第二章 3
通い慣れた部屋の扉。そのドアノブに手をかけた。
心境が違えば少しは重く感じるかと思っていたが、思いの他あっさりと扉は開く。絵の具と木の匂いが鼻一杯に広がった。自宅のアトリエ程ではないが、ここの匂いだけは好きだった。
正面にぶら下がる黒板。壁際に重ねられたイーゼル。丁寧に包装されたキャンバスと乾燥させている数点の作品。たくさんの椅子が銀色のバケツと一緒に置かれている。
ここは宮廷画家に与えられた共同で使うアトリエの一つだ。今は皆、祭りに出払っていて誰もいない
王宮に仕えるようになってから四年間、ここで学び、ここで絵を描き続けた。
宮廷画家の中には王宮で部屋を借りている者もいるが、アポロは少しでも一人の時間がある方が良いと考えて自宅から通っていた。故に、王宮の中で一番長く過ごした部屋は間違いなくここだろう。
ここで学んでいると徐々に自分が作り替えられていくような感覚を抱く時があった。黒板に描かれた技法。それをただ暗記するためにページを費やされる研究手帳。そして、落ちこぼれを見下す同僚達の視線。
ずっと呼吸を止めて耐えてきた。それくらい苦しかったということだ。しかし、その苦労も間違いなくアポロの辿ってきた軌跡の一部であり、ここを離れなければならないとなると、途端に懐かしく思えてくる。
自分が使っていた椅子に近づく。椅子は鍵の掛けられる引き出し付きだ。アポロはポケットから銅製の鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。この鍵も後で返却しなければならないだろう。
引き出しの中にはいくつかの書籍が入っている。持ち帰る荷物は、これといくらかの画材だけだ。これらをまとめて、眠っているブイレンと共に予備の鞄に入れれば荷造りは終わる。
何となく、書籍を一つ一つ手に取って眺めてみた。
『転写魔法構築論』
『複写練習法』
『正しい魔法画材の使い方』
初心者向けから高等技法論まで、小さな引き出しに有用な書籍が詰め込まれている。これら全てを揃えるのは、たとえ王都一番の蔵書量を誇るというダミアン図書館でさえ難しいだろう。中にはヘルメトスでしか流通していない本もあるのだ。先程、謁見の間でターレックが口を滑らせかけた技法について記された本もある。
これを用意してくれたのはアポロの祖父だった。生前、「これは向こう数十年、王宮でも通用する技法書だ」と自慢していたのをよく覚えている。
幼い頃から祖父にこれらの本を見せてもらっていたおかげで、アポロは知識で他の画家に後れを取ることはなかった。ソラリスにも芸術に対する理解が深いと評価されている。
とりわけ、絵や景色を下書きや作画のために複製する複写魔法に関しては、アポロはソラリスにも負けない腕があった。
それもそのはず、アポロは宮廷画家になる前からその技術を使っていた。護身用の精霊契約魔法がそれである。あれは契約が組み込まれた絵画を複製して発動させる、言わば複写魔法の応用だ。
もちろん複写魔法は契約以外の魔法に使用することもできる。例えば、魔法のレシピが組み込まれた絵画を複製し、そのレシピに描かれた魔法を発動させる。実際、アポロはこのアトリエでその使い方に挑戦し、成功させた実績があった。
知識も技術も他の画家達に負けていたとは思わない。では、何故アポロの序列はずっと低かったのか。その理由は自分でもよく分かっていた。
「アポロ!」
勢いよくアトリエの入り口が開かれる。ソラリスだ。余程急いで来たのだろう。編み込まれた髪がいくらか解けていて、一位の証明である赤いカーディガンは汗で少し色が濃くなっている。
ソラリスはそのままアトリエに踏み込み、アポロの両肩を掴む。乗せられた掌が熱い。彼女がアポロに対して親身に、そして必死になってくれていることが伝わってくる。
「いい? 良く聞いて。まだ間に合うわ。今からここでもう一枚作品を描くの。ただし、今回は貴方が今まで忌避していたやり方を全て取り入れなさい。それできっとククル様も考えを変えてくれるはず」
「いいんです。ソラリスさん。もう決まったことなんです」
「いいことないでしょう!? そんな簡単に諦めてしまうの? 宮廷画家になるのが貴方の子供の頃からの夢だったじゃない!」
叫んだ後に俯くソラリス。その頬に一滴の涙が伝う。
ソラリスは宮廷画家になる前、アポロの祖父の弟子だった。その縁で、彼女はアポロが幼い頃からアポロの面倒を見続けてくれていた。
思えば、飛空挺の事件から無事に生き延びて島に帰った時も。
宮廷画家に任命された時も。
彼女はそれをまるで自分のことのように喜んでくれた。アポロにとってソラリスが姉のような存在だったように、彼女はアポロのことを弟のように思っていたのかもしれない。
王宮で他の画家に見下されようとも、彼女だけは常にアポロと対等に接してくれていた。もしかすると、それがまた他の画家達には気に食わなかったのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
しかし、この四年間、芸術に対する考え方が彼女と一致したことはない。
ソラリスは昔からとにかく物覚えが良く、祖父に教わった技法を習得するのも早かった。それ故、王家の人間がどのような絵を好むのか把握するのも早く、歴代の宮廷画家と比べても異例のスピードで第一位に上り詰めた。
王がどのようなテーマの絵を好むのか。
どこにどんな形の物体を配置すると王は喜ぶのか。また、絶対に受け入れられない構図はどんな構図か。
魔法はどこにどれくらい使えば良いか。
絵の具の濃さはどの程度が適しているか。
歴代の画家達が残した作品を研究し、魔法と組み合わされた画材の使い方をターレックからよく学んだ彼女は、王宮のやり方を完全に熟知した専門家と言えるだろう。
確かに、今からそのやり方に従えば、もしかすると宮廷画家の解雇を女王が取り消してくれるかもしれない。
しかし、それではアポロ自身が自分の作品に納得できない。
女王がそれで喜ぶのならまだ良い。だが、時折アトリエに届けられる女王の感想は、まるで数式の答え合わせをしているかのような内容ばかりだった。
芸術に対する感想や考え方は人それぞれ違うということは理解している。しかし、だからこそ、描いた絵の是非が問われる環境は不自由だと思ってしまう。
ククルは六年前に言った。芸術とはもっと自由であるべきだ、と。
アポロは今でもその言葉を信じている。だから、王宮のやり方に抗い続けた。序列が上がらなかったのはそのせいだ。
たとえ、ククル本人に首を切られようとも、考え方を変えるつもりはない。
「ごめん。ソラリス。我が儘なオレのためにありがとう。でも、それじゃあ意味がないんだ」
第一位の宮廷画家に対してではなく、長年世話になった姉に対して言葉を紡ぐ。
アポロを止めることはできないと悟ったのか、肩に乗せられたソラリスの手から少しずつ力が抜けていき、やがて静かに外れた。
「これからどうするのよ」
そう問いかけるソラリスの声はやや疲れを帯びている。芸術祭の準備と運営による疲労のせいだろう。もしかすると、度重なったトラブルによって精神も摩耗しているのかもしれない。そうだとすると、たとえば昨夜の騒動はアポロのせいでしかないので申し訳ない気持ちになる。
まだ何も返せていない上に、最後まで迷惑をかけてしまった。
せめて、これから先自分がどうするつもりなのか、嘘偽りなく伝えておくべきだと思い、アポロは覚悟を口にする。
「やることは変わらない。オレはオレが絵にしたいと思った物を描き続ける」
はっきりと聞こえたわけではなかったが、ソラリスが小さく「そう」と言った気がした。
窓から聞こえてくる花火の音が会話を区切る。
いつまでもここに残っているわけにはいかなかった。アポロはもう王宮とは無関係だ。
まとめた荷物を肩にかけ、アトリエの出口に向かう。
すれ違う間際、ソラリスは言った。
「私はこのままでいいと思う?」
それは初めて聞く彼女の迷いの言葉だった。いつだってソラリスは自分で学んだことを信じて突き進んでいるように見えていた。しかし、それはアポロの前では弱みを隠していただけだったのか。
「オレには分からない。オレ達はきっと永遠に自問自答し続けなくちゃいけないんだと思う。答えは自分で描いた絵の中にしかないんだ」
ここでアポロがかつてククルから受け取った言葉を伝えたり、自分の考えを話したりするのは簡単だ。
しかし、それがソラリスにとっても正しいと押しつけてしまうのは、結局ソラリスという一人の芸術家を傷つける結果になってしまうだろう。
「そっか。私達は孤独なのね」
寂しそうな顔でソラリスは天井を仰ぐ。
ふいに、一つだけ伝えられることがあると思い直した。
「孤独かもしれないけど、オレ達は進もうとする限り、いつか必ずどこかに辿り着く。そう教えてくれた人がいた。もしかしたら、辿り着いた先では一人じゃないかもしれない」
たとえば、とある騎士がアポロの描いた絵を買うと言ってくれたように、孤独の旅路を祝福してくれる者が後から現れることがある。
「それは……いいことを聞いたわ。ありがとう。アポロ、なるべく元気でいなさい」
振り返ったソラリスはもう泣いていなかった。背筋もしっかり伸びている。いつも通りの、皆から慕われている優秀な画家の姿だ。
大事な挨拶を終えたアポロは一人アトリエを出る。ソラリスと会話したことで、自分が何をしたいのか、より強くイメージできるようになった。
今のククルはおかしい。明らかに以前と様子が違う。
一体何が原因で変化が生じたのか。この先アポロが画家を続けるならば、まずそれを確かめなければならない。アポロの夢はククルの夢と繋がっていたはずなのだ。
アポロは王宮の窓から僅かに見える塔を睨む。その先端は魔霧の向こうだ。
この状況を打開するための鍵は、ここから見えない景色の中にあるのかもしれないとアポロは考えていた。