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加耶と駅で別れ、自宅に着いたときには十二時を回っていた。祝日とはいえ、香奈枝も仕事があるだろう。家は空けているはずだと思った。
玄関の取っ手を握ると、じんわりと手汗が噴き出すのを感じた。一度ズボンで拭いて戸を引けば、玄関には香奈枝のいつも使っている靴が置かれていた。怒られるだろうか。一瞬そんな予感もした。しかし、ここまで来てしまえばどうすることもできない。怒られるか怒られないかそのどちらかしかないのだ。
決断力は早い方だ。逃れられない壁には早めにぶち当たっといた方がいい。散々彷徨った挙句、最後の最後で壁になど当たりたくない。戸を開けた勢いのまま靴を脱ぎ家の中にあがる。居間に入る引き戸をガラガラと開けると、ソファに寝そべっている香奈枝がいた。
「今日休み?」徹が話しかけるとうつ伏せだった香奈枝はゆっくりと顔を上げる。これは……この緊張感が肚を走る感じは……多分怒られるやつだ。数年前まで怒られることの多かった徹は瞬時に理解した。香奈枝の表情、纏った雰囲気が普通じゃないと感じさせる。
「香奈枝、化粧変えた?」
咄嗟に頓珍漢な質問をしてみる。
「あ、嘘、わかるの?」
「あーやっぱり変えたんだ。なんか雰囲気がいつもと違うと思った。いい感じじゃん」
いい感じに話を逸らして場の雰囲気を変えたつもりだったが、次の言葉に詰まり、沈黙ができてしまった。こういうときの沈黙は本来進むはずだった話題を思い出させる時間を与えてしまう。やばい、とは思いつつも次の言葉が出てこず、口をもごもごさせ、開けては閉じてと繰り返してしまう。
「朝帰りなんて生意気じゃない」
沈黙を破ったのは香奈枝の言葉だった。ああ怒られるのか、そう思ったが、香奈枝が徹に見せた表情は思ったよりも柔らかかった。
「ごめん。連絡するの忘れてた。日帰りだと思ってたんだけど泊りだったみたい」
「彼女?」香奈枝は読んでいた小説をラックの上に置きながら問う。
「……そう」
彼女がいることを別に隠すつもりはなかった。聞かれなかったから言わなかったに過ぎない。とはいえ自分からは言いづらいというのも徹の中にはあった。それは、前に加耶も言っていた家族で恋愛の話がしづらい雰囲気があるというのと一緒だった。
「なんだ。それならそうと最初から言ってくれればいいのに」
香奈枝は立ち上がって徹の頭をポンポンと叩いた。
「怒らないの?」
「彼女のためなんでしょ?」
すべてを見透かしたように香奈枝は笑う。
でもきっと徹のことを気遣って声をかけてくれているだけで、本音は怒りたいだろう。
「仕事あるから行ってくるね。ご飯食べてないんだったら冷蔵庫に昨日の残り入ってるから」
香奈枝はそれだけ言い残して家を出て行った。
怒られると身構えていただけに香奈枝の態度は拍子抜けするものだった。小学生の頃、夕方の五時に帰ってくると約束しておきながら五時半に帰ってきただけでこっぴどく怒られたことがあった。それを考えると本当に拍子抜けする。
香奈枝は仕事があったが徹の帰りを待っていたのだろう。
香奈枝はそれを口にしなかった。
怒られずに済んだ安堵感と、香奈枝に気を使わせてしまったという申し訳なさの両方が、胸の奥でじんわりと込み上げていた。
最近、徹は自分のことがよくわからなくなっていた。




