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「榛名さん、居酒屋で仕事の話はやめましょうよ」
榛名はすでに酔いが回っていた。テーブルの上にうつ伏せになりうなだれているのを、徹が必死に「行儀悪いです」と宥める。やっと机から腕を離したかと思えば、今度は椅子の上で胡坐をかき、「暑い」と呟きワイシャツの第二ボタンを開け、第三ボタンに手をかけようとしていた。
「女性なんですから……はしたないです」と徹は立ち上がってボタンを開けようとする榛名の手を止める。
「女性って何よ。女性だと上裸になっちゃいけないわけ? 男は楽でいいわね。胸がないから肩こりもないしブラの締め付けもないし、私はね、ストレスフリーで生きたいのよ! ストレスフリー。わかる?」
明らかに酔っぱらいのダル絡みだった。徹は普段真面目な榛名を見ている分、少し驚きはしたがその付けが回ってきているんだろうなと妙に納得した。
「女性だからってのは撤回します。俺だって家じゃほぼ裸みたいなものですし、下着も靴下も嫌いです。ただ、公共の秩序は守ってください。公然わいせつ罪になります」
「正論うざっ。モテないだろお前。つまんなすぎ」
そんな言葉は徹には響かなかった。そんなことよりも早くこの居酒屋から脱出する方法を考えるのでいっぱいだった。
榛名が生ビールを一気飲みする。底に向かって泡が垂れるジョッキを、テーブルの上に、ダンっ、と音を立てて置いた。つまみの食器がつられてガシャンと音を立てた。隣のテーブルから視線を感じたが、徹は表情を変えずにウーロン茶を口に含んだ。
「ねえあんた、なんでそんなに優しいのよ」
「知りません」
「嘘おっしゃい。昔なんかあったでしょ?」
「何もありませんよ。榛名さんが優しい人だと思いたいからそう見えるだけです」
「……性欲はあるの?」
「学生時代はありましたけど、今はそんなに。いろんなものに興味が無くなっちゃったんですよね。スマホなんてほとんど開かないで電池切れたまま放置とかざらですし。パソコンのメールがあればいっかーって」
徹は榛名からの質問を次々に応えていく。質問の意図など気にせずに、ただ答えているだけの徹に、榛名は思わず溜息をつく。
「吐きそう……」
急に榛名は軽くえづきはじめた。徹は酔ったり冷静になったり忙しい人だなあと思いつつも、「早くトイレに行ってください」と榛名を促す。しかし、なかなか立ち上がろうとしないため、徹は立ち上がって彼女の肩を持とうとする。
「ほら、早く行かないと」
「ねえ、あたしと結婚しない?」
榛名は怠そうにそんなことを言った。
徹は、その質問には言葉を詰まらせた。
榛名がしゃべるのも億劫なことは見てわかるのに、それでもと口を動かそうとする。「こんなに優しいじゃない」「ねえ」「どう……なのよ」とえづきながら呟く姿を見て、徹の喉につっかえていた骨はとれる。
「俺は……優しくないですよ。人のことを心から信用できないんですよ。だから、今榛名さんが結婚しない? って言ったのもネタにしか聞こえませんし、でも酒の勢いがないと言えないようなことかもしれないとも思ったりします。要するに何も信用できないんです。昔、母親がよく『嘘でもいいから』って口癖のように言ってました。嘘でもいいから口にしたり行動していれば、いつの間にか嘘が本当になるかもしれないと信じていたのかもしれないですし、単に口約束だけでもしておきたかっただけなのかもしれません。そこの真相はわかりませんが……だから俺はそんなにいい人じゃありません。俺なんかより榛名さんの方が優しいんじゃないですか? 優しいって感じるってことはきっと優しいんでしょうし。それより、ほら、早くトイレ行かないと。一緒にトイレの前まではいきますから、ほら」
徹は再び榛名の肩を持とうとする。
「ほんとに好き。結婚したい」
榛名は俯きながら必死に吐き気を抑えて呟いていた。何もこんな酔っぱらって調子悪い時に言わなくても、と徹は思った。彼女の必死さが目に見えてわかるため、もしかしたらネタではなく本音なのかもしれない……と怪訝になった。
久々の感情の動きに、つい本音が漏れた。
「ありえないです。さっきも言ったと思いますけど心からは信用してないんですよ? 信用されてない人と付き合っていくのは大変じゃないですか」
徹は榛名を立たせようとする。
「無理、一人じゃいけない。一緒に来て」
「はいはい。トイレの前まで行きますから」
「中までちゃんと入ってよ」
「いやいや女子トイレは無理ですよ。セクハラになっちゃいます」
「あたしセクハラだなんて思わないもん」
「榛名さんが思わなくても他の人が思うんです。じゃあほら、男子トイレだったら行きますから」
「あたしは別にあなたに何見られても構わない」
徹はまた喉を詰まらせる。
「ま、またあ。冗談言ってないで早く行きますよ。女性の店員さんに付き添ってもらうように頼んでみますから」
「やだ。徹くんとじゃなきゃいかない。ここで吐く」
大きな嗚咽を鳴らした榛名を見て、早く女性店員を呼ばなくてはと徹は辺りを見回した。そのとき視界の端に入ってきたのがとても懐かしい顔だったため、一瞬女性店員を探すことを忘れた。
思わず声に出る。
「あれ、畑中?」
身なりは現代の若者を象徴するかのような大きめのサイズのシャツに黒スキニーだったが、顔は多分変わっていないから覚えていたのだろう。
「徹か?」
畑中の奥に見えたのはおそらく姫野だ。姫野の向かいに居たのが相川。その隣が水無瀬。蘇った中学時代の記憶の中で足りないのはあと一人だけだった。
「加耶、ごめん、この人のお手洗い付き添ってもらえませんか?」
懐かしさや想い出は時を経ることで色味を増しているようだ。徹の目に映った鮮やかな五人の中でも、一際輝きを放っていたのは、紛れもなく加耶だった。




