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「あなた漆戸くんと仲いいみたいだったけど、何で付き合おうとしないの?」
女子トイレの便座の上でうつ伏せになり、榛名は嘔吐した。一度吐いたが気分が完全には晴れず、まだ便器に向かって顔を向けている。
「あたしだったらすぐ行くのに。あんな男そうそういない。自分では人のこと信用してないとか言ってたけど、逆に信用してないから誰にでも優しくなれるのよ。現実では生きてないと思ってるから自分の価値が低くて、全部知った上で見下したようなあざとさ振りまいて……」
個室の角に立っていた加耶は「そうなんですね」と言いながら長めに取ったトイレットペーパーを榛名に手渡す。榛名は受け取って口を拭いた。
「おかしいよね、漆戸くんって。憎いんだって。産まれてさえ来なければこれ以上の幸せはなかったのに、誰かのエゴによって作り上げられた自分のことを思うと情けないし憎い。この世からいなくなればこれ以上の幸せはないのに、幸せを知っておきながら一歩踏み出せない自分が情けなくて憎いって、この間……」
言い終える前に再び榛名は嘔吐した。嗚咽の音が響き渡る。加耶はすぐに榛名の背中をさすった。
「そんな人間がこの世にいるのよ。あたしは彼が誰かの手に渡ってしまうのが怖い。きっと気づくはずだから。そのうち多くの人が彼の良さに」
「恋してるんですね、徹くんに」
「ええ」
「自分だけ見ていて欲しいとは思わないんですか?」
「そりゃあ……でも……」
「優しいんですね……。徹くんが人を信用するとしたら、誰かと付き合うとしたらどんな人だと思いますか?」
加耶はトイレットペーパーを取りながら数秒待つが、榛名からの答えは返ってこなかった。
手に巻き付けたトイレットペーパーを渡す。
「自分を殺してくれる人です」
加耶は冷静だった。
「もし彼が誰かと付き合うとしたら、それはきっと自分のことを殺してくれる人です。それか、彼があなたを殺したいって言ったときに何の戸惑いもなく頷ける人です」
彼は……徹は我慢してきた。寂寥感に打ちひしがれているのに繕って行動している。そんな人間は、信用できる百パーセントの相手ができたらすぐに飛びつくようになるだろう。今までの鬱屈や孤独悲壮すべてを行動に変える。それはDVや性的暴行にはしるほどの大きな闇だ。今まで自分で全て抱えていたものを、安心できる対象に担ってもらおうとするかもしれない。彼はそれをわかっているから我慢している。常に余裕を持とうとしている。煙草でイライラを抑制している。誰かに危害が加わるくらいなら、煙草を吸って抑えた方がましなのは明白。
徹にとって煙草は寿命を縮めるようなものではなく、逆に伸ばすためのオアシスのようなものだった。
「私はそれをわかっていながら……これ以上の幸せはないと知っておきながら……その一歩が踏み出せない。私はそんな自分が情けなくて憎いです」
加耶はそう言い残すと、ドアを開けて個室から出て行った。
便器の上に肘をついたままで榛名は思う。
ここにもいた――。
すべてを知り尽くして優しく見下すあざとい人間。
強い人間ほど周囲は離れて行き、新しい友人や環境が整備されていく。絶対の権力を手に入れれば壊そうと思う人はいない。誰も叶わない拳を手に入れれば誰も近寄ろうとしない。風俗嬢が周りに自分の仕事を打ち明けづらいのと同じだ。
惚れそうだ。
もしあなたが女でなかったならば。
性別を呪った。
きっとそれは彼女が女だから。
だからあたしは漆戸くんには恋ができるのに、同じくらい素敵な彼女には出来ない。
性別を、顔を、身体を、呪った。




