第二章 8
アポロの六年前の話が終わると、ブイレンが一声「カァ」と小さく鳴いた。どうやら彼女にとっては退屈な話だったらしい。
自分としては聞き手が飽きないように工夫しながら話していたつもりだったので少し悔しかった。
「君の語りに登場する女王は、今の女王とはまるで別人だな」
トレイが短く感想を呟く。
「オレもそう思う。だけど、誰もそんなこと言わないからオレ一人だけ感覚が違うのかもしれないとも思ってた。……トレイは謁見の間でククルを見た時に具体的にどう思ったんだ?」
それは遺跡に来る前からアポロがトレイに確認したいと思っていたことだった。
「まず、芸術の島を率いる立場にしては画家に対して冷たすぎるだろう。それどころか、そもそも芸術に対して興味がないように見えた。祭りを楽しめと口では言っていたが、彼女自身はその楽しみをまるで理解していないような気がしたな」
あくまでトレイは六年前の出来事をアポロの語りを聞いて知った状態に過ぎず、完全に客観的な視点で全体を見ているとは言い難い。それでもアポロは、彼が女王に対して自分と近しい感想を抱いたということにほっとしていた。
「オレはククルに何かが起きているのなら、それを解決したい」
同じ場所で夢を語り合った仲間として、今の状況を見過ごすことはできない。
「それで星空の絵を見せて正気に戻そうという話になったわけか。ロマンチストだな君は」
言い返す言葉はない。自分でもあまりに幼稚な考えだと思っていた。
「ロマンチストで何が悪イ」
ブイレンがくちばしを鳴らしながらトレイのブーツに突撃する。当然、彼に攻撃は当たらない。
「まぁ落ち着いてくれ。俺は彼の行動を否定しようとは思っていない。むしろ現実的な方向性で考えても、彼の絵には一定以上の効果が期待できる」
「俺の絵がククルを救えるのか? その根拠があるってことだよな、それ」
トレイは頷き、再び腰を床に下ろす。ブイレンも彼の話を一旦聞く気になったのか、アポロの足下に戻ってきた。
「ああ、まずは俺の仮説を聞いて欲しい。先程も話したが俺の目には魔力の流れが見えている。その目を持って今日一日この国を観察していたわけだが……」
トレイはそこで一度言葉を句切った。それだけで話の続きの深刻さが窺える。
「この国は今、一人の男によって掌握されようとしている可能性がある」
「男!? 女王じゃなくてか?」
言うまでもなく、現ヘルメトスのトップは女王ククルだ。男がこの国を掌握しようとしているということは、つまり、女王以外の誰かが国を乗っ取ろうとしているということになる。
「そうだ。そして女王は既に、その者の魔法によって傀儡になっている可能性がある」
「傀儡って……」
にわかには信じ難い話だった。
「ここの石版を隠したのは女王かもしれないが、それが本人の意思による行動とは限らないと言ったのはそういうことだ。女王はここの石版を別の場所に移すように操られた。もしかすると、この場所の存在も無理矢理吐かされたのかもしれない」
「その根拠は? トレイはその目で一体何を見たんだよ」
すると、トレイは軍服の裾にナイフを当てて解れさせ、数本の糸を引き抜いた。そしてそれをブイレンの周囲に配置する。糸の先には石の破片が置かれ、まるでたくさんの石とブイレンが繋がっているような状態になった。
「この国の民は皆、一人の男と魔力の線で繋げられている。俺にはそれが見えた。採掘場の人々は線がまだ薄いが、王宮にいる人々の線は濃い」
「線が濃いほど、その男の影響が強いってことか?」
「おそらくそうだろうが、残念ながら俺の目は魔力の流れが見えるだけでその効果までは分からない。いや、分かる時もあるんだが、まぁ期待しないでくれ」
どうやらトレイの目も万能というわけではないらしい。もしかすると魔法に様々な制限があるように何かしら縛りがあるのかもしれない。
「話を戻そう。特に線が濃いのが女王ククルだ。炭鉱夫と比べて十倍以上の太さの魔力線でその人物と繋げられている。まさに傀儡人形のような状態だ」
嫌な想像が脳裏に浮かぶ。ククルが力なく玉座に倒れていて、その四肢を何者かが糸を引いて操っているのだ。
「ククルはそれで無事なのか!? いつからそんなことになってるんだ!?」
アポロは必死に尋ねるが、トレイは静かに首を振る。
「どちらも分からない。俺には魔力の流れとその形しか把握出来ない。女王が無事かどうかも、いつからこうなっているのかも知る術はない」
アポロは唇を強く噛む。自分の知らないところでここまで事態が悪化しているとは思っていなかった。トレイの勘違いであればそれでいいが、彼の目に特別な力があることは遺跡の文字を解読できたことで証明されている。その目で異変を見つけたのなら、この国で何かが起きているのは間違いないだろう。
民と一人の男を繋ぐ魔力線。それが良き影響を与える魔法のためであるのならばいいが、それならそういう魔法を使っているという事実を隠す理由がない。そこにはおそらく悪意がある。
「こんなことできる奴、この国には一人しかいない。線が繋がっているのは……ターレックだろ?」
トレイは肯定した。
宮廷錬金術師ターレック。頭の中で、紫色の紅で彩られた口元が不気味に笑う。
「アポロ、あいつは一体何者だ? この国においてあの男の存在はあまりに異質だ」
「ターレックは二代くらい前の国王がヘルメトスを統治している時から宮廷に出入りしている錬金術師だよ。何せ子供の頃から王宮に足繁く通っていたせいか皆に慕われている。魔法や魔導具について詳しいから、自然と皆頼りにしてしまうんだ」
だが、アポロは六年前からずっと、ターレックのことが苦手だった。あの男はアポロのことを羽虫を見るような目で見てくる。序列の低い宮廷画家という立場上、ある程度は見下されることに耐えようと思っていたが、たとえこの先自分の序列が上がろうともあの男とは相容れる気がしない。
「あいつ嫌イ。あいつ嫌イ」
ブイレンが翼を乱暴に振り回しながら不快感を露わにする。自宅でアポロがターレックの悪口を言っていると、翼を叩いて盛り上げようとするくらい、彼女もターレックのことを強く憎んでいた。
「あいつの権力が膨らむにつれてどんどんこの国がおかしくなっていく。新しい魔法や魔導具の導入についてはむしろいいことだと思うけど、島が発展すればするほど島全体が王宮のために動くように少しずつ作り替えられている気がするんだよ」
六年前、今の王宮は宮廷画家の描いた作品を王家だけが愛でるようにできてしまっているとククルが嘆いていた。彼女が即位すればその流れも止まるかと思っていたが、実際はその逆だった。
「五年前、ククルが女王になった時、同時にターレックも正式に宮廷錬金術師という立場が与えられた。魔法技術統括大臣っていう特別な役職も兼任してるらしい。そして……ククルがあいつの正式登用を決めた直後に星空を描くことを禁じる法律ができた」
「それだ」
トレイが指を鳴らす。ターレックに対する憎悪に飲まれかけていたアポロはその音で我に返った。
「あの男がこの国で良からぬ企みをしているのは間違いない。だが、問題はそれをどう打ち破るかだ」
「え? それはこの事実を皆に知らせれば……いや、駄目か」
片や宮廷画家を首になったばかりの若造、片や外からやってきた異国の騎士。国を侵略する陰謀について周囲に知らせたところで頭がおかしくなってしまったと思われるだけだ。しかも、国民に繋げられた糸からターレックに話が筒抜けになってしまう可能性もある。
そこまで考えてアポロは慌てた。自分にもターレックの魔力線が繋がっているとすれば、ここでの会話も把握されてしまうかもしれない。
「トレイ、オレにも魔力線は繋がっているんだよな?」
しかし、トレイは首を振り、アポロの懸念を否定した。そして、彼は指でブイレンのそばに置いた石の一つを差す。その石だけ何故か糸が繋がっていなかった。
「どういうわけか、君だけはターレックと魔力線で繋がっていない。だからこそ、君はこの国の芸術の在り方について疑問に思ったり、星空を描こうと決断したりすることができているんじゃないか?」
「オレだけが……?」
ターレックがアポロを特に敵視するのはおそらくそれが理由なのだろう。
しかし、何故そうなったのかは自分でも分からなかった。そもそもターレックがいかにして国民全員に魔力線を繋げたのか。その方法も目的も不明なのだ。例外が発生している理由を突き止められるはずがない。
アポロと似たようなことで悩んでいるのか、トレイも額に指を当てて唸っている。
「民と魔力線を繋げる理由が全く分からない。それが分かっていれば確実に奴の計画も阻止できそうなものなんだが……」
悩み続ける二人に、ブイレンが怒鳴る。
「分からないことは放っておケ!」
彼女の言う通りだった。何かを調べることすら叶わないこの場所であれこれ悩んでいても話は先に進まない。
「とにかく、この国で何故かオレだけが自由に考えることができていて、だから星空を描くこともできる。トレイは星空を描くことがククルを救うことになるって言ってたよな。そろそろその根拠を聞かせてくれよ」
「ああ、そうだな。六年前の出来事の中で君は魔法を行使してたようだが、魔法についての基礎知識はあるか?」
アポロは頷いた。基礎知識という言葉が魔法という奥深い学問においてどこまでを差すのか、それは人によって違うらしいが、少なくともこの場でいきなり専門的な話になることはないと予想した。それなら、契約魔法を改善する際に学んだ知識だけでついていくことができるはずだ。
「なら、知っていると思うが、魔法のレシピには共通した大きな弱点がある」
「レシピで構築した法則に矛盾が発生すると、そのレシピは消滅して二度使えなくなる……だよな?」
地下洞穴に見えない刃を放つ魔術師がいた。しかし、彼の魔法はトレイの特別な目で見られてしまったがために、法則に矛盾が生じて二度と使えなくなった。アポロの使っている簡易契約魔法も、例えば契約魔法を発動させたのに精霊が召喚できなかったという事態になれば、法則は矛盾し、魔法のレシピは消滅してしまうだろう。
魔術師は己の魔法を破壊されないために手を尽くすという。場合によっては、魔法を開発する時よりもそれを守る手段を講じる時の方が苦労するとまで言われていた。
「そう。錬金術師は薬と魔法の専門家だ。自分の魔法を守るために尽力するという点は魔術師と同じはず。君は彼の権力が膨らむ度、国がおかしくなると言っていたな。ならば、その権力が一番増大した五年前に加えられた法に着目するべきだ。それがおそらく彼が自分の魔法を守るために構築した手段だろう」
そんな物は一つしか思い浮かばない。
宮廷画家になって最初に渡される規則について記された本。その中で一際目立つ赤色の文字で刻まれた法がある。
「ヘルメトスの民はたとえ宮廷画家であろうとも王家の許可無く星を描いてはならない」
「そう。もしそれを破る者がいた時にどうなるのか。君があの絵を完成させた時に何が起きるのか。やってみる価値はあると思わないか?」
まだ不透明な部分は多々あるものの、全く輪郭のなかったアポロの計画に額縁が付けられた気がした。
だが、喜ぶにはまだ早い。
「でも、方法がない。昨晩はたまたま天候が荒れていたから少しの間だけ空を見ることができたけど、それもすぐに空蛇に阻止されたんだ」
「ああ、あの塔周辺を飛んでいる魔獣か。あれが空を守っているんだな。なるほど、ますます空に何かあると思いたくなってくる」
「だからってどうしようも……」
諦めの言葉が口から出かかったところで、ブイレンが遮るように言った。
「塔に登レ!」
トレイが目を輝かせる。
「それは良い。見たところあの塔は魔霧を貫いている。頂点まで行けば空を見ることもできるんじゃないか?」
とんでもない話が勝手に進みそうでアポロは慌てた。
「そりゃ、見えるかもしれないけど、あの塔は王家以外立ち入り禁止になってるんだよ。王宮の出入りすら自由にできなくなったオレがあんなところにたどり着けるわけがない」
「元より禁止されていることをやろうとしているんだ。そこは気にするな。王宮への出入りに関しても、君は既に堂々と王宮に踏み込める新しい立場を持っている」
言っている意味が分からず、アポロは首を傾げた。一方、トレイは話が進むにつれてどんどん良い顔になっている。
「君は俺の案内役だ。後でグラン閣下にも許可を取っておこう。明日の競売祭は確か王宮の中で行われる予定だったな。その際に俺と閣下の案内役が一緒についてきて何がおかしい」
子供の屁理屈のようだが衛士もグランにそう説明されたら何も言い返すことはできないような気がした。
「ってちょっと待って。まさか、二人も一緒に塔に登るってことか?」
「当たり前だろう。ここまで来て抜け駆けは許さないぞ」
眉をひそめるトレイ。致命的に話が噛み合っていない。
「そうじゃなくて、発覚したら二人も無事じゃすまないどころか、ノリアとヘルメトスの関係が悪化するだろうが。事はオレ達だけの問題じゃなくなるんだぞ。それでもいいのかよ」
思わず声を大きくするとトレイが口元に人差し指を当てた。アポロも迂闊だったことに気づいて今更口を両手で塞ぐ。いくらこの場に人がいないといっても大声を出せば外にいる炭鉱夫に聞かれてしまう可能性がある。そうなるとそこからターレックに会話の内容が伝わってしまうかもしれない。
「まぁ、落ち着いてくれ。元々これは国を揺るがす一大事を何とかしようという話だったはずだ。それなら、こちらも国の一つや二つ賭ける覚悟が要るだろう。……まぁ、仮に失敗しても国同士の問題にならない仕掛けは用意してあるんだがな」
そう言われてもアポロは全く安心できなかった。
確かにこの問題を生半可な覚悟で解決しようとしても返り討ちに遭うだけだろう。何せ相手は国全体を掌握しようとしているのだ。アポロ一人の命を賭けたくらいではとても釣り合わない。しかし、だからといって今日出会ったばかりのトレイやグランを巻き込むのは気が引ける。
だというのに、トレイの瞳は今も爛々と輝いていて、巻き込みたくないと言ったところで聞き入れてくれる気がしない。
「……どうしてトレイはそこまでするんだよ」
すると、余程その質問が思いがけないものだったのかトレイはぽかんと口を開けた。
「そんなもの最初から説明しているだろう?」
「何のこと?」
「俺は君の絵が完成したところを見たい。そのためだった何だってしよう。言っておくが、俺は君の絵を買うことを諦めたつもりはないんだ」
衝撃だった。この男はアポロの絵を完成させるために、命や国を賭けるような行動をしようと言うのである。
「ほ、本当にそれだけのためにやろうって言うのか?」
確かめるように尋ねると、トレイは何かを懐かしむように薄く笑い。特別な力を持つという己の両目を指差した。
「俺達は美しい物を見るためだけに生きている。それが俺達にとって最も大切なことだ」
アポロの記憶が確かであれば、その台詞は画廊で初めて出会った時、グランに対して使われたものではなかったか。もしかするとそれは、グランだけではなくトレイにも当てはまる言葉だったのかもしれない。
「一番は君の絵が完成したいところを見たいからだが、強いて言えば理由はもう一つある。今日一日この国を見て回って思ったが、この島は良い。素晴らしい芸術が生み出される環境が整っている。にもかかわらず、心無き者の手でそれが歪められようとしている。俺達にはどうにもそれが許せない」
トレイの目は至って真剣だ。見ていると不思議と飲み込まれそうになるが、それが嫌な感じはしない。
瞳の奥にアポロやククルとはまた違う、彼なりの美に対する強い執着が見える。その熱は他者がどれだけ言おうとも止められないということをアポロはよく知っていた。
背後に回ったブイレンがその翼でアポロの背を叩く。腹を括れということらしい。
「分かったよ。明日の競売祭で皆が絵に注目している隙に忍び込もう。ただし、見つかりそうになったらすぐ撤退だぞ」
トレイは満足そうに頷いた。
ちょうどその時、遺跡の外から「岩をどかせたぞ!」という声が聞こえてきた。気づけばツルハシの音もいつの間にか聞こえなくなっている。
トレイが静かに立ち上がる。
「さて、グラン閣下に事情を説明しつつ、細かいところを詰めておこう」
まるでこれから壁に落書きでもしに行くかのような軽快な足取りで、トレイは遺跡の階段を下っていく。
アポロはちらりと石版を見やる。
ターレックが何を隠し、何を企てているのか、その全貌はまだ見えてこない。
明日の競売祭で多少なりともそれを明らかにしたい。
そうすればこの六年間ククルがどのような状態だったのかも自ずと判明するはずだ。
六年前に交わした盟約は果たして彼女にとってどれほどの意味があったのか。それを知った時、今後のアポロの在り方も決定的に変わるだろう。
期待と恐怖がちょうど半々ずつ、心の中で渦巻いている。
不安が伝わったのか側頭部をくちばしに叩かれた。
「痛いな」
文句を言うと、相棒はぷいっと余所を向く。しっかりしろということらしい。
「ああ、そうだよな。この機会を逃せば、もう永遠にククルに絵を見せられなくなるかもしれないんだ。それなら、やってやるしかない」
掌に拳を打ち付ける。乾いた音が遺跡の中で反響して不安を掻き消した。
覚悟は決まった。
アポロはいきなり現れて何もかも決めていった共犯者に追いつくため、石界大樹の遺跡を後にした。
第二章 終