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この話はフィクションです  作者: 面映唯
【クラウン】
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「いってきまーす」

「いってらっしゃい」


 日常の中で当たり前のように交わされる言葉だった。玄関のドアを開けて、ベランダの下に置いてある自転車のサドルに(またが)り、ハンドルを掴めば自ずと時間は進んでいく。ペダルは回って、チェーンも回る。左右の確認もせずに大きく右に曲がって路上に出る。


 スピードに乗ってくると、風が顔面に当たる。前髪が後ろに持っていかれる。横髪が後ろに流れる。ペダルは回る回る。下り坂をシャーっと軽快に進む。


 そんな毎日繰り返している当たり前のことが、徹にとってはとても大事なことだった。偶に我に返ったときに「これは本当は当たり前じゃないんだ」と気が付けるからだった。するとなぜか安心してしまう。


 同じような毎日がつまらないと思う人も大勢いるだろうが、徹はそんな変わらない毎日が好きだった。安心できるのだ。心が休まるのだ。道端で見かけた黄色い花に癒されることもない。奥に見える南アルプスの山並みが萌えて、絵画みたいに綺麗だなあとも思わない。どこかで今日も世界から消えている他人の不幸を悲しむこともなければ、学校の友人に日々の鬱憤を投げつけ怒ることもない。怒るのってやっぱり疲れる。おまけに怒る側だけじゃなくて周りにまで負の雰囲気が伝染するのを知っている。


 だから何気ない毎日が好き。


 喜怒哀が欠けるのだ。ミニマリスト、ストレスフリーの生活。ふと我に返ったときに気が付ければそれでいい。毎日幸せだの人間関係だの気にして生きていたら体がもたない。


 徹はそれぐらいがちょうどいいと思っていた。人間のさまざまな感情は、感情表現の方法は、疲れるのだ。ちょっと友達と遊んでいいことがあっても、家に帰れば疲れてぐったりと眠りたくなる。疲れるくらいなら家にいてぐーたらしていた方が利口だ。


 何もないのが安寧なのだ。チャリンコを漕いで、顔面に風を受けながら何度も通っているこの通学路を走っている今、このときが、一番居心地がよかった。



 学校に着いて昇降口のロータリーに上がれば、ちょうど朝部活が終わったであろう生徒たちでごった返していた。指定ジャージ姿の生徒が溢れんばかりにいる。一年、二年、三年ごとに指定ジャージの色は違う。一年が青で、二年がグレー。三年は藍色だった。


 部活終わりの生徒たちが友人たちとくっちゃべりながら進む中、徹は一人、階段を上る。「今度の大会がさ――」前を歩く生徒の声に耳を傾ける。


 楽しそうだな。

 平和だ。


 今日もどこかで誰かは死んでいるというのに、「知らなかった」で済まされる世界はどうも効率的というか、融通の利いた世界だなあと思えてならなかった。お前の感じている平和の裏で、お前の感じた幸せの裏で、どこかでは戦争が起こっていて、どこかでは不幸を強いられている人がいる。そういうことを知らずにのうのうと暮らせているっていうのはとても素敵なことだ。世界中の皆がみんな口を揃えて「平和だ」「幸せだ」なんて呟くことなど絶対にありえないというのに、平和で、幸せで、それが素敵なことだと口に出して言える。


 それって平和でしょ?


 乳酸の溜まりかけた脚を怠そうに持ち上げ、二階の廊下に入ると生徒の服装はグレー一色になった。クラスのドアを開けるとすでに教室内は騒がしい声で溢れていた。


「おはよー」

「おはよ」


 自席に行くと隣の席にはすでに加耶が座っていた。


「ねえねえ聞いてよ。私の大好きな浅間(あさま)くんが――」


 徹は浅間くんそっちのけで昨日のことを思い出していた。加耶の顔を見ても、昨日のようなうざったい感情や苛々とした感情は生まれてこなかった。今は冷静に見られているということだろうか。彼女の唇が動く。目線が合ったり、逸れたり。


「ねえ聞いてる? 浅間浩三(こうぞう)、徹くんも知ってるでしょ?」

「ああ知ってるよ。加耶が教えてくれたんじゃん」

「そうだよー。大好きだもん。徹くんって中学来る前まで東京に住んでたんだよね?」

「ああ、まあ」

「じゃあさ……」


 加耶の視線が少し下がる。ロングの髪を耳にかける。


 目線が合う。


 どきっとする。


「一緒に行ってくれない?」

「あ? どこに?」

「えー今言ったじゃん。やっぱ話聞いてなかったな」

「聞いてたよ。ライブだろ。ワンマンがどうとかって……」

「どうとかってちゃんと聞いてないじゃなーい」

「言葉の綾だ。で、なんで俺と行くんだよ。一人で行けばいいじゃんか」

「いや、それはさ、だって私東京行ったことないから一人じゃ怖いし、それに……」


 それに何だよ、と言ってしまいたくなったが、まあわからなくもないと思って喉まで出かかった言葉を呑んで口をひっこめた。東京は一歩間違えれば田舎よりも怖いというのは事実だろう。行ったことのない世界に初めて足を踏み入れるのだ。一人くらい経験者を入れるのは登山やツーリングでも定番だろうし、何より安心できる。


 安心……。


 俺が安心できると思われているのか……。


 徹は、悪くないと思える感情を抱いた。単に東京に住んでいたことがあるからということだろうが、嫌な気分ではなかった。


「じゃあ行くか。俺も久々にライブの雰囲気味わいたいし」

「ほんと? 徹くんってライブよく行ってたの?」

「ああ。音楽が好きなんだよ。バンド系だけどラウンジとかウォンカとかカカシとかレルエとか、あとは女王蜂とか最近じゃマカロニえんぴつとか。小学校のときによくおじさんにくっついて行ってた」

「ええ嘘、そんなにバンド興味あったならもっと早く言ってよ! 私といるとき全然そんな話しないじゃない。もしかして浅間浩三も私が教える前から知ってた?」

「……まあ?」

「まあって何よ。ていうか小学生の頃からライブなんて行くんだね。羨ましいくらい。こんな田舎だとそうそういけないし」

「確かに。知り合いのおじさんに連れられてよくいってたんだよ。ガキだから安かったのもあるし」

「知り合いのおじさんはバンドやってる人とか?」

「あーー知らないな。でもなんかいつも言ってた言葉があったんだよな。あれ……なんだっけ?」


 加耶に視線を送ると「私が知るわけないでしょ」と一蹴された。


「じゃあ決まりね。来週の火曜空けといてね」

「あ、何、来週なの? それも平日? サボるわけ?」

「そうよ。大好きな人のためなら学校なんてサボります。それになんかみんなが勉強してるときに遊ぶのってちょっと楽しそうじゃん。って言いたいところだけどライブ自体は夜だから全然学校終わってからでも間に合う」

「帰ってこれんの?」


 そう聞くと加耶が一瞬躊躇ったように見えた。


「うん、大丈夫。私に任せて。チケットは当日に渡すね。あ、ちゃんとチケット代はもらうからね?」


 急に自信満々になった。それにチケットもとってあるし用意周到なこと。




 ――じゃあ行くか。


 なぜそんなことを徹は言ったのだろうか。


 何気ない何の変哲もないと思っていた毎日の角っこが、少し崩れ落ちた気がした。朝登校して、加耶とだべって、授業を受けてという毎日の角っこが崩れた。崩れた部分は柔くなっている。きっとそのままにしておけばそのうち大部分が崩れ落ちてしまうこと、所謂(いわゆる)、徹の最も嫌厭(けんえん)する、不幸、面倒、という事態になる恐れがあり得る。


 きっかけ。今ならまだ間に合う。加耶に「やっぱり来週の火曜無理になった」たったそれだけ伝えれば何の変哲もない毎日が崩れ去ることはない。確実にだ。何気ない、普通、そんな言葉が綺麗で大好きな徹だから、何の躊躇(ちゅうちょ)もなく言えるはずだと思っていた。


 横に座る加耶の顔は、前を向いたり、ノートを見たり。


 まあいいか、と思ってしまった。


「何。じろじろ見て。ブラでも覗いてた?」

「ジャージだろ。ワイシャツでもあるまい」


 きっと大丈夫な気がした。久々に味わう興奮だ。感心だ。この先に進むときっといいことがある。必ず自分のこの()(さら)な普通普通に満ち満ちた心を彩ってくれる。後悔するかもしれないなんて感情は一ミリもなかった。ただその先の不確かで、でも希望に溢れていて楽しそうなものに徹は手を伸ばした。


 今日も平和だ。どこかで戦争が起こっているともいざ知らず。


 希望を手にしている間は戦争も不幸も目には見えない。だから胸を張って言える。


「平和だ」と。


 ああ思い出した。ライブハウスに連れられるたびにおじさんが言っていた言葉。身長が低かった徹を肩車し、おじさんの頭を掴みながら聞いた言葉。


『こういう人たちはいいよな。自分の欲望を音楽と歌詞に乗せて浄化できてしまうから。俺は華やかなアーティストではなくて、アーティストに夢中になっている客衆を見に来たっていうのに』


 徹は手に持っていたペンをじっと眺める。


「えらく真面目じゃない、徹くん。いつもなら寝てるのに」


 加耶が茶化してくる。


「失礼な奴だな、あんたは」


 あのとき、おじさんの言葉について深くは考えなかった。それは今も同じだ。今も昔も、おじさんの言葉の意味は分からないままだった。


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