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この話はフィクションです  作者: 面映唯
【クラウン】
7/29

 一度渋谷を出て上野に向かった。ニ十一時台の山手線の車内は満員電車というほど混んではいなかったが、渋谷から上野までの間はずっと立ちっぱなしだった。ライブハウスでもずっと立ちっぱなしだったのだ。疲れたかと思って「一回降りてホームの椅子に座る?」と声をかけても「ううん。大丈夫、ありがとう」そんな感じだった。


 ガタゴトと揺れる電車内。アナウンス、ドアの開く音、風が吹き込む音、ホームの雑音、扉が閉まる、消える。


 そんな繰り返しの電車内で、やっちまったかなーと、雰囲気から徹は省みていた。こういうのは約束を忘れていたから謝って元の空気に戻そうとしても、結局は変わらないのだ。「約束を忘れた」ことが相手に知られてしまった時点でことはすでに取り返しがつかない。


 すでに終電は消えた。今日中に田舎に帰る術はもうない。とりあえず今日は加耶が取ってくれたホテルで過ごすことになるだろう。というかまず、ホテル取ったって言ってたけど同じ部屋なわけ? それとも別々? いや付き合ってるんだよな。ってことを考慮すると同じ部屋?


 頭だけはすこぶる回転していた。なんて聞けばいいのだろう。同じ部屋? って普通に聞けばいいか。それとも別々の部屋だよね? って聞いてから加耶が同じ部屋だよって言って、ああそうなんだ、一緒に居られるねって――。


 よくわからん妄想が頭を占領しそうになったので、悩んだ末に普通に聞いた。「ホテルって同じ部屋、だよね」と。普通に言おうとしたがぎこちなくなってしまった。


「そうだよー。別の方がよかった?」

「いやいや、同じの方がいい。東京のよくわからんホテルにまで来て一人は寂しいし」

「寂しくなるんだ」

「そりゃまあ人並みに」

「私も寂しくなるよ」


 どうして? と聞けば会話も続いてよかったのだろう。でもどうしてかその続きが聞きたくないような気がして、喉から出かかった言葉を飲み込んだ。


「寂しくなったら二人でまた東京くればいいよ」


 そんな言葉でしか彼女の機嫌を取ることができなかった。機嫌が取れているのかどうかもわからなかった。




 一度ホテルに行きチェックインを取った。どこにでもありそうなありふれたビジネスホテルだった。ロビーは少し小奇麗で、一般家庭では見ないようなソファ、木目のついたニス塗りの長テーブル。印象としてはそれくらいだった。


 部屋の鍵はオートロックになっていた。さすが東京だ。ロビーでもらったカードをかざすと鍵が開く仕組み。現代は田舎の人間が思っている以上に発達している。


 部屋の内装はいたって普通だった。入ってすぐの左側にユニットバス、右側にクローゼット、奥に熱いベージュのカーテン。ベッドはセミダブル。ベッドの向かい側に簡素な机と置き鏡がある。


 ベッドに荷物を放り投げると、財布だけ持って二人で部屋を出た。ホテルを出てすぐ正面にあるコンビニに入る。「夕飯どっかに入る?」と聞けば、「なんかちょっと」と言ったのでコンビニになった。


 徹がミートドリアを、加耶はペペロンチーノを籠に入れ、ドリンクを入れ、スナックを入れ、あれもこれもと籠に入れていたらあっという間に籠がいっぱいになった。レジの店員に申し訳ないなあと思ったが、品数が多くても顔色を変えずに手早く作業をこなしていた。


 二人で両手いっぱいにビニール袋をぶら下げ、ホテルに戻った。ロビーに立っていたホテルの人が軽く会釈していた。少し恥ずかしくなる。


 部屋に戻ると徹も加耶もベッドに座り込んでしまった。考えてみればそれもそのはずだ。新幹線を降りて以降、ライブハウスでも電車でもずっと立ちっぱなしだったのだ。さすがに疲れる。


「疲れたね」

「ああ。でも楽しいときって大体疲れるじゃん。こんなもんでしょ」

「そうでもなくない? 楽しいときは楽しかった、で終わるよ」

「今疲れたって言わなかったっけ?」

「あれ、おかしいな」加耶はとぼけ面。

「まあそんなこといいから冷めないうちに食べちゃおう。腹減った」


 ベッドが汚れることなどお構いなしに、買ってきた食品をシーツの上に広げた。腹が満たされたのかいつの間にか加耶の機嫌も直っていて、声の大きさなんて気にせずに話した。ライブの話から始まり、学校のこと、放課後でしゃべること、世間話。テレビの電源は落ちていて、テレビなんかいらないくらい話が無限に続いていきそうで、スナックをつまみながらそんな話をしていたらなんとなく眠くなってきて、シャワー浴びるかって話になって、どっちから入るかってなって――。


「ねえ、今日の帰りの話覚えてる?」

「帰り?」

「私と徹くんが二人揃って用事あって先に帰るって言ったら、教室出たときに聴こえたでしょ?」

「ああ、付き合ってるってのがばれてるかもしれないって話か」

「……みんなもう知ってるのかな?」

「加耶は嫌なの? 知られるの」

「いや、そういうわけじゃないんだけど……」


 何か言いたそうな顔に見えたのはきっと気のせいだ。空になったスナック菓子のビニールがシーツの上に散らばっている。華やかなパッケージの裏は変哲のない銀色。油がべっとりとついていて、スナックの細かいかすが残っている。あろうことか普通だったら綺麗であってほしいベッドのシーツの上にも零れている。そんなシーツの上で加耶はうつ伏せに寝ころんでいた。


 何か言いたいことがあるならはっきり言えばいいのに。そう思ってしまうのは徹の悪い癖だった。人それぞれ言いたいこともあれば言いたくないこともあるし、いろいろ個人の抱える事情や状況で言える言えないがあるのだ。わかっている。わかっているのだ。誰にだって人には言い辛いことの一つや二つあるのもわかっている。もちろん徹にだってあった。


 自分は言い辛いことを言わないくせに、他人には言ってほしい。全部知りたい。

 俺のことなんか気を使わないでいいのに。

 この感情はどう説明すればいいのだろう。


 人は矛盾を抱えている。

 なのに、解答欄は一枠しかない。


 やるせなくなる。

 どちらかを諦めなければならないのに、どちらにも利点も難点も備わっている。


 迷う理由はいつも、誰かの決めた正当な概念に惑わされるからだった。


 ――。


「なあ加耶」

「ん?」

「加耶は今何考えてる?」

「え、今? えっと、何だろう……」

「俺はね、加耶の裸を想像してるよ」


 どうして……こんなことを口にできてしまったのか。


 スッとオーロラのように徹の目前に流れたのは、透明なカーテンが風に吹かれたときのようなヒダの動きだった。そのカーテンは元からそこにあったのだろうか。閉じていたものが開いたのか。開いていたものが閉じたのか。それとも今しがたカーテンが現れたのだろうか。現れたカーテンは開いたのだろうか。それとも徹と加耶の間を遮るように線が引かれてしまったのだろうか。


 答えなんて何一つわからなかった。想像できるのは彼女がこう考えているかもしれないといういくつかの予想。は? 何お前きもい――そんな声が聞こえる。え、嘘? 何この気持ち――加耶の心の声が聞こえる。どうすればいいんだろう――それは加耶が決めること。ここで拒んだら嫌われちゃうかな――。


 透明なカーテンの向こう側に見えたのは鏡だった。

 確かに自分の姿が映っている。加耶がいるはずの場所には自分がいる。


 鏡。

 鑑。


 俺の基準でいいのか……。


 そっと手を伸ばして忍ばせた先は、想像していた感触とは違った。ただ何かに触れている。別にこれがどの部分であろうと変わらないんだ。腕だろうと脚だろうと腹だろうと変わらない。そう彼女の胸が訴えかけてきているようだった。


 嫌がるそぶりを見せなかったことで、徹はこの先に進んでもいいと解釈したのだろう。加耶の胸を触っても何も感じなかったとはいえ、これでも好奇心はある方だった。数学は好きではないが歴史は好きだった。時代ごとに、偉人ごとに、時代や彼らが残した功績を探っていく感覚。あれと等しいもの。徹は、加耶のことを自分の手でリアルに探ろうとしていた。


 ベッドに仰向けになった彼女の脇腹辺りに膝をつき、ルームライトの光を隠すように顔を覗き込んだ。顔に影ができる。澄んだ瞳の奥に微かな白い点が。睫毛の長さが淫靡な仄かさを漂わせる。赤黒くなった唇にそっと近づいていった。縦にざらつきのある感触。その奥へと、頭が、胸が、好奇心が唸りをあげている。


「舌入れていい?」


 返事はなかった。顔を逸らすそぶりも、抵抗しようと身体を動かすこともなかった。口を開かないことは気にくわなかったが、高ぶった好奇心を逆なでするようなことはなくてよかった。もう一度唇を重ね、舌先で唇の間を割いた。舌先が触れる。ざらつく。側面。頬の裏。舌の下、歯茎に沿って動かしてみる……。


 見当違いだった。


 熱を持っていた身体が急速に冷えていくようだった。

 期待していた自分が馬鹿みたいだった。世の男はこんなことをして快楽に溺れようとしているのが馬鹿らしく思えた。金を払ってまでこんなことに溺れようとは考えられない、それが率直な感想だった。


 加耶の口から小さく声が漏れていた。


 多分、それが徹の心を(まさぐ)ったのだろう。


 今度は確認するまでもなく彼女のジーンズの中に手を伸ばした。さすがに「まって……」と聞こえたがここまで来て待つも待たないもない。


 ねっとりとした湿り気が何かを訴えている。

 頭の中で何かを訴えている。


 もっと。

 もっと。


 もっと奥へ行け。

 もっと奥へ進めよ。


 股座(またぐら)の中に指を刺してみろ。そこはまだ未知の世界だ。


 隙間から指を忍ばせると、微かな陰毛の感触を確かに感じ取る。その間をと、かき分けるように指を伸ばす。愛液で溢れたそこは、そこだけが、


 徹の好奇心を煽った。


 指を奥に入れ、出し入れするたびにいやらしい音が聞こえてくる。そのたびに卑猥な声が漏れる。


 徹は悟った。


 これは触っていることに快感を得ているのではない。


 触られている人間の快感に快感を得ているのだと。


 好奇心は先へ先へと徹の背中を押す――。


 気づいたら何かに憑りつかれていた。これはきっと今までに感じたことのなかったもの。香奈枝と二人で暮らしていても感じなかったもの。中学に登校して女の姿を見ても感じなかったもの。大人数のいる場所では感じられなかったもの。面倒を毛嫌いして普通を愛していては知ることができなかったもの。


 彼女に恋をした。


 そんな簡単な言葉で片づけられる現代は相当厄介だ。


 徹はきっと恋なんかしていない。でもこれは世間で言う恋というやつだ。お前だったから、加耶だったからこんなことをしている。香奈枝と二人きりではこんなことしようなんて夢にも思わない。なのに、徹は今加耶に男のエゴを押し付けている。優しさの欠片なんてどこにもない。粗探しみたいに探しても見当たらない。無理にでっち上げようとしても、なにもない。好奇心だ。好奇心だ。好奇心。そう。好奇心。


 どこかの恋人同士が夜な夜な同じ寝床の布団に潜り込んで、肌を密着させ、同衾(どうきん)接吻(せっぷん)、互いの想いを確認し合う。これはそんな恋愛だとか愛情だとか美しいものではない。


 直感でわかった。普通に生きていては直感することもなかっただろう。今、こういう状況に置かれたことで直感したのだろう。


 身の毛が小刻みに震えている。


 先天的に植え付けられている記憶が、ゲノムを、細胞を伝って徹の全身に語り掛けていた。『これは色恋でも信頼関係が生む愛情表現でもなんでもない。もっと陳腐(ちんぷ)なものだ』と。


「嫌……じゃない?」


 眉根を傾けて徹は訊いた。「わかんない。でも、嫌ではない」


 吐息交じりに呟いた加耶の声が、脳にじんわりと溶けていく。そうか、嫌じゃないのか。嫌だと言ってくれればよかったのに。あんたは俺のことを受け入れてくれるのか。だったら俺も精一杯答えなければ。


 ベッドがギシギシと音を立てる。腹の下にいるあなたは枕の端を必死に握っている。


 ――いやではない――いやではない、とさっきの言葉が脳内で反芻(はんすう)される。反響する。徹はこの先どうなるのだろうかと好奇心に駆られていた。避妊具の有無によって何かが変わってしまうのだろうか。いや、それごときで変わるはずがないだろう。あってもなくても同じ。そう思っていた過去の自分を今、払拭(ふっしょく)しようと好奇心が頂点に達そうとしている。


 この先が知りたい。この先が知りたい。


 (うれ)いを帯びた顔にも見えた。その彼女の顔と、徹の好奇心と、天秤にかけたときに圧倒的に傾いたのはどちらだっただろうか。


 ビジネスホテルの一室。徹の耳には聴こえている。響く布団をはたきつける音、ライブハウスで聴いたアンコール前の客衆の間隔の長い拍手、ぱちぱちと弾ける炭酸の音。ガキの頃に食べた綿菓子の中に混ざった小さなキャンディーは、口の中に入れると舌の上でパチパチと跳ねて音を立てた。


 アンコールに応えたシンガーソングライターが手を挙げて壇上に姿を現した。客衆の拍手が間隔を狭める。ぱちぱちぱちぱちと連続している。


 徹がライブハウスに来るべきでないと感じ取った理由。おじさんが『客衆を見に来たって言うのに』と呟いた理由。


 壇上に現れたアーティストが口を開こうとしている。口を開いたと同時に客衆の拍手は忽然(こつぜん)と鳴りやんだ――。


 ――恍惚(こうこつ)が過去になった。過去が、気怠(きだる)さと「こんなものか」というアパテイアを持ってきた瞬間だった。


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