異世界のジャンヌダルク
「シャローナ姫様、こちらにおられましたか」
岩だらけの海岸に一人佇む女性を見つけ、右目にだけ眼帯を付けた男は安堵の声を漏らした。
装飾のない簡素な造りの白いワンピースを身につけた女性はゆっくりと振り返り、男を軽く一瞥する。
「その名で呼ぶな。『シャローナ』はあそこに置いてきた」
そう言って彼女が視線を向けた先には城がある。
崖の上に優雅にそびえる、ウォルダン城が。
見る者を圧倒する壮麗な城にコルマード軍が攻め込んできたのはわずか三日前だ。
たったの三日でウォルダン城は炎と黒煙に呑まれ、今にも崩れ落ちそうな有様になっている。
「お前には視えていたのだろう?」
責め立てるような彼女の口調に、男は曖昧な返事をした。
彼の眼帯の下の右目には未来を見る能力がある。
この光景も、例外ではない。
「悪い夢だと思いました」
「……だろうな。私だってまだ現実と思えないでいるんだ」
狭い崖を登った先にある、難攻不落とまで言われたウォルダン城がこうもあっけなく陥落するとは。
「父上も大臣たちも、私だって平和ボケしていたのだよ」
「せめて予見をした時点でご報告していれば……」
「いや、報告を受けたとてお前の世迷言と流されて終わりであったろう」
風が白いワンピースの裾を激しく揺らしている。
ここへもじきにコルマード軍がやってくることだろう。
「姫様、そろそろ行きましょう。敵から奪った馬をあちらへ繋いであります」
男に促され、名残惜しそうに城を見上げていた彼女も歩き出した。
「この海の向こうにお前の故郷はあるのか?」
「さあ、わかりません。気が付いたらウォルダン城下の森にいましたので」
男の脳裏に過去の記憶が浮かぶ。
生活苦から逃げるようにビルの屋上から飛んだこと。地面に叩きつけられたにしては柔らかい感覚と見知らぬ景色。
いわゆる「異世界転生」というものだったのだろう。
この世界に流されてきて、男は初めて未来を視る能力を手に入れた。
それを上手く活かせないまま、勇者になどなれないままに彼を取り巻く状況は目まぐるしく変わっていく。
男はただ、身元も知れぬ自分を家臣として迎え入れてくれた姫への忠誠を果たすことだけを考えていた。
「どうだ、お前の故郷の……ジャンヌとか言ったか。かの高名な女剣士に見えるか?」
馬に跨った姫が横目で視線を送ってきた。
何気なく話した元の世界の話を彼女が覚えていたことに驚きながら、男は賛美の言葉を口にする。
「ええ。まるでジャンヌダルク本人を見ているかのような気分です」
姫としての身分を捨て、長く美しかった髪も切り平民のような服を身にやつしても、彼女の生まれ持った威厳は消えていなかった。
ジャンヌダルクと同じ時代に生きていたら、同じ印象を抱いていただろうか。
「しばらくはコルマードの連中から逃れるために旅をするのだろう? ならばついでにお前の故郷を探すのも良いと思わぬか?」
「姫様、何を……」
「見てみたいのだよ。お前がいたという、機械仕掛けの世界を」
憧れるほど素晴らしい世界ではないと思う反面、懐かしさもこみ上げてくる。
この世界に高い建物はほとんどないから、高層ビル群を見たら姫はきっと呆気にとられるだろう。
「もうここへは来ないと思うと寂しくなるな」
男は最後に眼帯をすこしだけずらして海辺を見遣る。
「姫様、安心してください。私には視えました。五年後か十年後か……いずれ姫様はここへ戻って来られます」
「そうか。私は一人か?」
「いいえ、傍らには男が一人。そして、姫様の腕の中にはお子様が」
「そうかそうか」
姫の声が晴れたのを聞き、男は唇を噛んだ。
彼女の傍らにいた男。それは思い違いでなければコルマード国王だった。
コルマード国王に肩を抱かれ赤子を抱く姫の目からは生気が消え、空虚に景色を反射させるばかり。
どういう経緯を辿ってそうなるのかまでは男には視えない。
ただ、その景色を実現させることのないよう男は馬を走らせた。