第一章 6
「お前、確かあたしが鞄を盗んだ奴の横にいたな。はっ、ご主人様の荷物を取り返しに来たのか。律儀だなぁ」
シャーリは思ってもいないような感想を口にしながら、ドラム缶に座っていた老人から刃の曲がった剣を受け取る。
トレイは僅かに口元を緩ませながら言った。
「沽券に関わるのでね」
ドゥハがシャーリの前に出て杖を構える。銃で杖を弾かれたことに怒っているのか、相手の言い分を聞く余裕もないらしい。
『誰にも理解されない刃をここに』
おそらく、アポロを襲った見えない刃が杖から放たれた。しかし、トレイは僅かに身体を傾けただけだ。それだけの動作で見えない刃を回避したのである。
「誰にも理解されない刃をここに!」
今度はトレイは動かなかった。ただ真っ直ぐに歩いて距離を詰めている。ドゥハは見るからに混乱していた。必死に杖を振りながら呪文を繰り返している。
「誰にも理解されないという呪文でカモフラージュしていたようだが、君の魔法は見えない刃を飛ばすという代物だろう。風に『切る』という効果でも付け加えたか? 条件はおそらく、誰にも見られないこと」
人の扱う魔法のレシピは、魔力と概念と条件という三つの要素によって構成される。ドゥハの魔法はおそらく、風の魔力に『切る』という概念を加え、そこに誰にも見られないという条件を加えることで成り立っていた。そのレシピを杖の動きと呪文で呼び出していたのである。
「あいにく、俺の目は魔力の流れを見切る。君の攻撃をしっかり見てしまった」
「そんな、それじゃあ……」
頭巾で隠されていて表情は分からないが、声の震えから察するにドゥハは自分の魔法が打ち破られたという事実を知って絶望している。ドゥハの見えない刃という魔法はトレイが見たことで矛盾した。概念と条件によって作った法則を破られると、その魔法のレシピはこの世から消滅する。
「どけ、ドゥハ。あんたの研究の仇はあたしが取ってやる。あんたらも行くぞ。あいつは多分戦い慣れてやがる。一切手加減はいらねぇからな」
おうという返事と共に、住人達が殺気立つ。しかし、その隙にトレイは最初の一手を打っていた。
「うっ」
アポロのすぐそばにいたヘレンが呻きながら腹を押さえる。そこにトレイの長剣の柄が当たっていた。三十歩以上あった距離がいきなりゼロになったのだ。
「……速い。ブイレン、今の魔法か?」
縛られた相棒に小声で尋ねる。
「違ウ。あいつ魔力使ってなイ」
つまり、トレイは身体能力と技術だけで一気に距離を詰めたのだ。銃から剣に持ち替えたタイミングもまるで分からない。
倒れる仲間を見て住人達の動きが鈍る。その中でただ一人、シャーリだけが曲刀を持ってトレイに立ち向かった。
黒い軍服が閃く。そこから先は一瞬だった。
二十名程いたであろうスラムの住人達はものの数十秒で全員無力化された。
刃や鉄棒、角材などの長物を、鞘に収めた状態の長剣でいなし、砕く。
離れた敵が物を投げようとすれば、それを長剣の投擲によって阻止した。
武器を失った瞬間をチャンスと誤認した愚か者がトレイの背後から剣を振り下ろそうとしたが、トレイは長剣を持っていた時よりもさらに素早い動きで短剣を引き抜き、襲い来る凶刃を真っ二つに叩き折った。
シャーリは他の者よりは粘っていたが、それでもトレイにダメージを与えることはできず、肘打ちを胸部に受けて膝をついた。
一人の住人がテントに戻り、猟銃を手に戻ってくる。対してトレイは銃弾を回避しながら、拳銃を抜き取り、たった一発で猟銃を破壊した。銃を破壊された住人はこれはもう勝てないと悟ったのだろう。仲間を置いて洞穴の奥へと消えた。
「この野郎……滅茶苦茶やりやがって」
シャーリが苦悶の表情を浮かべながら、地面を這う。トレイは見向きもせずに淡々とグランの皮ケースを回収した。
「無理するな。立てないだろう。寝ていろ」
彼の言葉通り限界だったのだろう。シャーリは力尽きて気を失った。
荷物を回収したトレイはアポロに片手を差し出す。
「無事で良かった。他の宮廷画家からこの場所について話を聞いて、先に俺だけ来た。どうやら判断は間違っていなかったらしい。我々のせいで何かあっては申し訳ない」
「いや、その、ありがとう、ございます」
今目撃した戦闘が信じられず、言葉や身体の動きがぎこちなくなってしまう。打撲や擦り傷による痛みもあり、すぐには立ち上がることができなさそうだった。そんな自分が心底情けなかった。目の前で客人の荷物を盗まれ、それを取り返そうとしたものの返り討ちに遭い。結局、客人によって助けられる。アポロは余計なことをしただけだ。
トレイは何事もなかったような涼しい顔でアポロの荷物を拾っている。
「これは君の物か。中身もいくらか散らばっているな」
袋の中身を見ると確かに少し足りない道具がある。だが、それを客人に回収させるのはあまりに申し訳なかった。
「えっと、気にしなくて良いで……」
呼び止めようとして、トレイが手にしたそれに気づく。鞄に入れっぱなしになっていたスケッチの束。鞄から落ちる際に開かれた状態になったのだろう。トレイの手元には描いたばかりの絵がある。
昨晩、アポロが描いた星空の絵だ。
「あ、それは!」
慌てて回収しようとするが、身体が思うように動かず無様に転ぶ。一方トレイはスケッチに視線を落としたまま動かない。
やがて小さく呟いた。
「これは、君が描いたのか?」
「う……あ……」
はいと答えれば、きっと星空を描いたことが王宮の人間にばれる。そうなればアポロは宮廷画家ではいられなくなるだろう。かといって、どう嘘をつけばいいのかも分からない。スケッチの束を誰かに貸した。無理がある。
アポロがまともな返答をしないまま、トレイはさらに質問を重ねた。
「君はもしかして、広場の画廊の入り口付近に飾ってあった少女の絵を描いた画家なのか?」
危うく涙をこぼしそうになった。画廊の最序盤、出る頃には誰もが存在を忘れているであろう絵のことを彼は覚えていたのである。別の絵を見て同じ作者だと分かるくらい事細かに。
感情の混乱で何も言えなくなったアポロに、トレイはスケッチを持ったまま近づいてくる。
「画廊の絵は不自然だった。伝えたいテーマがあるはずなのに、それを無理矢理抑制しているような印象だった。だが、この絵は違う。君の強い意志を感じる。きっとこの絵は美しく仕上がるに違いない」
彼の顔も声も明らかに興奮している様子だった。戦っている時でさえ眉一つ動かさなかった男が、アポロの絵を見て生き生きとしている。
「この絵はいつ完成する? 俺はこの絵が欲しい」
それはいつの日か誰かに言って欲しかった言葉だった。
王宮でも、自宅のアトリエでもない、ただの洞穴の中で、灰髪の男は純粋な気持ちを宿らせた瞳でアポロを喜ばせた。
禁止されている絵であるとか、まだスケッチの段階であるとか、誰かに売る前に見せたい相手がいるとか、ほんの一時の間、アポロは嬉しいという感情以外の全てを忘れかけた。
どこかに向かって進み続ける熱があれば、いつかどこかに辿り着く。それはつまり、努力を続けていればいつか誰かに届くということ。
今のアポロは大人に近づいていて、本当はそう上手くいかない場合もあるということを知ってしまっている。だが、だからといって熱を失ってはいけなかった。腐ってはいけなかった。何かになりたい。誰かに届かせたい。その情熱こそアポロの武器だった。
それはアポロが長年忘れていた大切なことだった。
第一章 終