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期待した分だけ損をする。期待した分だけ裏切られる。期待した対象が思ったほか価値のないものだと思えた瞬間は、誰しも「こんなものか」と落胆する。その落胆の期間は人それぞれまちまちで、落胆の期間を超えて数日もしないうちに、人は懲りずにまた期待を抱こうとする。
徹はその一人だった。性行為に対して興味がなかったと言えば嘘になる。関心があったから行為に及んだ。しかし思った以上に端的とした行動の繰り返しでもあった。腿の裏が疲れる。股関節が固いせいか内腿が張っている。その疲労を顧みてまでする行為なのだろうかと思ってしまう。
しかし、この疲労が消え、数週間もすればきっとまた行為に及びたいという性欲が現れ、「恋人」という対象が自分の身近にちらついているとなれば、男にしてみれば性的興奮を煽られているようなものだ。行為後の疲労なんて顧みずに再び恍惚への期待を抱いて、性欲を満たすことになるのだろう。
湯船に張ったお湯の中で二人、何とも言えない空気感だった。それもそのはず。加耶は女子中学生だ。不安、恐怖、初めてのことに戸惑いもあるのだろう。彼女にも性行為への好奇心は多少なりとも頭の隅にあったはず。付き合うとなればこれから先、するのかもしれないという予想も少しぐらいはついていただろう。だから余計戸惑ったのかもしれない。
腿の上に座る加耶の背中。薄っすらと背骨が透けている。肌は見るだけで綺麗と思わせられる滑らかさ。
彼女の首の前に腕を回して抱き寄せてみる。どんな反応をするだろうか。
反応はなかった。「やめて」とも「ありがとう」とも好意的な言葉も批判的な言葉もなかった。
急に不安になった。彼女が何を感じているのかとわからなくなった途端に、「やめて」と「ありがとう」の両方が徹の頭を襲ってくる。好意的に捉えてくれているかもしれない、でも本当はやめてほしいと我慢しているのかもしれない。その両方の想像ができてしまうから急にやるせなくなって腕をほどいた。
「なんかライブって思った以上に楽しいね。小さい頃は楽しいとか思って行ってたわけじゃなかったけど、成長してから行ってみるとめっちゃ楽しかった! また行くときあったら誘ってよ。あ、俺が誘っちゃうかもしれない。まあどっちでもいいや。また一緒にライブ行こうよ。加耶もライブ楽しかったでしょ?」
加耶は首を回して振り返り、「楽しかった。私もまた行きたい」と言う。
「おお! じゃあ行こうね! 約束!」徹は小指を差し出す。加耶がこれはなんだというような目つきで見ていたため、「ああごめんごめん。うちの母さんってすぐ指切りげんまんしたくなっちゃう人でさ、何か約束するときってこの歳になっても未だにやるんだよね。だからほら、加耶もいっしょにやろうよ」
小指と小指が絡まる。「ゆーびきーりげんまん、って加耶も一緒に言ってよー。恥ずかしいじゃん」
加耶が笑う。
二人の掛け声が風呂場にこだまする。
「『ゆび切った!』」
「徹くんって面白いよね」
「そ、そうかな」首を傾げて苦笑う。褒められるのは得意ではない。ただ、二人だけの他に誰もいないこの浴室で褒められる分には幾分嬉しいものだった。
「うん、面白い。正直、さっきの徹くんちょっと怖かったんだ。やっぱり徹くんは徹くんだよね。なんか安心しちゃった。これからもよろしくね」
加耶の笑顔が帰ってきた。
その笑顔に徹は安心する。
笑顔だけだ。
安心したのは。
彼女の言った言葉に引っかかる節があり、「こちらこそ!」と満面の笑みで加耶の背中に抱き着くその仮面の裏側で、得体のしれない何かが蠢いている。身体が透けていく。内側で蔓延るそれが、効果的な影響を及ぼす細菌にも悪影響を及ぼす細菌にも思えた。
今はまだわからない。
「出ようか」表情と声音が相まっていない。
徹はポツリと呟いて二人は湯船から出た。
*
翌朝、眠りについたのが夜更けだったということもあり、二人が目を覚ましたのは九時過ぎだった。とりあえずチェックアウトしなければならないということで、身支度を整え荷物を持ってホテルを出た。
飯でも食うかということになり、駅近くのファミレスに入った。学校にいるときと同じように会話が続いた。
ファミレスを出た後はそのまま上野駅に向かった。切符を買ってちょうどよくホームに入ってきた新幹線に乗り込む。席は空いていた。
加耶はまだ眠り足りなかったようで車内ではずっと寝ていた。その隣で徹は無言で座っている。
徹は普通の毎日を望んでいたはずだ。何気ない毎日。朝家を出て、自転車に乗って、顔に当たる風が心地よいと偶に我に返って思うくらいで、風が顔に当たっていることを忘れてしまったような普通の日常。いいこともない、嬉しいこともない。でも不幸や面倒事もない。そんなありふれた普通で何の変哲もない毎日。これを愛して望んでいたはずだ。
昨日、徹は夢を見たのかもしれない。あんなに好奇心を抱いたのは初めてだっただろう。何も望んでいなかった徹。望んでいたのはありふれた何の変哲もない毎日だけ。普通でいい。それだけが徹の望みだった。
しかし昨日、徹は普通以外のことを望んだ。突如として芽生えた好奇心によって、訳も分からず加耶のすべてを知りたくなった。恋愛を知りたくなった。彼女の身体を知りたくなった。人類が最初から今に至るまでずっと行い続けてきた愛情表現を知りたくなった。快楽が来ると知っていてそれを体感してみたくなった。結果手にしたのは、なんということもない空虚感。こんなものかという落胆。好奇心が大きすぎただけに落胆の落差も大きかった。
どうしちまったんだ俺は……。徹は頭を抱えた。どうしてこうなった。どこから道を違えたのだ。あれか。加耶の告白を受け入れたからか? いいや違う。あの時点で異常な好奇心など自分の中にはなかった。明日からも普通だ普通だと宥めていたくらいなのだから。
だとすればあとは……。
そのとき、ぽんっぽんっ、という無様な音が耳に入ってきた。目線が動く。音のする方に徹は顔を向ける。通路を挟んだ向こう側の席から空のペットボトルが落ちたようだった。音はだんだんと間隔をなくして前の席の方へと転がっていった。
ぽんっぽんっ。
ぽんっぽんっ。
徹は無造作に頭を振った。
否が応に振った。
頭の中でペットボトルが跳ねて転がっているようだった。それも一本ではなく何本もだ。なんだこれは、五月蠅すぎる。髪をぐしゃぐしゃにし、手ぐしで何度も髪を握る。口が半開きになる。目尻に皴が寄る。
くそ……。
こういうときは寝るに限る。腹が痛いときも、熱で怠いときも、寝てしまえばなんてことはない。だからこれも寝れば消える。
徹は瞼を閉じた。暗闇の奥の方で薄っすらと音が鳴っている。意識したら駄目だ。遠のくのを待とう……そういえば香奈枝には日帰りだと伝えていた。心配しているだろうか。怒られる気もする――。




