第二章 1
白く長い回廊に四つの足音が鳴り響く。
ヘルメトス王宮の、謁見の間へと通ずる道だ。
先頭にソラリス。その後ろからグラン、トレイと続いて、最後がアポロ。
四人の内、アポロの格好だけがボロボロだった。宮廷画家の証であるカーディガンは破れ、肩紐を失った鞄を手掴みで持ち歩いている。確認していないが、きっと麦色の髪もいつも以上にボサボサだろう。
アポロよりも序列の高い宮廷画家や、王家の者を世話する使用人達が、回廊を進む四人の様子を見ている。グランとトレイに対しては頭を下げ、すれ違いざまにアポロの陰口を叩く。
「落ちこぼれがまたやらかしたんだって」
本人に聞こえる悪口ほど嫌味なものもない。
ブイレンが噂話に興じる男女の使用人に対して翼を広げて威嚇した。
「ありがとう、ブイレン。でも、それ以上派手な音を立てると、あとでオレ達二人とも叱られる」
気分を落ち着けるため、換気のためか偶然開いていた窓から外の景色を見やる。
石造りの街並みはまだ祭りで賑わっていて、花火がちらほらと打ち上がっていた。
本来であれば空蛇が花火に反応して襲いかかるところだが、事前に王宮に知らせていればその事態は避けられる。全ての建物が石でできているので花火が何かに引火する危険性は低い。
基本材質が石であり、尖った屋根が多いなど、ヘルメトスの建物にはある程度の傾向がある。しかし、全て似たような建物なのかと言えばそれは違う。
屋根の色、壁の模様、門の彫刻。
形と材質以外の部分で職人や画家達の仕事が光る。まるで建物同士が感性の鍔迫り合いをしているが如くだ。
この町が昔はそれなりに好きだった。
何も知らない子供だったからかもしれない。
だが、全てを肯定していたわけではなく、この町にも何か足りないものがあるという直感が働き、王都行きの飛空挺に忍び込んだ。
そこでククルと出会い、彼女の思うヘルメトスの問題点を聞き、そして、夢を語り合った。
島に帰ってからは暗い現実に打ちのめされることになった。宮廷画家になるまでよりも、なってからの方が苦労が多かっただろう。そして今日、地下のスラムに住む者達の事情を知った。
多くを知れば知るほど、町を覆う魔霧が分厚く思えてくる。人々と石の家々に落ちる影がより濃くなったような気がしてくる。祭りの華やかな雰囲気でさえ今は素直に喜べない。
アポロは六年の活動を経て心身共に疲弊していた。
今現在のボロボロの姿がそれを表しているようにも思う。
身体中の擦り傷。洞穴で夢を諦めかけた心。
この船で一体どこにたどり着けるというのか。疑念は少しずつ膨らんでいく。
だが、そんな状態でも諦められない理由ができた。
――俺はこの絵が欲しい。
王都ノリアからやってきた黒い軍服の騎士。彼は五十点以上の作品が展示された画廊を見学した後で、アポロのスケッチを手にそう言ったのだ。
あの瞬間、アポロの中で屑ぶっていた炎が再び勢いを取り戻す感覚があった。
見てくれる誰かがいるのなら、自分はまだ歩みを止めるわけにはいかない。
視線を窓から戻す。
トレイと少し開いてしまった距離を埋めるため、早足で回廊を進む。
今、アポロには話したい相手が二人いた。
一人はもちろん目の前にいるトレイ・ガーベルという男だ。
一時間程前、洞穴でトレイに詰め寄られた直後、グランがヘルメトスの衛士をぞろぞろと引き連れてやってきた。当然、アポロとトレイの会話はそこで中断された。
衛士達は盗難に関わったスラムの住人を全員捕縛し、アポロとトレイに対しては簡単な事情聴取を行った。そこから今まで彼とはまともに会話ができていない。
念のため、この国で星空を描く事は禁止されているから、スケッチのことは黙っていて欲しいと簡潔に話してはあるが、その罪の重さまでは伝わっていないだろう。
あの絵の持つ意味をもう一度しっかりと話さなければならない。そして、彼がどうしてあの絵を気に入ったのか、洞穴で聞いた以上のことを聞かせて欲しい。
話したい相手のもう一人は、長い回廊の先にいる。
アポロは今までその相手との接触をなるべく避けてきた。
一向に変化しない宮廷画家の仕組み。徐々に閉ざされていくヘルメトスと外の世界との繋がり。六年間味わった絶望がアポロに恐怖を与えていた。
飛空挺での出来事は全て夢か幻だったのではないか。
この国を率いる今の彼女と会話をした瞬間、目指していたはずの目的地が蜃気楼だったことに気づいてしまうのではないか。
嫌な想像が餌に群がる獣のように思い出を食い散らかす。
だが、獣を退ける火はもう手に入れた。
今こそ、もう一度彼女と向き合わなければならない。今日いきなりその機会を得られるかどうかまでは分からないが、少なくともグランと共に謁見の間に入ることは許された。アポロもまた、今回の一件の当事者だからだろう。ここから先、僅かでもチャンスがあれば、それを逃してはならない。
「随分と、怖い顔をするんだな」
低い小声で話しかけられる。前を見ると、トレイが僅かに首を横に向けている。その角度でアポロの表情が分かるのだから、彼は相当に視野が広い。
「あ、いや、ちょっと緊張していて」
もう一度話したいと思っていた相手の一人にいきなり話しかけるとは思っておらず、アポロの返答はたどたどしくなった。
「緊張? 君は宮廷画家だろう? 謁見の間に行くのに慣れているはずだ」
「まさか。女王と頻繁に顔を合わせられるのは三十人いる宮廷画家の中でも、ほんの一握りだけ……ですよ」
有事の際以外のタイミングで宮廷画家が謁見の間への入室を許可されるということは、すなわち、女王がその画家に会いたがっているということである。絵の感想を伝えたい。即興で肖像画を描いて欲しい。要望は様々だが、いずれにせよ、わざわざ下位の画家を選ぶことはない。
アポロが謁見の間に入るのは宮廷画家に任命された時以来だった。
その時に浴びせられた冷たい視線を思い出すと肩が震えそうになる。あの視線を向けられて尚、宮廷画家として認められたのは奇跡としか思えなかった。ソラリスの口添えがなければ、とっくに追い出されていたのではないだろうか。
トレイはアポロの説明に対し、興味深そうに頷いている。元々何かを尋ねてくることが多く、おそらく好奇心旺盛なのだろうと思ってはいたが、アポロのスケッチを見たことで、彼のヘルメトスの画家に対する関心がさらに高まったのかもしれない。
「そういうものか。……ところで、話は変わるのだが、君に少し聞きたいことがある」
「何でしょう?」
「衛士に捕まったスラムの住人のことだ。彼らはどうなる?」
てっきりまた画家について聞かれるものとばかり思っていたアポロはその問いの内容に面食らう。騎士や兵士といった、戦うことを職としている者達は、無力化した相手の処遇を気にすることはないと勝手に思っていた。倒した相手がどうなるかいちいち気にしていたら剣の動きが鈍ってしまいそうなものだ。
アポロは想像した。
スラムの住人であるシャーリ達はヘルメトスの大事な客人から荷物を奪い、その護衛に対して武器を向けた。ヘルメトス側はグランを派遣したノリアに対して面子を保つために、その行為に対して重い罰を与えなければならないだろう。
そして、今のヘルメトスがそこで容赦するとは思えなかった。
「極刑。多分、全員死刑になると思い、ます」
「なるほど、それは気分が良くないな」
眉をひそめた後、トレイはやや歩く速度を速めてグランに追いつき、何かを耳打ちした。会話の内容まではアポロには届かない。
耳打ちが終わった頃に、ちょうど謁見の間の前にある大扉に到着した。扉は木でできていて、大きな岩を支える大樹の彫刻が施されている。ヘルメトスの成り立ちをイメージして作られた紋章だ。
最初にこの扉を見た時、中にいる王家を守るためには木よりも鉄の方が適しているのではないかと疑問に思った。しかし、護身用の魔法を強化するために魔法について軽く研究したところ、基本的に鉄よりも木の方が魔力の伝導率が高いという事が分かった。定かではないが、おそらくこの扉には魔法的な防御策が講じてあるのだろう。
「少し眠ル。魔力ヨコセ。鞄開ケ」
ブイレンが駄々をこねた。アポロは仕方なく、残った僅かな魔力を与えてから、鞄を開いて怠惰な相棒を迎え入れる。もしかすると眠りたかったのではなく、この先の重々しい空気に晒されるのを嫌がったのかもしれない。
先頭にいるソラリスが一礼した後、扉に向かって声を張り上げた。
「宮廷画家ソラリス、アポロ。王都ノリアより参られた使者、グラン・モーリス閣下とその騎士トレイ・ガーベル氏をお連れしました」
木製の大扉が自然に開かれる。アポロの自宅の扉も木でできているが、それが開く時とはまるで違う、古い楽器が曲を演奏しているかのような音が回廊に鳴り響いた。
白い回廊がそのまま広くなったような菱形の大広間が現れる。
天井は高く、それを支える二本の柱は太い。柱の間には金色のカーペットが敷かれていた。
細いカーペットの先にある漆黒の玉座。何度もニスを塗り重ねて作ったというその逸品は、柱にぶら下がった美しいガラス電球の光をたっぷりと反射している。
背もたれは扉に施された彫刻と同じように大樹を模した造形だ。ただし、背もたれの方に岩はない。これは大樹が支えるのは王であるという表現らしい。
現在、その玉座は空だった。
アポロは僅かに胸を撫で下ろす。先程もう一度向き合うと決めたばかりだが、それでも怖いものは怖いのだ。
その油断を掴み取るように、柱の陰から一人の男が現れた。
「これは、これは。グラン様。遠路はるばるようこそヘルメトスの王宮へ」
床近くまで垂れたボリュームのある黒髪と、夜をそのまま布にしたような青黒いローブを尾のように引き連れながら、男は一行の前を塞ぐ。紫の紅で彩った口から出てくる台詞は魔力がこもっていなくても呪文のように聞こえた。
グランの表情に迷いが浮かぶ。目の前の男の立場を推し量っているのだ。その迷いを消すように、ローブの男は姿勢を低くしながら名乗った。
「私の名前はターレック。この王宮に雇われた錬金術師でございます」