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魔天のギャラリー  作者: 星野哲彦
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序章 1


 どこからともなく呪文にも似た歌が聞こえてくる。

 

『夜の波

 運ばれてくる黒い雲

 錆びた鎖は包まれ、世界は僅かな時間の中で暗転する

 遠く向こう。再生の音階が手を招く』


 歌が終わり、遠い記憶の中に意識が落ちていく。



 


 少年は騒がしい船乗り達の声で目を覚ます。視界は真っ暗だ。何故か身動きも取れない。音と記憶だけが状況を知るための道標だった。


 少年の名前はアポロ。

 ヘルメトスという小さな島の人間だ。


 幼い頃は祖父に育てられていたが、今はその祖父も亡くなり、小さな石の家で一人暮らしをしている。


 子供の一人暮らしとて、心配する者はいない。近隣に住む人々は皆家族のようなもので、何かあった時はすぐに誰かが助けてくれる。

 家のことも、時々様子を見に来てくれるソラリスという若者がいるので問題ない。

 

 アポロにはヘルメトスを取り仕切る王宮の、宮廷画家になるという夢があった。その夢のためには、絵画に関する多くの知識と技術を身につけなければならない。

 

 狭い島にいるだけで果たしてそれが可能なのか。

 

 悩んでいたところに、世界で最も大きな都市に向けて船が出るという噂を聞いた。ただし、その船に乗れるのは、船乗りと商人と数名の宮廷画家。

 そしていずれ王位を引き継ぐククル姫だけだった。

 

 その情報を知ったアポロの決断と行動は早かった。最低限必要な画材を袋のような形の鞄に詰め込み、白い帽子をかぶった船乗り達の隙を突いてこっそり乗船したのである。

 

 乗船したはいいものの、出発までどこに隠れるのかが問題となった。

 甲板や操舵室、厨房など、多くの人間が使用するスペースは発見されてしまう危険性が高い。どこかの客室に潜り込むという手も考えたが、あいにく全ての部屋が予約済みで、鍵を解除することができたとしても、その後に客に見つかってしまう。

 

 考えあぐねた末、アポロは船倉に置いてあった樽の中に身を隠すことにした。

 非常時に水を入れて脱出艇に積み込むために用意されたものだろう。蓋を開けてみると中は思ったよりも狭かったが、試しに身体を入れてみると存外綺麗に収まった。

 

 とはいえ、樽の中に入ったままでは絵を描くことができない。船が出航し、皆が寝静まったタイミングで動きだそうと心に決めた。じっとその時を待っている内にどうやら少し眠ってしまったらしい。

 

 つまり、アポロは今、樽の中にいるというわけだ。

 

 船乗り達の怒声はいまだに聞こえ続けている。耳を樽の壁にくっつけてみると「出港だ!」「あと少しで休めるぞ!」など、船出を予感させる言葉を聞き取ることができた。

 

 やがて、低いうなり声と共に足下が揺れはじめる。

 自分の鼓動もそれに合わせて大きく刎ねた。

 未だ見ぬ地への期待と、密航という違法な手段を取っているという自覚が身体を火照らせる。

 

 出航してからどれくらいの時間が経過したのかを知るため、そして気を静めるため、アポロは樽の中で数字を数えはじめる。数を進める度、脳裏に空想した世界が浮かんだ。

 

 世界で最も魔法の栄えた王都。

 脱獄した者が一人もいないという監獄。

 とある言語学者が建築した魔塔。

 近づくと魂が乱されるという湖。

 

 本の文字を辿って知った土地は一体どんな風景が広がっているのか。自分の瞳で確かめて絵に収めたいという情熱が心の底を満たしている。

 

 千二百ほど数えたところで、船の中が若干静かになっていることに気づく。船が安定し、船乗り達が休みはじめたのだろう。

 

 動くなら今しかない。

 

 そう思って樽の蓋を慎重に掌で押し上げる。

 木箱や布袋で埋まった船倉に人影はない。この船倉は普段使わない物を仕舞っている場所なのかもしれない。

 

 樽から這い出し、船倉の出口の扉を開く。

 

 僅かな木の軋みに心臓が潰れるような気がした。廊下も階段も静かだ。動くタイミングとしては完璧だった。


 事前に確認しておいた最短ルートで甲板に出る。

 途端、雲を砕いて作ったような濃霧が視界を覆った。微かな甘い匂いが鼻先を掠める。この霧が普通の霧ではないという証だ。

 

 これは大気中の魔素(エレメント)というエネルギーが強く乱れることで発生する現象だ。天候に関する本に、これを魔霧と呼ぶと記載されていた。

 

 ヘルメトス島の上空は常に魔霧で覆われているため、霧自体を珍しいとは思わない。だが、それを直接身体で浴びるというのは初めての体験だった。おかげでせっかく外に出たのに視界が悪すぎて絵を描くどころではない。

 

 キャビンの外壁に手を当てながら船首を目指す。

 途中で船乗りに出くわした際の言い訳をいくつか考えていたが、幸いにもそれを使うような機会は訪れなかった。ただし、甲板が無人というわけではない。船首近くにロープや荷物をテキパキと動かす人影が見える。彼らに見つからないようにするために、アポロは既に甲板に固定された木箱の影に身を潜めた。

 

 霧でぼやけたデッキで蠢く人影。その光景はどこか現実離れしていて、自然とアポロは袋からスケッチ用の紙と鉛筆を取り出していた。絵の具を使った本格的な作業はできなくとも、下書きくらいはやっておこうと思っての行動だった。

 

 船乗り達の足音に紛れて、鉛筆が紙を擦る。作業を終えてキャビンに戻る者もいたが、先程見た光景は既に記憶していたので、多少状況が変化しようとも問題はなかった。

 

 やがて、アポロは濃霧に一人取り残される。

 

 誰にも邪魔されずに絵に没頭することができるのでこの状況は好都合だった。下書きを終えたら倉庫に戻り、絵の具を使って仕上げをすればいい。

 どれくらい時間が経った頃だろうか。ふいに視界を大きな影が覆い、野太い声が降ってきた。


「おい、坊主。どこから入ってきた?」

 

 作業に没頭していたせいか、見つかってしまったという事実を認識するのに時間が掛かる。呆然としたまま、視線を紙から声の主の方へと持ち上げた。かなりの至近距離だ。霧の中とはいえ、アポロを見つけた男の姿ははっきりと確認することができた。

 

 濃いブラウンの短髪に同じ色の顎髭。麻の服、皮でできたベスト、その両方に汚れが目立つ。男らしい鍛えられた肉体から腕が伸びてきてアポロの肩を掴む。その手の分厚さに親近感を覚えた。画家という雰囲気ではなかったが、この男も何か物を作る仕事をしているに違いなかった。


「密航した挙げ句、甲板で堂々とスケッチをはじめるとは肝の太い小僧だ」

 

 男は笑ってそう言ったが、言葉と掌に多少の圧を感じる。逃がすつもりも言い訳を聞くつもりもないという意思表示に思えた。複数用意していたはずの言い分は一つも口から出てこない。

 

 この後、島に戻されて罰を受けることになるのだろう。たった今、一世一代の冒険が儚く終わってしまったことをアポロは痛感した。


「ホエル。そいつは絵を描いていたのか?」

 

 魔霧を貫くような美声。

 

 現れたのは気品という言葉をそのまま子供の姿に封じ込めたかのような美しい少女。アポロよりは少し年上だろうか。

 

 深紅のドレスと白銀の長髪を堂々とはためかせ、少女がホエルと呼ばれた男に近づく。青い瞳が細くなると、それだけで男は狼狽えた。


「そうみたいですが……しかし、姫」

 

 男の口から零れた単語にぎょっとする。その称号を持つ者はこの船に一人しか存在しないはずだ。

 

 ヘルメトス王国、王女ククル。


 数年後に王位を引き継ぐことが確定している、まさに天の上の存在。そんな人物が、手を伸ばせばドレスの袖を摘まむことができる位置に立っている。


「しかし、ではない。余がこの餓鬼に後れを取るとでも思うのか?」

 

 散々な言いようにアポロは少し腹が立ったが、王家の人間は特殊な魔法を扱う訓練を受けていると聞く。アポロも護身用としていくつかの魔法を習得していたが、そんな付け焼き刃ではとても太刀打ちできないだろう。元より、そんな物を王女に向かって振るえば、間違いなくアポロの首が飛ぶ。いろいろな意味でアポロはククルに対して無力だった。

 

 ホエルが退き、代わりにククルが細い身体を木箱の間に滑り込ませる。続いて無言のまま差し出される右手。アポロはその動作の意味が分からずに困惑した。跪いてキスでもしろということか。


「何を呆けているのだ。その絵を早く見せろ。余はヘルメトスの民が描いた作品全てを見る権利がある」

 

 傲慢な言い草ではあったが、不思議とアポロは高揚した。自分のような未熟者の描いたスケッチを王女が見たいと言っている。

 アポロがスケッチを差し出すと、ククルは乱暴な物言いとは裏腹に、丁寧な手付きでそれを受け取った。

 

 少女がスケッチに目を落とす間、船上は沈黙した。彼女の纏う雰囲気は静寂さえも特別にする。アポロは自分が宮廷画家となって王宮にいるような気分になった。

 だが、スケッチをひとしきり眺め終えたククルは、あからさまに深い溜め息を吐いた。


「全然駄目だな。ひょっとしたらと思ったが、てんで期待外れだ」

 

 辛辣な感想と共に突き返されるスケッチ。アポロの頬に熱が籠もる。何の配慮もない言葉への怒りと、期待を抱いてしまった自分に対する恥ずかしさがでたらめに混ざり合っていた。


「ま、まだ完成してない!」

 

 ようやくの思いで捻り出せたのはそんな頼りない言葉だけ。ククルの冷たい表情は何一つ変わらない。


「余がそんなことも分からないとでも思ったか? この段階で完成形を想像するなど造作もない。目の付け所は良いが、お前には荷が勝ちすぎている。それに、既にお前の絵はヘルメトスの傾向に染まりつつある。余が求めているのはもっと自由な作品だ」


 淡々と並べられた評価はまるで金属でできた重りのようにアポロの心にのしかかる。それでも、ここで折れれば自分の芯が壊れてしまうような気がして、アポロは必死に抵抗した。


「オレが姫様の想像を超えるかもしれない。技術が足りないなら努力する。オレはいつか必ず宮廷画家になるんだ」

 アポロは勢いに任せて身を乗り出すが、横からホエルが手を突き出してそれを遮った。

「おい、いい加減にしとけ。この方が誰か分かっているんだろう?」

 歯を食いしばるアポロに向かってククルは腕を組み、呆れた顔で見下ろした。


「宮廷画家? まさかお前、そんなくだらない夢のためにわざわざ密航なんてしようと思ったのか」

 

 宮廷の人間がここにいれば卒倒してしまいそうな言葉にアポロは酷く混乱した。これから王位を引き継ぎ、宮廷画家達を従えようという人間が、何故その職を否定するのか。

 ククルはアポロと視線を合わせるようにしゃがみ込む。小さな掌が迫り、強引にこちらの顎を掴んだ。


「どうして宮廷画家になりたい?」

「そ、それは、優秀な画家にしかなれない職業だから……」

 

 狭まった頬の間から何とか自分の思いを吐き出す。しかし、ククルは首を振ってそれを否定した。


「違うな。ヘルメトスの宮廷画家は王が気に入る絵を描くためにある。故に、次第に皆の作品が似たような雰囲気になるんだ。私はそれを酷くつまらないことだと思っている」

 

 側に控えるホエルがキョロキョロと周囲を見回した。誰かが聞いていたら大問題になると肝を冷やしているのだろう。そんなことは構いもせず、ククルは堂々と喋り続けた。


「数年後。余が女王になったら今の宮廷画家の仕組みは叩き潰すぞ。より自由な芸術が生まれるようにヘルメトスを変える。そのためにこの船に乗った。まずは世界中の画廊を巡って芸術に対する見聞を広げるのだ」

 

 アポロとそれほど歳の変わらない少女は、しかし、既に遠い未来に続く覇道を歩みはじめていた。その言葉の規模の大きさに圧倒され、顎から手を離された途端にアポロはその場でへたり込んだ。その様子に満足したのか、彼女はそこで初めて笑った。


「ホエル。この餓鬼を船乗りに預けて働かせろ」

「え? お眼鏡にかなわなかったんじゃ?」

「熱意だけはあるようだからな。余が理想に到達するための薪くらいにはなってくれるだろうさ」

 

 赤いドレスを翻し、ククルは霧の中へと消えた。ホエルは面倒くさそうに顎髭を掻きながら、アポロの襟を掴んで強引に立ち上がらせる。


「姫さんはああ言ってるけど、小僧はそれで良いのか? 俺としては、この船がヘルメトスに戻るまで倉庫で大人しくしてるっていう道を勧めるぜ」

 

 描いた絵を酷評され、語った夢も一蹴されたアポロだったが、ホエルの提案を受け入れようとは思わなかった。ここから何もせずに島に帰ったら、あの王女を見返す機会を永遠に失ってしまうような気がしたのだ。


「働く。オレにできることは何でもやらせてくれ。でも、空いている時間は絵を描かせて欲しい」

 

 襟を掴まれた体勢のまま、はっきりと自分の意思を示す。ホエルは懐から皮ケースを取り出し、そこから一本の葉巻を抜き取った。


『フレア』

 

 ホエルが口にした短い呪文に反応して、葉巻の先端に火が付いた。火の魔法を行使したのである。魔法は発動のためにレシピと呼ばれる設計図が必要なのだが、おそらく服のポケットにでも隠しているのだろう。


「姫さんの言う通り、気持ちだけは一人前らしい」

 呟いた言葉と共に紫煙が魔霧に混ざっていく。その強い匂いにアポロは思わず噎せた。

「おっと、悪いな。子供の前で吸うもんじゃなかった。ついつい考え事をしようとすると手がこいつに伸びちまう」

「……ケホッ。これくらい何ともない」

「全く。見上げた小僧だな。……名前を聞かせろよ」

「アポロ」

「名字は……って、ヘルメトスはそうだったな」

 

 ホエルは一人納得して頷いている。ヘルメトスの島民の多くは名字を持たないということを思い出したのだろう。


「あんたは……ヘルメトスの人じゃないのか?」

「ああ。俺の名前はホエル・ファーリス。王都ノリアで武器職人をやっている。芸術の島ってのに興味を持って数年前にヘルメトスを訪れたんだが、その時に姫に気に入られちまってな。王都に連れてけってしつこくせがまれて、渋々今回の旅を計画したのさ」

 

 鍛えられた身体と分厚い手。簡単に使ってみせた火の魔法。武器職人と聞いて、全てに納得がいった。

 

 改めて、自分の倍以上の背丈を持つ男の姿をまじまじと見つめる。アポロにとってホエルは、初めてまともに会話する島外の人間だった。

 そうしていると、相手もまたアポロの様子を注意深く観察している事に気がついた。


「……何?」

「いや、お前のその細っこい身体でできる船の仕事って何だろうなと思ってな。湖や川を走る船の運用もかなりきついと聞くが、俺たちが乗っている飛空挺は、そのさらに上をいく。屈強な人間でなければすぐに音を上げてしまうらしい。疲労で足がもつれて空に転落した奴もいるんだとよ」

 

 ホエルは語りながら片腕を欄干に乗せた。彼の視線に導かれるように、アポロも船体の外をのぞき込む。魔霧に覆われていてほとんど見えないが、近くに水や地面が存在しないのは明らかだ。

 

 本を読んで得た知識によると、この霧の向こうの遙か下に、太古の大災害で一切の生物が暮らすことができなくなった大地があるという。

 

 当時を生きた魔術師達は人類を生存させるため、災害に犯されていない土地を切り取って空に浮かべた。現在の人々はそうしてできた浮島に街を築いて暮らしている。島同士を行き来するために生み出された乗り物の一つが、飛空挺だ。

 

 船体のほとんどは帆船と似た構造だが、マストの先に帆が張られておらず、代わりに布でできた巨大な風船のような部位が接続されている。飛空挺はその風船によって発生する浮力と魔法の力によって空を移動するのだ。ホエルの言う通り、その運用は極めて難易度が高く、優れた魔術師、経験豊富な船乗りが揃っていなければ、まともに浮くことすらできない。

 

 底の見えない景色を見ていて少し不安になったアポロは、思わずホエルの顔を見上げた。


「死に目に会わないといいけどな」

 不穏な事を言いつつ、職人は楽しそうににやりと笑った。


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