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帰りのホームルームが終わると部活動に所属している生徒はぱっぱと教室を出て行く。帰るだけとなった帰宅部の連中は、自然と教室の誰かの机の周りに集まってきて、時には離れた机同士から声を投げかけあって話す。これが日常だ。
「ごめん今日は用事あるんだ」
徹が断ると「なんだつまんねーのー。また明日な」「明後日の間違いな」「そうか、明日祝日だっけ」とこんなやり取り。加耶は加耶で仲のいい女子生徒に「私も用事あって」と伝えていた。なんとなく彼らも気づいたのだろう。いつもだったらもう少し話していこうよとか止めに入るのに、今日はあっさりとさよならをした。
徹と加耶が教室を出てすぐ、薄っすらと「あの二人もうできてんな」「明後日が楽しみだ。徹が男になった姿をしかと見てやる」なんて聞こえてくる。二人で一緒に歩くのが少し気まずくなった。
「みんなもう知ってるのかな」
「薄々って感じじゃない? あんまり注目されるのは好きじゃないけど」
「徹はさ……そういうことしたい人?」
「そういうことって?」
徹も愚かな奴だ。わかっていて女の子に聞くとは意地が悪い。
校門で一度別れて、家で着替えてから再び駅で待ち合わせということになった。徹は、家に帰って着古しのシャツとジーンズに履き替え、リュックに財布やら家の鍵やらをぶち込んだ。香奈枝は今日休暇だったようで、一日家にいたようだ。居間のソファに寝ころびながら小説を読んでいた。
「んじゃ行ってくる」
「気をつけてねー」
事前に東京でライブを見るということは伝えてあった。友達に誘われたと言えば、「へえー友達ねえー」なんて嫌味ったらしく言ってきた。元々徹に小遣いはないに等しい。その代わり遊ぶときは香奈枝に言えばいくらか貰えた。今回も頼めば「いいよ。楽しんでらっしゃい」とお札を二枚渡された。多分、他の家だったらこうはいかないだろう。そもそも中学生を一人で東京に行かすなんて親は心配になりそうなものだ。
徹は自分のことを信用してくれていると思うことにした。まだ中学二年だが、世の中のやってはいけないこととやっていいことの区別ぐらいは心得ているつもりだし、それにもし仮にやってはいけないことをすれば、香奈枝を怒らせることになるのも知っている。それは香奈枝自身もわかっていることだろう。加味したうえでの「いってよし」だ。
自転車で駅まで行くと、加耶は改札の前に立っていた。彼女も徹と似たような服装で、Tシャツにデニムのジーンズ姿だった。
「なんか新鮮。普段ジャージしか見てないからかな」
二人は切符を買って新幹線に乗り込んだ。
「加耶って新幹線乗ったことある?」
「いや初めてかも」
田舎の中学生だ。それもそうだろう。
初めてだとあちこち眺めたり歩いてみたくなったり、ドリンクのホルダーなどをいじりたくなるものだと思っていたが、案外加耶は冷静だった。同じ号車内で話している人の声は聴こえなかったが、徹たちは気にすることなく会話していた。主に加耶が話していただけなのだが。
そんなこんなで二時間も新幹線に乗っていればあっという間に上野に着いてしまった。長いゆっくりとしたエスカレーターを何度か折り返し、改札を抜ける。
「これ二枚一緒に入れるんだっけ?」
「そう」
焦ることもなく心配することもなく、はしゃぐこともなく、なんとなく流れる時間。隣にいるのは私服姿の加耶。場所は上野の駅構内。場所と服装が変わっただけで、何ら変わりない日常。
徹は自分の隣にいるのが加耶でなんとなくよかったなと思った。
上野から山手線に乗って渋谷へ。時間も時間だったことから満員電車だった。久々の満員電車だった。小学校の頃は背が小さかったこともあり、大人たちの脚の間の隙間におさまっていたが、体は成長してしまったようで、徹にとっても初めての息苦しい満員電車となった。
さすがの加耶も満員電車には驚いたようだ。「こんなに人とくっつくの?」「これが普通なの?」と言いたげな表情。ぎゅうぎゅうに大人たちに押しつぶされる中、耳元で「反対側のドアから降りることになったらどうする?」と囁かれる。ちゃんと自分の降りたい駅で降りられるのか心配になったのだろう。説明するのも面倒だったので「大丈夫だよ」と一言加耶の耳元に囁き返して彼女の右の手を握った。
『満員電車で降りるときは躊躇するな』
昔、香奈枝に言われたことだ。乗るときは押し込んでまで無理して乗らなくてもいいが、降りるときは前に立っている人に声をかけながら躊躇なく、でも優しく押せって言われたっけ。
しかし、いざ目的の駅についてしまえばなんてことはなかった。車内の大半の人がその駅で降りるため、人と人の間をすり抜けることもなく、人の流れに乗って吐き出されるように降りることとなった。
大勢の人が階段を下っていく。
改札口に出る人と入る人との波が混ざってぶつかっている。
徹は加耶の手を引っ張った。
切符はすんなりと改札機に吸い込まれていった。
緑色の機械から顔を上げればそこには異世界が広がっていた。
人の数。
端々から聞こえるテレビの甲高い声。
金や緑の頭。
ピアス。化粧。スーツ。ドレス?
そのどれもに驚いたのだろう。初めて遊園地に行ったとき。初めてディズニーランドに行ったとき。あの興奮と同じなのだ。ここはテーマパークでも何でもない渋谷区というただの街に過ぎないのに。
「なんか、すごい」
そう呟きながら、繋がれた手の中で握りなおすように何度も指を動かす仕草は、徹にとって新鮮だった。
道玄坂をまっすぐに上り、見えてきたファミリーマートを右に曲がった。右に曲がるとすぐに漂ってきた空気感で、以前もここに来たことがあったなと思い出す。小さな坂を上って両サイドに建つ低いビル。あたりが暗くなっているため余計に目が入る。ライトで装飾された看板。こんなところにあるライブハウスなんて忘れるはずもない。
オークレストに着くと、すでに人だかりができていた。イーストやウェストでもライブをやっているのだろう。クレストの入り口だけ記憶が定かではなかったため、迷ってしまった。入り口が分かりにくかったという記憶が残っているだけで、何処に入口があるのかわからない。近くに居酒屋があった気がする。入口の隣に急な坂があった気がする。その程度の記憶でライブハウス群周辺を、加耶の手を引きながら歩き回った。加耶は加耶で家で調べてきたものを頭に覚えていたみたいだ。しかし、暗闇となってしまえば印象も変わるみたいで、結局徹頼みとなった。こんなときに携帯があればなあと電車内やそこかしこで歩きながら手にしている人々の姿を見て思っていた。
見つけたときにはすでに開場されていたようだ。整理番号順に並んでいる最前列の人々と、後ろの方でまばらに散らばる人々とに分断されていた。
「番号は?」
「88と89」
「ああじゃあもう大丈夫じゃない? 前の列の人たち相当進んでるみたいだし」
途切れた列の隙間に二人は入った。
壁にチラシが張りたくられた狭い階段を上り、六百円を紙切れに変え、チケットの半券を切られ、さてもうそこは小さな別世界だ。薄いブラックライトが階段二つ分くらい上に並べられている。楽器を照らしていて、奥の壁には大きなハートを抱えた髪型がパッチワークの角が生えた少年の絵。感傷に浸るまでもなく、ずっと立ちっぱなしだったが、早く開演しないかなと思うでもなく、時間は風のようにさらさらと吹いていった。
ライブは、彼らの叫びだった。
徹が普段部屋で一人耳にイヤホン入れて聴いている音楽は、徹個人の物だった。誰も邪魔できない徹だけの世界。その世界の中で歌手という名の演者が、音楽に乗せていろんなことを囁いてくれる。
でもライブは違った。
ライブは皆のものだった。
イヤホンからは聴こえてくるはずのない歓声が聴こえて、自分の部屋の景色ではなく、大勢の観客が手を挙げて楽しむ姿が目に映る。目前の観客が手を大きく前に挙げて揺れている。被ってアーティストの顔が見え隠れする。
ここは楽しむ場所だ。音楽を聴くところではない。
なんて昔も思った気がする。ガキの頃おじさんに肩車してもらって見下ろした景色は滑稽なものだった。一人のアーティストに向かって観客全員がそちらに目を向けているのだ。熱意を向けているのだ。それはアーティスト自身も然り。観客に向かって歌っている。完全な相互作用。
……今でも思い出せる。おじさんの肩の上から見た景色は、確かに滑稽ではあったが美しいものでもあった。だが、俺は、俺だけはここに居てはいけない人だってなんとなく思った記憶があった。当時はなんとなく思っただけだったが、今ならわかる。自分は家で一人、自室に籠って音楽を聴いている側の人間だと。
加耶は隣で一人手を挙げて楽しそうにしていた。徹が腕を組んで昔のことを思い出しながら物思いに耽っている間も、彼女は浅間浩三というアーティストに夢中だった。
そういう何かに夢中になるとか夢中にさせる姿は、酷く羨ましいくらいに美しい光景だった。
ライブに来ているというのに曲そっちのけで徹はそんなことを考えている。いやちゃんと曲は聴いた。徹が好きな系統のアーティストだった。中でもアルバムの表題曲は、徹が死んだあと葬式で流してもいいんじゃないかと思ったぐらいだった。
だが、ライブはもういいやと思った。事実、家で聴いていればそれで満足な自分なのだから。
「楽しかったー」
加耶はグッズも買えてご満悦の様だった。
「終電無くなっちゃうから急ごう」
徹が少し足を速めたときだった。隣からふっと彼女がいなくなったような気がして振り返ると、数歩後ろで立ち止まった加耶の姿があった。
「何してんの。歩道狭いから後ろから歩いてくる人の迷惑になっちゃうよ」
駆け寄って加耶の手を引くと、あっさりと歩き出した。
道玄坂を下る。
グッズを手にしながら歩く、同じライブハウスにいただろう人たちが道を連ねている。
「ねえ、本当に覚えてないの?」
加耶が口を開いた。
「覚えてないって、何が?」
「明日休みじゃん」
明日何かあっただろうかと考える。明日遊ぶ約束でもしていたのを聞き逃していたのかもしれないと思う。
そのとき徹は一瞬、東京の街を加耶と二人で歩く姿を想像してしまった。
もしかして、泊りだったとか。
そんな約束を聞き逃すはずがないと思うのだが、かといって聞き逃してしまったという可能性も捨てきれない。実際、終電という言葉を口にした途端に彼女は足を止めたような気もする。
もしかして加耶はそこまで含めて楽しみにしていたのかもしれない。そう思うとだんだんと申し訳なさが込み上げてきた。そんな大事なことを聞き逃した自分を情けなく思う。
「ごめん全然違ったらいいんだけどさ、もしかして泊まる予定だったとか?」
加耶は小さく「うん」と呟き、頷いた。
「予約してある?」
「してある」
「じゃあ行くか! コンビニでお菓子買いあさって夜更かししよう!」
精一杯の無邪気さで、そして繋がれた手をもう一度強く握った。
繋がれた手がポップした。




