第二章 4
王宮の城門を潜る。町は少し落ち着きはじめていた。
聞こえてくる人の声や花火の音が明らかに減っている。魔霧の向こうから届く日の光に橙色が混ざりはじめたせいだろうか。暖かな色は終わりを連想させることがあるとアトリエで学んだ。
だが、宮廷画家でも画廊の見学者でもないアポロが祭りの終わりに自分の感覚を合わせる必要はない。時は有限。今日できることがあるなら今日やるべきだ。
気合いを入れるため、アポロは己の頬を叩く。その瞬間、城門の横から覚えのある声が聞こえてきた。
「思ったより、落ち込んでいないんだな」
両頬に掌を当てたまま振り返ると、そこにトレイ・ガーベルが立っていた。黒い軍服を着ているせいで、白い城壁に空いた穴のようにも見える。
謁見の間を出た後、すぐに荷物をまとめはじめたアポロはトレイ及びグランとは別行動になっていた。まさかこんなにも早く再会するとは思っていなかったために面食らう。
しかも、アポロはちょうど彼にもう一度会うことを考えていた。その理由は謁見の間に向かって歩いていた時よりも一つ増えている。
彼は催眠魔法を仕掛けられた画廊を進んだにもかかわらず、アポロの絵をきちんと細かく覚えていて、しかもその直後に星空を描いたスケッチに対して興味を示した。ヘルメトスの者達とも、外からやってきた多くの見学者達とも違うその視点で女王ククルを見た時、一体何を感じたのか。それがアポロの疑問を解決するヒントになる可能性がある。
「トレイさん。誰か待っていたんですか?」
とはいえ、話しかけてきたのは向こうが先なのに、いきなりこちらの要望をぶつけるわけにはいかなかった。
問いに対し、トレイは人差し指をそっとアポロに向ける。
「アポロ。俺は君を待っていた。一つ、仕事を頼もうかと思っている」
「仕事?」
解雇されたばかりの者に仕事を頼みたいとは酔狂な話もあったものである。
「ああ、ヘルメトス島の地上の様子は、画廊に入る前に大体見学したんだが、まだ地下の採掘場を見ていない。俺と君が踏み込んだあの地下洞穴とはまた違うのだろう?」
「ええ、まぁ」
トレイと入った地下洞穴はシャーリ達が住み処としていたスラム街であり採掘場とは違う。一応レールやトロッコを見かけたが、それらも暫く使われた痕跡がなかった。あの場所を見ただけでは、ヘルメトスの地下を知ったことにはならない。
「是非とも君に案内を頼みたい」
「それは、いいですけど。トレイさん一人ですか?」
尋ねると、トレイは困ったように頭を掻いた。
「グラン閣下は宿で休んでいる。日中歩き回って疲れてしまったそうだ。あの方も現役とはいえ……お歳だからな」
最後の方は内緒話をするような小声だった。騎士が主に対して「お歳だ」などと言っているところを誰かに聞かれてしまうのは体面が悪いということだろう。
しかし、そもそもトレイがこんなところにいる時点で体面も何もないのではないかと思ってしまう。
この時期は多くの賓客が宿を利用するため、宿周辺は衛士の警備が厳重になるというが、それでも護衛の騎士が主から離れて散策に興じるなど許されていいのだろうか。
アポロが若干呆れていることなど露知らず、マイペースな騎士は話を続ける。
「グラン閣下がいらっしゃれば、宮廷画家の誰かに気軽に案内を頼むことができるのだろうが、騎士一人となるとどうにも気が引けてしまってな。それに、後で何か問題が起きてもまずい」
言いたいことは分かる。先程の謁見の間のやりとりを見ていても思ったことだが、ノリアから来た二人の行動はどうしても政治的に大きな意味を持ってしまう。しかし、それはあくまでグランの政治パワーによる影響だ。トレイは確かに優秀な騎士だが、個人でヘルメトスに多くを頼めるほどの立場ではなく、そうかといって好き勝手できるほど身軽でもない。彼の身に何かあれば当然大きな問題になる。
「そんな時、君が宮廷画家を首になってくれた。今俺が君に案内を頼んでも誰にも迷惑がかからない」
突然展開された乱暴な理論に開いた口が塞がらない。この男にはどうやら遠慮という概念が存在しないらしい。
その時、アポロが肩から提げていた鞄から黒い物体が飛び上がり、トレイに襲いかかった。
「失礼な奴ダ。失礼な奴ダ」
「ちょ、ブイレン。やめろっておい」
ブイレンは低空を旋回し、執拗にトレイを狙っている。熟練の騎士はその攻撃を、涼しい顔で回避していた。何かの曲芸をやっているようにも見える光景だ。
数分後、ようやくブイレンを捕まえた時には、城壁を守っていた衛士達が数人集まってきていた。曲芸が終わったと勘違いした衛士達がトレイに向かって大きな拍手を送る。
「や、目立ってしまったな、これは」
「すいません。本当」
「今のは俺が悪い。彼……いや、何となくだが、彼女かな。彼女が怒るのも納得だ。確かに俺は失礼を言った」
ブイレンの性別を意識したことがなかったのでトレイの言葉に驚く。そもそもゴーレムの知性に性別があるという話を聞いたことがなかった。
「彼女の名前は?」
「ブイレン。五年前に道で動かなくなっていたところを見つけて、以来、連れています」
一時期は持ち主を探そうともしたが、ブイレン自身がそんなことはしなくていいと止めたのだ。
トレイがしっかりとこちらに向かって頭を下げる。女王に対する姿勢よりも気持ちが籠もっているような気がして、アポロはたじろいだ。周囲の衛士達がざわめく。もはや王宮とは何の関係もないアポロだが、賓客の一人に頭を下げさせていたと女王やターレックに知られたら、追加で罰を与えられかねない。
「頭を上げてください、トレイさん。オレ、気にしてませんから。むしろ、首になったからってそれを引き摺る必要はないんだなって思えたので感謝したいくらいです」
感謝したいというのは大袈裟かもしれないが、腫れ物扱いされるよりは余程気が楽だったのは確かだ。
トレイが頭を上げる。その表情は心底ほっとしているように見えた。
「そう言ってもらえると助かるな。これから案内を頼もうとしていたのに、いきなり怒らせてしまったかと肝を冷やした」
「大丈夫、です。案内の件も引き受けますよ。ちょうど、オレもトレイさんと少し話をしたいと思っていたところなんです」
「ほう、それは楽しみだな。……しかし、話をするにしてもここはまずいか」
横を見ると、衛士達が城壁前の草むらに座り込んで次の曲芸を待っている。確かに、ここで女王を見てどう思ったか、などという話をするのは非常に良くない。
「地下採掘場には休憩スペースもあるので、とりあえず向かいましょう」
そう言いながら、アポロは王宮前の街道を先導する。抱きかかえたブレインはまだ少し不満なのか、トレイと顔を合わせようとしない。
「ふ、嫌われてしまったな。……ところで、アポロ」
「何でしょう?」
「失礼を言ってしまったついでだ。敬語はいらない。俺はただの騎士だ。楽に接してくれ」
言葉通りの軽さで差し出される右手。アポロは衛士達が解散して離れて行くのを確認してからその手を取り、トレイに向かって笑いかける。
「じゃあ、お言葉に甘えて。よろしく、トレイ。正直敬語が苦手で早く外したくてうずうずしてたんだ」
あまりの切り替えの速さに驚いたのか、トレイの色素の薄い瞳が見開かれる。瞬きを繰り返すこと二度三度。やがて、彼は気持ちの良い笑い声を上げた。
「やはり、君は良い。この島で一番生き生きとしているな」
独特な褒められ方をしたとアポロは思ったが、腕の中のブイレンは、自分はずっと前からそんなこと知っていたと主張するかのように、カチカチとくちばしを鳴らしていた。