第一章 5
意を決して縦穴に飛び込む。迷ったら恐怖に追いつかれて動けなくなりそうだったので、できるだけ足を止めずに足場を次へ次へと移っていく。それでも盗人が消えた場所まで降りるのに、盗人の倍以上の時間が掛かった。
ブイレンの言葉の通り、そこには横穴があった。既に地上の光があまり届かない高さだったが、中にランプがあるおかげで歩けない程光源に困ることはない。ランプにはチューブが接続されていて、それが洞穴の奥に向かって伸びている。おそらくランプは魔導具だ。チューブから魔力を取り入れ、ガラスの球を光らせている。昨晩、衛士がアポロを照らした道具の小規模版だ。
洞穴の中にあるのはランプだけではない。古いレールが敷かれていて、その近くには錆びたトロッコも放置されている。おそらく掘った土砂を縦穴に破棄するために使われていたのだろう。
人工物が多いが洞穴自体は天然のものらしく、天井や壁の凹凸が激しい。広さも一定ではなく、奥に進めば進むほど広くなっていそうだ。
ブイレンが洞穴の奥からアポロの元に戻ってくる。
「見失っタ」
「この暗さじゃ仕方ない。とりあえず追いかけよう」
罠を仕掛けられている可能性も考慮して、ゆっくりと洞穴を進む。アポロが警戒すべきは待ち伏せや物理的な罠だ。魔法的な罠が仕掛けられていた場合はブイレンが察知する。出会った時からブイレンにはそういう能力が備わっていた。慎重な魔術師が作ったゴーレムなのかもしれない。
洞穴はもはや民家の一つや二つ入りそうな程広くなっていた。それに合わせてランプの数も増えている。だが、それでも空間全てを照らすに十分な光量とは言い難い。不十分な輝きの連なりはまるで光の葬列だった。
カツン、カツンと、宮廷画家に支給されるワークブーツが足音のしない光達の代わりに石を蹴る。反響する音と深い暗闇は方向感覚を鈍らせ、意識の輪郭を奪っていく。魔法に頼らずともこの洞穴は容易く人を惑わせる。警戒するために必要な集中力が切れかけていた。
ふと、アポロの頬に痛みが走った。ブイレンがくちばしで皮膚を摘まんだのだ。そのおかげで、ぼんやりしていた意識が元に戻る。洞穴を打ち鳴らす足音は自分の歩く音だと思い出す。
周囲をよく観察してみると、先程に比べて僅かに景色が変化している。積み重ねられた木や鉄の廃材。上下逆さまに放置された荷台。一見、無造作に捨てられただけにも見えるそれらは、しかし、意図的に配置されているようにも見える。廃材を椅子や机として再利用する者達の姿が脳裏に浮かぶ。
つまり、生活感があるのだ。
「よう。こんなところまで追いかけてくるとは見上げた根性だな。宮廷画家」
洞穴の壁を乱反射する声。口調は乱暴だが、存外声色は美しい。
アポロが追いかけた盗人が正面に浮かんでいる。どうやら木材で組まれた小屋の屋根の部分に腰掛けているらしい。小屋は暗い洞穴では目立たない色で塗装されていて、そのせいで浮かんで見えたのだ。
今までで一番近い距離。暗闇にもいい加減目が慣れてきた。そのおかげで今まで確認できなかった盗人の顔や姿も見える。
大雑把にカットされた黒髪とその下からアポロを睨む双眸。目元には何かを主張するように黒と白の線が引かれている。睫毛の長さや顔立ちから判断するに女性だ。ボロボロの外套の裾からは細い足が伸びていて、屋根の上でぶらぶらと揺れていた。彼女の腰掛けた場所のすぐ横にはグラン・モーリスの皮ケースがある。
「返せよ。それはあんたの物じゃない」
アポロが強く言うと、盗人の女性は軽く鼻で笑った後にケースを掴んで地面に降り立った。
「これはもうあたしの物だよ。あの爺さんがまんまと盗まれるのが悪い。この世は生きるか死ぬか。そんな世界で油断は許されない」
無茶苦茶な言い分に腹が立ったが、ここで挑発に乗るのは得策ではない。あくまでアポロの目的はケースを取り返すことであって、盗人の捕縛や討伐は二の次だ。
アポロは小声でブイレンに命令を送る。
「オレが魔法で隙を作る。お前はケースを回収してくれ。あれくらいなら運べるだろ」
生物の鳥には難しいかもしれないが、ブイレンはあくまでゴーレムであり、それなりに力がある。人が片手で持てる道具程度なら運ぶことが可能だ。
女性の盗人は楽しそうに笑いながら地面に転がっていた石を蹴る。その隙を狙った。
「行け!」
ブイレンが翼を広げてケースに向かう。アポロは援護するためにカーディガンのポケットに入った鉛筆を掴み……。
「遅せぇ!」
盗人が叫ぶ。
いつの間にか急旋回していたブイレンが盗人の叫びとほぼ同時に警告した。
「左、魔力反応ダ!」
風圧の接近を感じてアポロは飛び退く。だが、回避は完璧とはいかなかった。浅葱色のカーディガンと鞄の肩紐が切断され、アポロの所持品が散らばる。武器として用意していた鉛筆も全て失った。
「ブイレン、鉛筆を!」
ブイレンに武器の回収を命じる。しかし、アポロの相棒は盗人の手に捕らえられていた。
「呼んだのはこのポンコツかな?」
「無理ダ。すまなイ」
一手一手と追い詰められていく。新たな戦略を立てるためには落ち着いて思考する必要があるが、敵が悠長にその隙を与えてくれるはずもなかった。
再び迫る風圧。アポロは全力で地面に飛び込んで回避する。後方でランプが割れる音が聞こえた。攻撃が飛んできた方向を見ると、布で作られたテントの前に黒い頭巾で頭を覆った人影がある。その手に握られているのは先端に赤い宝石の付いた杖だ。魔術師の杖は呪文を短縮するために使う道具である。
『誰にも理解されない刃を……』
杖を使っているにしては呪文の詠唱が長い。それほど腕の良い魔術師ではないのか。
アポロは状況を打破するために魔術師の元へと駆け出した。ブイレンを救出するにも、ケースを奪還するにも、魔法の援護がとにかく邪魔だ。
しかし、あと数歩で杖に手が届くというところで、横腹に強い衝撃を受ける。いつの間にか、真横に新手がいた。ボロボロのシャツを着た屈強な男。振り上げた足が衝撃の正体だった。男はさらにアポロの頬を思い切り殴りつける。
「がっ……」
受け身を取れず、地面に思い切り身体を打つ。そこに追い打ちをかけるように、呪文詠唱を完了した魔術師が杖を向けた。
「待て」
凶行を止めたのは以外にも盗人の女性だった。ケースを脇に挟み、ブイレンを鷲づかみにした状態で、倒れたアポロに近づいてくる。いつの間にかその周囲には、汚れた格好をした人影が集まっていた。スラムの住人達だろう。
「シャーリさん。助けるんですかい?」
アポロを殴りつけた男にシャーリと呼ばれたのはケースを持った女性だ。名前を呼ばれたことに腹を立てたのか、質問の内容に腹を立てたのか、シャーリは男をきつく睨む。それだけで、男も魔術師も数歩下がった。視線だけで人を動かすことができるのは支配者だけだ。彼女がここにいる者達をまとめているのだろう。
シャーリはその場でしゃがみ込み、強引にアポロの頭を掴む。
「あたしが何の用意もせずにお前を待ち構えていたとでも思ったのか? 案外今の宮廷画家は馬鹿なんだな。おい、こいつの荷物を集めて持ってこい」
命令に従った男達が散らばったアポロの道具を集める。筆、絵の具、鉛筆。丁寧に扱ってきた道具が乱暴に鞄に投げ込まれるのを見て、アポロは歯を食いしばった。
肩紐が切断され、袋の部分だけになった鞄をシャーリが受け取る。そして中身を物色しながら一つ一つ仲間に手渡していった。
「これは高い絵の具だ。こっちはそうでもない。この筆は使われすぎてて売れないだろうなぁ」
シャーリの値付けは的確でアポロは少し驚いた。その気持ちが顔に出ていたのか、シャーリがにやりと笑う。
「私が画材の価値を知っているのが意外か? スラム街に生きる人間は芸術を知らないとでも思っていたか?」
口元は笑っているが、黒い瞳は怒りを湛えていた。
「あたしも元同業だよ。あたしだけじゃない。他の連中だって、絵画じゃなくとも皆、昔は地上で何かの芸術に携わっていた」
「……じゃあ、どうして今は誰かから何かを奪うような生き方をしているんだ」
噛みつくように尋ねると、シャーリの物色する手が止まった。数瞬の後、シャーリは血相を変えてアポロの頭部をもう一度掴んだ。
「よく見ろ!」
強引に視界に飛び込むのは周囲を取り囲むスラムの住人達。皆、服のなり損ないのような物を着ている。
シャーリがアポロの頭を掴んだまま角度を変える。
「あそこにいる奴はヘレンという名前で、元々は地上で彫刻をやっていたが、魔法を作品に組み込む過程で利き手が吹き飛んだ。奴自身の魔法じゃない。魔法を担当している馬鹿がしくじった。にもかかわらずあいつだけがアトリエから追放されて、ここに来ることになった」
彼女の言葉の通り、そこには右腕の肘から先を失っている男が立っていた。
その事実を飲み込む前に、シャーリは再びアポロの頭の角度を変えた。
「ドラム缶に腰掛けている爺さんの名前はライ。あの人は画家のためにイーゼルを組み立てていたが、島の端にある森に木材を取りに向かう途中で倒木の下敷きになった。だから左足が義足なんだ。力が上手く入らなくてイーゼルを組み立てる作業場で荷物扱いされた。別の仕事をくれりゃいいのに、即刻解雇だ」
老人は過去を思い出しているのか、顔を暗くする。細い木でできた左足がドラム缶を叩いた。
「あたしは目だ。ある日、病で白と黒以外の色が分からなくなった。でも、白と黒だけでも絵は描ける。そう信じていたのに、宮廷から追い出された」
シャーリは頭から手を離し、その拍子にアポロは地面に顎を打った。さらに横腹を思い切り蹴り飛ばされる。アポロの身体は洞穴の尖った地面を転がり、誰かのつま先に押さえつけられた。見るとアポロを押さえつけたのは片腕を事故で失ったヘレンという男だった。
擦り傷だらけになったアポロの身体の上に、シャーリは紐で翼を縛ったブイレンを投げつける。
「今のヘルメトスは王に捧げる芸術を生み出すためだけにある。少しでも欠陥がある奴はすぐに追い出されるのさ。そうやってここにいる全員、芸術家としての命を奪われたんだ。だから、あたし達にはもう、生き物としての命しか残っていない。ここには生きるか死ぬか、その単純な二択しか存在しないんだ。上でのんびりしている連中にあたし達の生き方をとやかく言われたくないね」
あちこち転がっている内にどこかを切ったのか、それとも殴られた拍子に歯茎を痛めたのか、口の中に血の味が、鼻の中に血の匂いが広がる。日常的に無茶をしているアポロだが、それでもここまで濃い血の味や匂いに触れたのは六年前の飛空挺での事件以来だった。
あの時、ククルは魔獣達によって夢の一部を奪われた。
あの黒い木鬼達にも何か事情があったのだろうか。
もしそうだったとして、自分は同情するか。
アポロは片手でヘレンのつま先を掴み、もう片方の手でブイレンを抱き寄せながら、強引に上体を起こす。動くなとヘレンが言ったが無視した。
「単純だって? 笑わせるなよ。さっきから聞いてれば、生き方だとか、今のヘルメトスだとか、あんたは話をややこしくしてばかりだ。そうやって自分のやっている事を正当化したいだけだろ」
「……何だと」
「オレはそんな話をしにここに来たんじゃない。あの皮ケースはグランさんの荷物だ。返せよ」
「馬鹿の一つ覚えだな。お前にはさっきのあたしの話は難しすぎたってわけね」
シャーリは空いた両手を揺らして笑った。その態度が癪に障る。
「あえてあんたの話に答えるなら、オレはあんたらみたいに誰かから物を奪うってやり方がとにかく気に食わないんだ。ここには生きるか死ぬかの二択しかない? 知らないね、そんなこと。自分達で勝手に定めたルールを無実の人間に強引に押しつけやがって。虫唾が走る」
流石に頭にきたのか、シャーリは無言でアポロの元に寄り、ヘレンのつま先を押さえていたアポロの右腕を引き延ばした。
「ドゥハ。あんたの魔法でこの餓鬼の右腕を切れ」
ドゥハと呼ばれたのは赤い宝石の杖を持っている頭巾の男だった。彼の魔法であれば、容易くアポロの腕を切れるだろう。抵抗するための防御魔法をアポロは習得していない。
ドゥハが杖を構える。
この顛末は自業自得だ。自分の責任になることを避けるため、自分の怒りを優先して、単独でシャーリを追いかけた故に返り討ちにあっている。その上、相手を怒らせた。
だが、後悔はなかった。アポロは今後とも他者から奪う行為を許すつもりはない。
そして、諦めの気持ちもあった。この島でこれ以上努力を続けてもどうにもならないのではないかと疑う気持ちが少しずつ膨らんでいたのである。昨晩の無理を最後に星空の絵を描くのを辞めようかとも考えていた。
これ以上王宮のやり方に染まるくらいであれば、このまま終わる方が幾分マシかもしれない。
「さぁ、八年前にあたしがお前達宮廷画家から味わわされた苦しみを返してやるよ。お前に残るのは命だけさ」
シャーリがやや興奮気味に叫び、その声が洞穴中に反響する。
画家生命が絶たれる瞬間が来る。アポロは目を背けない。
だが、ドゥハが呪文を唱えるよりも先に、乾いた銃声が鳴り響いた。
杖は弾かれ、洞穴の中を転がる。ドゥハは慌ててそれを追いかけた。
「それは違うだろう。彼が宮廷画家になったのは四年前と聞いている。君がどんな苦しみを味わったのかまで俺は知らないが、少なくともその時、彼はまだ宮廷にいないはずだ」
「誰だ……」
シャーリが離れた場所に佇む人影を睨む。人影の手には銃口から煙を吐く拳銃。スラムの住人達がそれぞれ警戒態勢を取る。ある者はただ拳を構え、ある者は鉄の資材を剣のように持った。
そんな事は気にも留めず、人影はゆるやかに踏み込んでくる。
灰色の髪。色素の薄い瞳。黒い軍服。
グランの護衛。トレイ・ガーベルだった。