第二章 2
「私の名前はターレック。この王宮に雇われた錬金術師でございます」
頭を垂れた状態で、ターレックの視線が素早く動く。グラン、トレイ、そしてアポロ。ソラリス以外の三人の様子を窺っている。
だが、それも一瞬のことで彼はすぐに顔を上げて客人に笑顔を見せた。
「暫しお待ちください。もう間もなく女王がいらっしゃいます」
「おお、そうか。では待たせて貰おう」
ターレックの雰囲気は正直かなり異質だが、グランはさして気にしていない様子だった。王都の政務の中で数多の実力者と渡り合ってきた彼からすると、多少見た目が派手というくらい何でもないのかもしれない。一方、トレイもまた怯んではいなかったが、こちらは逆に突如現れた登場人物に興味津々となっていた。その強い注目に気づいたターレックが金の瞳をトレイに向ける。
「いかがされました?」
「ああ、失礼しました。ヘルメトスはとにかく芸術に特化した島だと聞いていたもので、まさか魔法と薬を専門とする錬金術師に会えるとは思っていませんでした。それで、つい気になってしまったんです」
ややいつもより饒舌に心境を語る騎士。彼は好奇心を刺激されると口数が増える傾向にあるらしい。
「そういう島だからこそ、私のような者も必要なのです」
「というと?」
トレイは全く遠慮せずに問う。ある種、彼の態度は誰に対しても平等だ。ひょっとすると時によっては主であるグランに対しても、その強い好奇心が発揮されるのかもしれない。
錬金術師や魔術師は無闇に素性を探られるのを嫌うと聞いたことがあったが、ターレックは僅かにその笑顔を傾けただけで、質問されたこと対して特に何も感じていないようだった。
「例えば宮廷画家達の使う絵の具の一部には魔法や薬が使われております。その配合の組み合わせは無限大。その中から少しでも効率の良い組み合わせを見つけ出さなければならない」
「なるほど、それは確かに錬金術の分野ですね」
「ええ。他にも作品制作の際によく使われる転写魔法、複写魔法なんかも……」
「ターレック様」
ソラリスが一歩足を踏み出し、ターレックの説明を遮る。
「おっと、危ない。これ以上は島の秘密でした。申し訳ない。これ以上、私の仕事についてはお話しできません」
「いえ、十分貴重な話を聞かせていただきました。ありがとうございます。ターレック殿はこの国にとって大切な存在なのですね。今の説明、大変分かりやすかったです。それだけで貴方が優秀であることが伝わってきます」
トレイの口から流れるように出てきた称賛の言葉。しかし、アポロにはそれを心から言っているようには聞こえなかった。自惚れているだけかもしれないが、あの洞穴の時ほどの情熱を感じない。
「いやいや、貴方ほどではありませんよ」
ターレックは客人と会話するのが楽しいのか、上機嫌な足取りでカーペットを横断する。
「聞けば、ここまでの道中、お二人の船は空賊に襲われたとか。それもただの空賊じゃない。かつて、ナクタネリアの賢者姫から大切な物を奪ったという伝説の相手だ。そんな怪物に襲われておきながら、ここまで無事に船を送り届けた。それは他でもない貴方の功績だ。そうでしょう? ガーベル殿」
アポロは画廊でソラリスから聞いた話を思い出した。
ソラリスは伝説の空賊がこの近辺に出没したという噂をグランから聞いたと言っていた。彼らは空賊と直接対峙したからこそ、それを把握していたというわけだ。
「ターレック殿。家族名は私には荷が勝ちすぎるが故、できれば個人名で呼んではいただけませんか」
「何を仰る。グラン様を守った功績は、十分その家族名に見合ったものでしょう」
ターレックの言葉にそばにいたグランが大きく頷いた。
「うむ。トレイがいなければ、今頃儂らは空賊の船に追われ続け、気流の籠に囚われていたやもしれん」
一瞬、トレイがグランに細めた目を向ける。何か意味を含んだ視線にも感じたが、それが分かる前にトレイは表情を元に戻した。
ヘルメトス島の周囲は気流が激しく、一度入ると船が動けなくなってしまう場所もあるという。そういった空域を、飛空挺を繰る船乗り達は籠と呼ぶそうだ。
空賊と乱れた気流。その両方の脅威に晒されながらしっかりと主を送り届けたのだから、確かにトレイの功績は大きい。
「まぁ、何か一つ違えていれば、空賊の方が島に辿り着いていたかもしれません。きっと彼らもこの島の絵を盗もうとしていたのでしょう。その道中、たまたま船を見つけたから襲った。この時期にヘルメトスに向かう船には有力貴族が乗っていたり、絵を購入するための資金を積んでいたりすることが多いですから」
トレイの弁が終わると、ターレックがおもむろに両腕を広げた。連動して彼の羽織っているローブがカーテンのように二本の柱の間にかかる。
「ああ、仮に空賊が辿り着いたとしても何もできることはありませんよ。この国は堅固に守られている。島は気流で、王宮は城壁で、空は蛇で、財産と歴史は王家の魔法で。隙一つありはしない」
ターレックの言っていることは正しい。ヘルメトスの島はそう簡単に攻め落とすことができないと言われている。だからこそ、価値の高い芸術をいくら生み出しても、今まで大きな争いには巻き込まれなかった。
トレイは、薄く微笑んだ。
「それは何とも心強い」
二人は目に見えない場所で言葉の弾丸を撃ち合っているかのようだった。現状、トレイとターレックは敵対する立場にないにもかかわらずだ。その剣呑な空気に圧されて、アポロは動くことも言葉を挟むこともできずにいた。もっとも、たとえそれらの自由が利いたとしても、今の自分の立場でこの会話に混ざることは許されない。宮廷画家第一位のソラリスでさえ、基本的には黙っている。先程はターレックが口を滑らせるのを止めるという明確な役割があったから動いただけだ。
どうしてこのような空気になったのか、理由さえも分からないまま、凍った時間が過ぎていく。
そんな折、王宮を叩く一つの靴音が聞こえてきた。
ターレックの広げたローブの奥で深い緑色の装束を着た少女が玉座に向かう。
どれだけ空気が凍てついていようとも、どんな立場の者がいようとも、この場では彼女が絶対だ。
故に、その足音一つだけで場が作り替えられる。
アポロとソラリスは即座に跪いた。ターレックも緩やかに姿勢を下げ、カーペットの上から退く。ヘルメトスの者達の動きを見て、今現れた少女の正体を悟ったのだろう、グランとトレイも遅れて跪いた。
少女は静かに玉座へ腰かけた。アポロは不敬と指摘されない程度に頭の角度を上手く変えてその姿を見る。銀色の髪と青色の瞳は六年前とほとんど同じだった。身体や顔つきも劇的な変化は生じていない。流れた年月の分、少し大人になったという程度だろう。しかし、その身に纏う雰囲気だけはまるで違う。あまりにも冷たいのだ。
四年前、ここで宮廷画家に任命された時も心底驚いた。時間が経てば人は成長し、精神も落ち着く。しかし、彼女の変化はその次元を優に越えていた。姿は似ていても六年前に出会った人物と別人なのではないかと思ってしまう程だ。
「余が第十一代ヘルメトス国王、女王ククルだ」
魔導具の中には人の声や楽器の音を録り、それを後から再生する機能を持つ物があるという。アポロも何度かそういった道具の音を聞いた事があったが、今のククルの声はそれに近い。間違いなく本人の口から発せられているにもかかわらず、そこに生命の息吹を感じないのである。
「王都の臣とその騎士よ。よくぞ参った。楽にせよ。祭りは楽しんでいるか?」
グランが姿勢を低くしたまま、頭を上げる。
「それはもう、存分に。画廊を拝見させていただきましたが、どの絵画も美しく、素晴らしい出来映えでした。誠に感服いたしましたぞ」
「其方を楽しませることができたのであれば、画家達も浮かばれよう。……して、ターレックよ」
「はっ!」
呼びつけられたターレックが立ち上がって玉座に近づき、また跪く。女王に呼ばれた者はそうする決まりだ。
「我が客人の荷を盗んだ不届き者がいたと聞くが、それは誠か?」
「残念ながら、事実でございます。スラムの者が狼藉を働いたようです」
「その者達は?」
「王宮の地下牢に捕らえております」
嫌な流れだった。この先の決断を予想していながら、アポロは彼女の口からそれを聞きたくなかった。
「では、即刻その者達をこ……」
「ちょっとよろしいかな」
耳を塞ぎたくなっていたところでグランが声を上げた。女王の言葉を遮る不敬を咎めるように、ターレックが振り返って片眉を吊り上げる。だが、グランは構わずに続けた。
「荷物を盗まれたのは我らの不注意のせいでもある。今回の件でヘルメトスの民が重い罰を受けたとなると、ノリアでの我らの立場が危うくなってしまう。何とか軽い処罰……通常の盗難事件と同じように扱ってはいただけませんかな」
「しかし、それではヘルメトスが責任を取れなくなってしまいます」
ターレックの指摘に対し、その言葉を待っていたと言わんばかりに微笑む。ただし、微笑んだのは何故か会話をしているグランではなくトレイの方だった。
グランは顎に手を当て、首を傾げる。
「はて、ヘルメトスの王宮に責任を取らなければならないような落ち度が何かありましたかな? ……宮廷画家のアポロ君は荷物を必死に取り返そうと動いてくれた。衛士達も協力してくれた。我らとしてはそれで十分でございますな」
突然自分の名前が会話に登場して、アポロは思わずびくりと肩を刎ねさせる。ターレックがこちらを一瞬だけ睨んだ。動くならきちんと取り返すところまでやれと言われたような気がする。
「いや、我々は景観を優先して、画廊に衛士を配置しなかった。宮廷画家二十九位の者がグラン様の荷物を取り返すために動いたようですが、それは元々あの場を任されたのが彼だったからです。失敗を取り戻すために動いた、というだけでは責任を取ったことにはならない」
名前ではなく序列で呼ぶところも含めて散々な扱いだったが、それでも言っている内容は至極尤もだ。アポロに反論の余地はない。
ほほう、というわざとらしい老人の声が謁見の間に広がった。ターレックは、グランが次に何を言い出すつもりなのか明らかに警戒している。ククルの態度に変化はない。
「なるほど、それでは恐れながら、こちらから一つ提案をさせて頂きたい」
「……許す。言え」
ククルの許可に対しに、グランは深々とお辞儀をする。
「ありがとうございます。実は我々、まだ購入希望の絵画を決めておりません。せっかくここまで来たので、何か一つは明日の競売祭にて競り落としたいのですが、どうにも考える時間が足りないようだ。そこで、本来今日中に競りに参加する作品を決めなければならないところを明日の競売祭の直前までに引き延ばして頂きたい。それで責任を取ってもらったという風にするのはいかがか」
ヘルメトスで年に一度開かれる芸術祭は二日かけて行われる。
まず、初日の品評祭で客は競り落とす作品を三つまで決め、それを記した購入希望届を王宮に提出する。そして、二日目の競売祭で、届けを出した作品の競りに実際に参加する。基本的に届けを出した作品以外の競りに参加することはできず、競売祭の途中で記入した内容を変更することも不可能だ。
客達は皆、購入希望届でどの作品を記入するか、毎年頭を悩ませる。
できれば競争率の低い競りに参加したい。かといって、いくら競争率が低くても自分が欲しいと思った絵でなければ買う意味がない。そのバランスを見極めるのはかなり難しい。グランがまだ購入希望届を記入できていないというのも不思議な話ではなかった。
ターレックがこめかみに指を当てた。何となくの想像だが、彼はこの機に治安の悪化の要因となるスラムの住人を一斉弾圧したいと考えていたのかもしれない。しかし、その目論見はグランの話術によって阻止されようとしている。一度責任を認めてしまった以上、ヘルメトスは何らかの対応をしなければならないが、先にグランは罪人への重い罰はむしろ自分の立場を危うくすると発言している。ここから議論を彼の希望する通りの方向に戻すのは難しいだろう。
「分かった。そうするとしよう」
ククルが厳かに結論を述べた。この瞬間、グランはヘルメトスの王宮に対して実質二つの希望を通したことになる。見事な手腕だが、アポロはこれを企てたのは彼ではないと思っていた。その証拠に、グランは安心したようにほっと息をついていて、喜んだ顔をしているのはトレイの方だ。
おそらく、回廊での耳打ちでトレイがグランに策を伝えたのである。
腕が立つだけではなく頭も回る。トレイという男は底が知れない。
「では、引き続き祭りを楽しむが良い」
ククルが言葉で議論に幕を下ろす。それを合図にグランとトレイは一度深く礼をした後に、踵を返して王宮の出口へと向かった。
ソラリスが早足へ出口に向かう。扉は自動で開くものの、客人を先に出口に立たせるのは格好が良くないからだろう。そして、来た時と同じようにアポロが最後尾につく。
本来であれば目の前で客人の荷物を奪われ、単独行動に走った挙げ句、荷物も取り返せなかったアポロには何らかの処罰が下るところだが、罪人の処遇と同じように、グランの要請でそれができなくなっているはずだった。
ククルと対話する隙がなかったのは残念だが、それに関してはまた別の機会を窺うしかない。今は自分の立場が守られたことだけを喜んでおくべきだ。
そう、思っていた。
「ああ、そうそう。これは誓って先程の盗難の一件とは関係のない話なんだが……」
ターレックの声がアポロの足を絡め取る。
「本日をもって、宮廷画家第二十五位から三十位までの五人を一斉に解雇することが決まった。すぐに荷物をまとめたまえ」
「なっ……!」
驚きの声を上げたのはアポロではなくソラリスだ。アポロはまだ自分が何を言われたのか理解できていなかった。
遅れてグランが発言する。
「いや、それだと我々の立場がという話を……」
しかし、今度はグランの主張は通らない。
「グラン様。今申し上げた通り、これはその一件とは全く関係のない決定でございます。盗難事件の責任を取らせるという話だけであれば、そこにいる元第二十九位の宮廷画家一人を辞めさせれば良い話です。これは、今の宮廷画家はあまりにも人数が多すぎるという女王の決断なのです」
ようやく事態を飲み込めたアポロは、自然とその視線を女王の方へと向けていた。立ったまま女王を見るという行為が不敬に値するということは理解している。それでもアポロは彼女に助けを求めずにはいられなかった。
しかし、アポロを見る彼女の瞳はガラスか氷でできているかのようだった。
四年前、宮廷画家になった日に言われた言葉を思い出す。
――王の為に筆を使え。
これはその言葉を受け取った時点で何も抵抗しなかった代償か。
彼女と向き合うと決めたにもかかわらず、たった今、アポロとククルの間に分厚い壁ができてしまった。宮廷画家は原則として一度解雇されると二度就任することができない。
女王となった少女はアポロに興味を失ったのか、玉座から立ち上がり、王家の者専用の出口に向かって歩き出す。乾いた足音が徐々に離れていく。アポロは思わず声を上げた。
「あの……!」
不思議とターレックはアポロの発言を咎めなかった。代わりに女王が足を止め、王宮とは関係なくなった一人の画家に、強く厳しい視線をまるで刃を突きつけるように向けた。
「もう、お前は必要ない」
その刃はあっさりと、アポロの宮廷画家としての首を切り落とした。