「俺達は美しい物を見るためだけに生きているってトレイが言ってたよ。画廊でグランに対しても同じことを言った。王都の財宝管理府長が美しい物を見るためだけに生きてるってオレにはどういうことかよく分からなかったんだけど……」
答えを求めてグランの小さな目を見つめる。数秒もしない内に彼の目は泳ぎはじめ、ぶつぶつと何かを言いはじめた。「あいつ、儂には絶対言うなとか言っておった癖に」とトレイに対して文句を言っているようだ。
「何? グランとトレイって、もしかしてオレに隠し事してる?」
「いや、これから共に修羅場を潜ろうという相手に対して隠し事なんてしとりゃせんぞ」
分厚い顎をぷるぷると揺らしながら、用意していたような台詞を吐く。正直言って全く信用できない態度だ。
「……まぁ、ここで掘り下げても話が拗れるだけか」
アポロが追求するのを辞めるようなことを言うと、グランはあからさまに胸を撫で下ろす仕草をした。
「今、凄いほっとしたみたいだけどさ。これが終わったら全部話せよな」
ぎくっと音がするくらい分かりやすくグランの身体が硬直する。あまりのわかりやすさにアポロは思わず笑ってしまった。
たとえ嘘をついていたとしても、彼が憎めない性格であることは間違いなさそうだ。
ボックス席の小さな空間に暫く沈黙が流れる。階下から聞こえる喧噪は雨音にも似ていて意味を持たない。
ソファの間のローテーブルから水の入ったグラスを取る。席に着いた際、王家の使用人が置いていった物だ。当然、昨日アポロが宮廷画家を首になったことは周知の事実であり、使用人からも白い目で見られたが、もし何か聞かれてもグランの案内人を引き受けたと答えればいいだけなので、あまり気にしないことにした。彼らがアポロを見下したり、敵視したりしているのもターレックの影響かもしれないのだ。いちいち相手にしていては切りがない。
乾いた舌を氷で冷えた水が潤す。グラスを口から離したところで、グランが沈黙を破った。
「儂らは外から来た人間じゃ。そう簡単に信用できないのも分かる。じゃが、トレイがお前さんに協力したいという気持ちは理由も含めて全て本当なんじゃ。今はそこだけ信じてくれたらええ」
アポロとしては先程のやりとりを最後にグラン達の隠し事を追求する話は一度終わったと思っていたのだが、どうやらグランは沈黙の間、アポロに何を伝えるべきか考えていたらしかった。
トレイがアポロに協力する理由。ヘルメトスの環境を悪用しようとする者が許せないから、そして、完成したアポロの絵を見たいから。
「オレとしてはそこが一番信じられないんだけどな」
「何でじゃ? お前さんは画家だ。誰かを夢中にさせるために絵を描いてる。それが誰かの心を動かしたとて不思議なことではなかろう?」
「良く言うよ。グラン、あんたはオレの絵を素通りしたはずだ」
画廊でのグランの様子を思い出す限り、彼はしっかりと画廊に仕掛けられた催眠魔法にかかっていた。昔、ソラリスから聞いた話によると、あの催眠魔法はかかった者を直接操るようなことはできないが、何となくこの絵が気に入ったと思わせてしまうくらいの効能はあるらしい。あの催眠魔法の構築にはターレックも関与している。当然、客に気に入ったと思わせる範囲に王宮のやり方をなるべく無視しようと足掻いていたアポロの絵は含まれていないだろう。ちなみにトレイは魔力の流れが見えるので催眠にかからないようなルートを選んで画廊を回っていたそうだ。
「あちゃ、こりゃ痛いところ突かれたの」
グランが大袈裟にパシンと頭部を叩き、舌を出す。芝居がかった仕草ではあったが、その後の気まずそうな顔を見ると、本当に痛いところを突かれたと思っていそうだった。
「いいんだよ。催眠なんかに負けたのは悔しいけど、基本的に芸術は好きな物を好きになっていいんだ。オレがいつかグランも夢中にさせる絵を描けば良い」
アポロの反応が意外だったのか、グランは小さな目を丸くする。そして、所々欠けた歯を見せた。
「そりゃあいいな。楽しみに待ってよう」
時々少年のような顔をするところはトレイとよく似ていた。立場を考えると不思議だが、二人が相棒という関係性なのは確かなのだろう。昨晩宿屋で話し込んだ時も二人の間には長年の付き合いがなければ出せない空気感が漂っていた。
突如、階下の喧噪が拍手に切り替わる。
「お、はじまるようじゃの」
グランと共にステージを見下ろす。舞台上に引っ張り出される布がかけられた絵画。そして、その前に立つソラリス。今日はカーディガンではなく、赤い燕尾服を着ている。
ソラリスが喉に指を当てて小声で何か呟くのが見えた。おそらく声が通りやすくなるように魔法をかけたのだ。もしくはそういう効果のある魔法薬を塗り込んだのかもしれない。
「皆様。大変長らくお待たせ致しました。これより、競売祭を開始したいと思います」
もう一度、今度は耳を割りそうなくらい盛大な拍手が巻き起こる。グランも一緒になって手を叩いていた。
「お主の絵も競りにかけられるのか?」
グランが無邪気に聞いてくる。
「いいや。さっき一応カタログを確認してきたけど、オレの絵はリストになかった。誰も購入希望届に記入しなかったんだろ」
「何じゃ、言ってくれればお主の絵を希望覧に書いたのに」
「いやいや、それは危険だって。ただの案内人で雇っているならともかく、催眠にかかっているはずのグランが画廊の入り口付近に飾られていたオレの絵を希望するのは、いくらなんでも目立ちすぎる。ターレックにまるごと警戒されかねない」
そして、グランの優しさ自体はありがたいが、同情で絵を買わせても画家として仕事を果たしたとは言い難い。
「む、言われてみればそうか。お前さんの絵と意識した状態でもう一度見たかったがのう。……まぁ、二階からじゃ絵もよく見えんが」
「え? オペラグラスが支給されただろ?」
毎年ボックス席を割り当てられた賓客にはオペラグラスが支給される。ところが、グランは何のことか分からないのか首を傾げた。
アポロは席の近くを歩いている使用人に声をかけた。メイド服を着た女性だ。アポロを見ても特に強い反応は示さず、機械的に「どうされましたか?」と決められた台詞を吐く。お世辞にも素晴らしい接客態度とは評価できないが、それでも自分を嫌っている相手よりは何倍も話をしやすい。
「すみません。グラン・モーリス閣下にオペラグラスを」
「少々お待ちください」
ゴーレムのように規則正しく頭を下げて、メイドはバックヤードへと消えていく。三分後、戻ってきたメイドは最初よりも深く頭を下げた。
「大変申し訳ありません。こちらの不手際でオペラグラスが足りない状態となっております。ただいま代用品を用意しているところでございますので、そちらが到着次第、届けさせていただきます」
「おお、そうかそうか、わざわざすまんのう」
グランは笑顔で礼を言ったが、アポロは納得していなかった。何事においても完璧な仕事を熟すソラリスが取り仕切っていて、オペラグラスの不足など起こりえるのだろうか。賓客が競売祭を楽しむ上で必須な道具のはずだ。
とはいえ、メイドに細かい話が知らされているわけもなし、そうかといって具体的な事情を知る者を呼ぶために騒ぎを大きくすればこの後の計画に支障が出る。
メイドがもう一度頭を下げて退く。アポロは妙案を思いついて席から立ち上がった。
「お? アポロ、どうしたんじゃ?」
「ちょっと、お手洗いに行ってくる」
アポロはそのままボックス席から離れてメイドの背中を追いかけた。