序章 2
その後すぐ、アポロはホエルに連れられて船乗りと船長に謝罪して回った。
それなりに叱られることを覚悟していたが、皆アポロの行動を笑って許した。彼らはヘルメトスの人間ではなく、王都ノリアを本拠地とする組合の一員であり、依頼を受けて人や物資を運びながら世界を旅しているという。子供の密航者が紛れ込むというのはよくあることらしい。
一通り謝罪が終わった後、アポロはすぐに働くことになった。
厨房での皿洗い、客室の清掃、魔力炉と呼ばれる設備の監視。非力なアポロでもやれる仕事は無数にあり、一つ終わる度に新たな仕事が用意された。
そんな中で絵を描くための隙間時間など生まれるはずもなく、アポロは半日ほど、魔術師の用意した人形と船乗り達と共に飛空挺の中を駆け回った。
しかし、不思議とその忙しさを煩わしいとは思わなかった。まだどこにも辿り着かず、霧の中を進み続けるだけの飛空挺だが、ここは既にアポロにとって未知の世界の一端だった。慣れない環境での労働は、疲労や苦痛を伴う一方で新鮮な刺激を脳に与えていた。
アポロは今、飛空挺のマストの上、梁を船首に向かって歩いた先の見張り台の中にいた。
霧に覆われた視界で見張りも何もないと思ったが、船乗り達の話によると、空を飛ぶ獣や不審船が近くにあれば、その影は見えるらしい。
見張り台に取り付けられた望遠鏡をゆっくりと右舷から左舷へと滑らせる。金属の部品が擦れる甲高い音が耳に張り付いた。
「うむ。励んでいるようで何よりだ」
狭い視界の中で真っ白の景色を確認するのに夢中になっていたアポロは、背後から飛んできたその一言にバランスを崩した。危うく見張り台から落下するという手前で何とか手すりにしがみつく。
「おーおー、間抜けな理由で画家生命が絶たれるところだったな」
深呼吸を繰り返し、焦りを押さえ込んでから身体を背後に向ける。真っ赤なドレスの上に風よけの黒い外套を羽織ったククルが梁の上で佇んでいた。
梁には落下防止用の柵が設けられているものの、たなびく銀髪とドレスがそのまま王女を甲板に引き込んでしまうような気がしてアポロは落ち着かなかった。
「姫様。ここは危ない」
「落っこちそうになっていた奴が言うと、なまじ説得力があるな」
ククルが皮肉を言いながら見張り台に侵入してくる。身体が僅かでも触れれば不敬と文句を言われるのではないかと思って身体をできるだけ端に寄せようとしたが、そもそも見張り台には一人用のスペースしか用意されておらず、どうしようもなかった。
すぐ隣に座ったククルから魔霧の甘い匂いとはまた違う、花のような香りが漂ってくる。
「ふぅむ。ここに来れば違った景色を見れるかと思って登ってきたが、やはり霧しか見えんな。ほれ、ちょっとそれを貸してみよ」
ククルはアポロの手に収まっていた望遠鏡を無理矢理引き寄せ、触れただけで割れてしまいそうな頬と青色の瞳をレンズに近づけた。
楽しそうに望遠鏡をくるくると回す姫の姿は様になっていた。いずれ王位を継いだ時も、国という船をこんな風に引っ張っていくのだろう。
「何を呆けている?」
望遠鏡をのぞき込んだままククルが声をかけてくる。まさか自分の様子を把握されているとは思わず、アポロは言葉に詰まった。
「何だ? 慌てているだけでは時間が勿体ない。変にかしこまる必要もないから自由に言葉を発してみせよ。分かっていると思うが、島に戻ったら余と言葉を交わす機会など早々やってこないぞ。貴重な経験を得られるこの機会を無為にするでない」
「経験……」
意味は知っていたはずなのに、島とここでは言葉に含まれる重みがまるで違う気がした。
「そうだ。例えば風車を描けと言われた時に、風車を見た経験がある者とそうでない者では描く速度に差が出るだろう。知らない物事を思考力と想像力を駆使して描くのには時間が掛かるからな」
それは何もこの会話だけではなく、ついて行くのに必死だった船での労働にも当てはまるような気がした。ククルの言葉によって、形を成していなかった感覚が宝物になっていく。絵を描く時間がなくとも不満に思わなかった理由を理解した。
「画家に限った話ではない。どんな職であれ、一人前になるまでの過程の長さは、それまでの人生で得た経験の量によって決まる。余はそう信じている」
「姫様も、経験を得るためにこの船に乗ったのか?」
「そうさ。外の世界がどのようにして回っているのか、国を率いる者として見ておかなければならない」
「今のヘルメトスのままじゃ、駄目ってことなのか?」
望遠鏡を操る王女の手が止まる。一瞬、立て続けに質問しすぎたかと焦ったが、ククルはそのことを不快に思っているわけではなさそうだった。レンズから一度顔を離し、両目を閉じて何か思案している。アポロも同じようにして自分の故郷を思い浮かべてみることにした。
とんがり帽子のような家がずらりと揃った街並み。
煉瓦や絵の具を作るための資源を掘り起こす採掘場。
状態の良い石だけを集めて建てられた、巨大な塔を抱えた王宮。
人々が生活必需品や作品制作のための道具を買ったり、交換したりするための商店街。
年に一度開かれる祭りで客達に自分の作品を売るため、いつか宮廷画家として王宮に召し抱えられるため、街は常にハンマーの音が響き、絵の具の匂いに満ちている。
そこに不満はあるだろうか。足りない物はあるだろうか。首を傾げつつも、自分の行動が答えを示しているようにも思う。あの島で全て満たされるのであれば、船で外の世界を見に行きたいとは思わなかっただろう。
「お前は、難しいことを聞くな」
ふと耳に触れる優しげな声。目を開いて横を見ると、姫は穏やかな眼差しをアポロに向けていた。その雰囲気に慣れず、ため息が零れそうになるのを逆に大きく息を吸い込んで誤魔化す。
「今のヘルメトスは、芸術家達が活動しやすいように街ができている。これは、余の父と祖父が外の世界に頼らない仕組みを築き上げたからだそうだ」
ククルは眉根を寄せながらゆっくりと語る。おそらく王宮で学んだ知識を引き出しながら話しているのだろう。
「その行いが無駄だったとは思わないが、その仕組みで作り上げた作品を、王宮にいる者だけが愛でている今の状況を余は好まない。絵とはもっと広く人々の心を動かすためにあるものではないか」
アポロとククルは外の世界を求めてこの船で出会った。しかし、その目的は当然違う。
アポロは外の世界の刺激を活かして絵を描き、それを宮廷画家として王宮に届けようとしている。一方、ククルはそもそも絵画とは王だけに許された芸術ではなく、世界中の人々に届けるべき物と考えていた。
アポロは、ククルが島の外からたくさんの来訪者を呼び、彼らに島の芸術を披露する姿を思い浮かべた。彼女の手の先には自分の絵が飾られている。
そこまで想像したところで側頭部を小突かれた。
「おい。余との会話の最中に呆けるとは良い度胸をしているな。不埒なことを考えていたのではあるまいな?」
「考えてない!」
首を大きく振って弁解するも、姫は追求を辞めようとはしない。
「ほう。例えば、いつか余が外の世界に向けた画廊を開くとして、そこにお前の絵が飾られるだとか、そんなことは考えていなかったと?」
ずばりと言い当てられて、アポロは心を直接掴まれたような気分になった。
「それは不埒……なのか」
「当然だ。余も勉強が足りぬ身だが、お前はそれ以上だ。もっと自分が未熟者だということを自覚しろ。何となくこのままやっていれば宮廷画家くらいにはなれるだろうとか、そんな心構えなら余は一生お前のことを認めないぞ」
「オレは一生宮廷画家にはなれないということか?」
労働の疲れも影響してか、弱々しい声が出た。
「む、今のは流石に言い方が悪かったか。違う。そういうことではない。今まで通りのやり方を踏襲しようとして先人の言葉を鵜呑みにしたり、外に出たはいいものの何も考えず無為に過ごしたり、そういう風に生きているといつの間にか限られた時間が尽きて、夢も叶わなくなってしまうということが言いたいんだ」
王宮での教えの賜なのか、王女の言葉は少々難しく、アポロは聞き取るだけで精一杯だった。アポロが理解できていないことに気づいたのか、ククルは困ったように頭を捻る。そして、何か思いついたようにパッと顔を上げた。
「そうだ。お前にとってこの船の労働はどうだったんだ?」
突然の質問に面食らったが、ククルの話を聞いた今なら自分の気持ちを言葉にできる気がした。
「えっと、自分のためになったと思う。絵を描く時間はほとんどなかったのに、それを不満に思わなかった」
「どうためになった?」
ククルはどこか嬉しそうに頬を緩ませている。
「外の世界の魔術師が作ったゴーレムはヘルメトスのゴーレムとは違った動きをするんだとか、飛空挺の甲板は思っていたより風が来ないとか、料理ってこんなに力を使うんだとか。知っている人からすれば何でもないようなことなのかもしれないけど、オレにとっては何もかもが新鮮だった。さっき姫様と会話している中で、この体験が今後役に立つ時が来るのかもしれないと思った。オレは今日、風車を見ていないけれどゴーレムを見た。その分だけゴーレムを描くのが上手くなっているはずなんだ」
途中で言葉を句切ると何を言おうとしていたのか忘れてしまいそうだったので、アポロは思っていたことを一気に吐き出した。自分の思考をこれほど赤裸々に語るというのも初めてのことだった。それ故、聞いた相手がどんな反応を示すのかまるで読めず、怖さで目線が下に寄った。
そんなアポロの両頬に温かい手が添えられて、ゆっくりと首が持ち上げられる。自然、アポロは床に膝を突き、真下から王女の顔を見上げる形となった。
「お前は不思議な奴だな。呆けているかと思えば、抑えるべきところはきちんと抑えているし、心には熱がある。お前をそうさせる源は一体何だろうな」
その答えとして思い当たる気持ちは一つしかなかった。
「絵を描くことが好きなんだ。だから、未熟者だとしても宮廷画家を目指すことは辞めたくない」
たとえ、ククルが今の宮廷画家を好きではなかったとしても、アポロは今、目の前にいる少女のために力一杯絵を描きたいと願っていた。それが広い世界に住む人々にも伝わるというのであれば、尚更努力する価値のある夢だと思える。
「確かに今のお前は技術も知識も不足しているのだろう。あのスケッチからは特別な才能を感じることもなかった。しかし、才能を持つ者でもどこかに辿り着こうという意思がなければどこにも行けない。お前は前に進もうという熱を持っている。進み続ける船は、妙な場所に停泊し続けたりしない限り、いつか必ず目的地に辿り着く」
霧の中の飛空挺は王都を目指して走り続けている。彼女の瞳に映る自分も、どうやらそういう状態らしい。
「走り続けて走り続けて、辿り着いた先にある景色をいつか余に見せるが良い。その時にお前の名前も、しかと余の記憶に刻み込んでやる」
衝動で満たされていたはずの心に注がれるマグマのような言葉の奔流。きっとこの出会いはアポロにとって決定的なものだった。この瞬間を越える体験など早々得られるものではない。
受け取った熱の使い道は分かっていた。ククルの想像を遙かに超えた絵を描く。そしてそれを彼女が世界に届ける。先程脳裏に思い浮かべた空想を現実のものとする。
アポロとククルは、それ以上言葉を必要とせず、ただ眼差しのみで盟約を交わした。
短くも濃い会話に満足したのか、ククルはアポロの頬から手を離す。
それと同時か、少し遅れるくらいの間隔で、船の後方から汽笛が聞こえてきた。
一回、二回。冬の冷え切った水のような音が響く。
船乗り達は持ち歩く笛の音色と回数で状況を伝え合うという。半日働く間にアポロもそのいくつかを教わっていたが、音を聞いてすぐに意味が分かるほど身についてはいなかった。しかし、それでも嫌な予感が背筋を駆ける。
「今のは船乗りの合図だな。意味は分かるか?」
「多分分かる」
布鞄から、船で働く上で必要な情報が記された一冊の本を取り出す。アポロの好きにして良いと渡されたものだったので、重要なページは端を折ってある。そのおかげで汽笛の合図のリストもすぐに発見することができた。
「高めの音二回の意味は……敵影あり」