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この話はフィクションです  作者: 面映唯
【クラウン】
3/29

 アツアツの一番風呂にはいつも徹が先に入った。なんでも、香奈枝がテレビで見たとか何とかで、二番風呂の方が肌に優しいと聞いたからだそうだ。


 入浴剤の入っていない湯舟は、洗ったとはいえ小さなごみが浮遊しているのがよくみえた。すくって顔にパシャパシャとかけても、別に汚いと感じない。現代人はアルコールだ殺菌だなんてよく言うが、そんなに消毒ばかりするから免疫がつかないんじゃないかなんて思ったりする。


 中学入学と同時に都会から田舎に越してきて一年ちょっとだが、泥や虫には慣れた方だった。香奈枝の母、徹の祖母にあたる人が以前この家に住んでいたらしい。現在はこの近くの別の家に住んでいるようだが……。祖母はこの田舎で畑をやっていた。その畑を香奈枝は時折手入れしている。徹もよく手伝わされるのだ。虫はぶんぶん飛んでるわ、脚は汚れるわなんて繰り返していたらとっくに慣れてしまった。


 特に蛇口から出る水道水は新鮮だった。中学で蛇口を上向きにして水道水を飲んでいる生徒を見かけると、自分も、と飲みたくなった。水が飲みたいのではなくて、蛇口から出る水が飲みたいのだ。ミネラルウォーターではなくて、蛇口に自分の口を近づけてがぶがぶ飲む行為に好奇心を抱いたのだ。その恋自体が心地よいのだ。


 そんな風に蛇口を上にとはいかないが、風呂場の蛇口をひねって手ですくった水を口へと運ぶ。湯船に浸かっている身体が温かいせいか、喉から食道を通って水が進んでいくのがひんやりとしていてわかる。もう一度すくって顔にかけて蛇口を閉じた。


 湯船の渕に頭をのせ、天井を見上げる。張り付いた水滴と薄黒いカビのようなものを眺めた。

最近の香奈枝はちょっとおかしい気がした。まるで空回りしているようだった。今まで家庭で恋愛の話なんかタブーで、タブーというよりか恥ずかしくて言えない雰囲気があった。一緒にテレビを見ていたときに不意にお笑い芸人が下ネタを言えば、何とも言えぬ空気感になるものだ。それぐらい香奈枝と徹の間では疎遠な話題だっただけに香奈枝の口から彼女だ、結婚だ、なんてワードが出たのは、新鮮だったを通り越して不気味だ。何か香奈枝の身にあったのではないかと訝ってしまうくらい。


 加耶(かや)が前に言っていた。家では恋愛の話とかできないから、友達が母親や兄弟と恋愛の相談なんかしているという話を聞くと、羨ましいと。それを言われたときはさほど気にしていなかったが、確かに付き合う期間が長くなればなるほどそういうのは感じられるのだろうな、と今は思う。


 どこかの同級生はあんな女と付き合うなと親に言われたらしい。どこかの同級生は他にもっといい男がいるじゃないかと言われたらしい。どこかの同級生は恋愛なんてまだ早いと言われたらしい。どこかの同級生は付き合うのは二十歳過ぎて就職してからでも遅くはないと言われたらしい。


 徹はきっと香奈枝に感づかれなければ、ずっと独り身のまま、若しくは恋人ができても母親に報告できないままなんとなく過ぎていくことになるだろう。


 いつか本当の意味で誰かと一緒になることへの不安はなかった。


 結婚、と言われても中学生の徹には遠い未来のようにしか思えない。社会に出て、二十代を過ぎて、三十代になった頃に結婚しなくてはと焦るよく聞く未来への不安は、今の徹の中にはなかった。ただ何となく毎日学校に通って、つまらない授業の合間を埋めるような暇つぶし。それを恋愛だとか恋人だって言っていいのだったら、徹にとっての恋愛も恋人もその程度だ。少女漫画のように愛し合うだとかお前のためだったら死んでもいいなんて言えるくらい、そこまで一つのことに没入できないのは徹自身薄々わかっていた。


 多分このままなんとなくがずっと続くんだろうなと、漠然と思っているのだ。


 頭ごなしに否定されるのは当然嫌だが、確かに親と恋愛がらみの深い話ができる間柄であればいいのかもしれない。親が親でない感覚。友達のような親。偶に怒られるけれども、何でも話せる親。普段から恋愛の話、それこそ香奈枝から毎日「彼女いないのー?」「あの子なんていいんじゃない?」なんて話を飯の場で言われ続ければ、さすがの徹だって恋愛に興味が湧いたりするかもしれないし、気になる子ができれば「○○って知ってる? ちょっと最近気になるんだ」なんて話もあっさりと香奈枝に打ち明けられるだろう。普段から恋愛がらみの話をしているのだから、なんてことないはず。

徹から恋愛について話しかければ、香奈枝はきっと笑って相談に乗ってくれるだろう。真剣な顔なんかしないで、笑って聞いてくれるだろう。


 湯舟のお湯を顔にかけた。


「彼女かあ」


 ないな、と思った。まず学校で女と話すことが少ない。思い浮かぶ限りでは隣の席の加耶と、帰宅部の連中と話すぐらいだった。


 ふと、加耶は徹のことをどう思っているのだろうかと思った。


 中一のクラスから徹と加耶は同じだった。何回か行われた席替えの中で、隣になる機会が何度かあって、「またかよー」と言いながらも、内心、知らない奴よりはよかったと思っている自分がいた。それをきっかけに話すようになった気がした。中二でクラス替えがあったが、今も同じクラスだ。そして現在徹の隣の席に座っている。


 加耶はどっちかと言うと騒がしい部類の人ではなかった。自己主張はあまりせず、周りのみんなに合わせて動くタイプのおしとやかな感じ。彼女も部活をやっていないため、徹や他の帰宅部の連中と放課後によく話すごくごく普通の女の子……かねえ。


 休み時間に恋愛がらみの話はしなくもなかった。放課後に残ってだべるくらいなのだから自然とそういう話もするだろう。男女混ざっているときは「あの子とあの子が付き合ってるらしい」だとか、「あの子とあの子いい感じだから早く付き合っちゃえばいいのに」なんて話す。その情報源の大体が女子からだ。クラスの恋愛事情を男子に共有するのだ。恋愛に興味がさほどない徹は片耳で聞くのだが、次の日、名前の挙がった男と女を意識しながら授業を受けたり、休み時間にふと眺めるとそれはそれで面白いものだった。昨日名前の挙がった二人が無邪気にじゃれている。かといって周りからはただの友達としか見られていない。女が男の肩を叩く。やめろよ、なんて笑い合う。ああ確かに。連中の目は確かなんだな、こんな俺の目からでもお似合いに見える、どうぞお幸せに、なんて暇つぶしくらいにはなった。


 男だけの会話の中でも恋愛の話は出てくる。この間は「徹と加耶、付き合ってないの?」と聞かれた。徹が「なんで?」と聞き返せば、「だって仲良さそうじゃん」とにやにやしながら言われた。


 自分では気づかないものだ。加耶と徹が仲がいいだなんて友人から聞かなければ思ってもみなかっただろう。でも、そういう目でクラスの生徒からは見られているのかと思った。徹の一挙手一投足が彼らの目には見えていて、仲が良さそうに見えると。


 加耶は女友達から、「徹と仲いいよね、付き合わないの?」とか仄めかされているのだろうか。「いや、ないよ、そんなの」とか頑なに否定するように答えているのだろうか……。


「俺だってお前なんかねーよ……」


 突然出た独り言は浴室によく響いた。


 これだ、恋愛の嫌なところは、と悟った。相手がどう思っているとか気にするだけ無駄なのに、相手の口から聞かなければわからないというのに、性懲りもなくいつまでもだらだらだらだらと相手が自分のことをどう思っているかなんて考える。気になるなら聞けばいいんよ、聞けば! 何を恥ずかしがることがあるんだ、と世の男にも女にも言ってやりたいくらいだ。


「はっ! ということは俺は今、加耶に恋をし始めているというのか……?」


「それは困る!」とまた独り言が漏れて咄嗟に口を手で覆う。


 恋愛はいろいろと面倒くさいことも多ければ弊害も多い。それは徹の今までの家庭環境が教えてくれている。


 さっさと風呂からあがって寝てしまおうと思った。今ならまだ間に合う。今寝てしまえば加耶が自分のことをどう思っているかとか、加耶が自分のことをどうとも思ってないと友達に話している姿とか、二人で風呂に入っている妄想とか、二人でベッドに入って、寝ている加耶の横顔とか……。


「ああ、うるさい! めんどくさい! 寝る!」


 寝れば全部忘れる。明日になればきれいさっぱりだ。明日学校に行って加耶の顔を見てもなんとも思わない! 加耶が絶世のクレオパトラとか楊貴妃みたいな美女じゃなくて助かった! いや、これは失礼か。訂正。


 大丈夫だ、と心の中で唱える。たとえ顔が芸能人並みに整っていたとしても俺が恋愛に手を伸ばすことは断じてない。顔なんか作りかけだ。顔で全部判断するなんて俺のプライドが許さない。それに……。


 香奈枝の顔が浮かんだ。脳内に浮かんだ香奈枝の顔を見て徹は荒ぶった心を静める。


「誰も悲しませたりなんかしたくない」


 固く誓って湯船から立ち上がった。


 風呂の扉を開ける。



「あんた恋でもしてるの?」

「いつから聞いてたんだよ

「俺だってお前なんかねーよ、ってむきになってたところからー」


 香奈枝はニタニタと笑いながら歯を磨こうと歯ブラシを手にしている。


 急に恥ずかしくなった。


「うるせーよ、そんなんじゃないから。あと、いい加減裸見ても動じないの何とかしろよ。ちょっとは気い使え!」

「あんたの裸なんて何回見てると思ってんの。もう慣れたわ。あと言葉遣い直しなさいねー。そんなんじゃ女の子にモテないぞー」


 歯ブラシを咥えて香奈枝は洗面所から出て行った。


 久々にイライラした。

 バスタオルでガシガシ身体を拭いた。

 高速で寝巻に着替えた。

 十秒で歯を磨いた。ガシュガシュ、ペッ、ぐちゅぐちゅぺっ。

 洗面所のドアを豪快に締めた。バン。

 階段を一段飛ばしで駆け上がった。どんどんどんどんドン。

 部屋の電気を消して真っ暗にした。カチカチカチ。

 布団に身を投げた。ボン。

 視界が暗い。

 心臓が鳴っている。

 跳ねる心臓の動きを感じながら、眠気が襲ってくるのをじっと待った。


 でも何も考えまいとしても人間の脳は勝手に何か考えてしまうみたいだった。全然眠気が襲ってこない。人間、恐ろしいくらいに脳が働く。学校の授業やテストのときに働いて欲しいくらいなのに、どうでもいいと思っているときに働いてしまう。


 瞼の裏の暗闇で浮かんだ加耶の顔も、ニタニタとした香奈枝の顔も、きっと明日には忘れている。寝て起きればいつもと変わりない朝がやってくる。いつもの普通の毎日が戻ってくる。


 ライナスが引きずる毛布のように、いつか香奈枝が誕生日にくれたシロクマの人形に抱き着いて、深い眠りが襲ってくるのを待った。



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