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鬱蒼とした林道を乗用車が駆け抜ける。ハンドルを握りながら、フロントガラスの脇の木々から木漏れ日が落ちる。正面には薄っすらビジネススーツ姿の運転している自分が映る。バックミラーを覗くと、腕組みをしてうたた寝している秀秋の姿が映っていた。
知りもしない土地を訪れるといつも思うことがある。ここが自分の生まれ故郷だったら何を感じるだろう。開発の進んだ騒々しい都会を出て慣れ親しんだ故郷の匂いを嗅ぐと、優しい郷愁を感じるだろうか。
きっと感じるだろう。生まれ育った故郷だったらきっと様々な記憶の波が押し寄せてくるだろう。幼少期に友達と走った坂道。通学路を走れば見えてくる小学校の赤い屋根。下駄箱に下足を投げ入れ、上履きの踵をつぶして廊下を走る。教室のドアを開ければ大好きなあの子の顔が輝いている。「おはよう」「おはよう」と声を掛け合って流行りのアニメの文房具を見せ合う。
日が暮れる頃には晴れ間は消えて、暗い曇天が空一帯を覆う。ぽつぽつと雨が降り始め、長靴履いてくればよかったね、と大好きなあの子が呟く。黄色い置き傘を開いて二人で昇降口を出れば、傘の上で雨を弾く音がする。ナイロンを伝って落ちた雨粒が薄汚れたランニングシューズに染みていく。靴下にじんわりと水気が伝わり出し、重さを感じ始める。「もう濡れてるからいいか!」二人は長靴を履いていると勘違いしたように、アスファルトの窪みにできた水溜まりに勢いよく着地する。弾けた水が互いのズボンにかかる。「あはは」「ずぶぬれだね」「じゃあね」「また明日」そういう別れ。
家に着くと母親が「もうそんなに濡れちゃって。よたっ小僧だなあ」と言いながら、洗面所からバスタオルを持ってきて髪の毛を拭いてくれる。
夕飯を作る母親の背中。とんとん、と野菜を切り、包丁がまな板を叩く音。母親が娘の存在に気付いて振り返るときの口元。「もうちょっと待ってね」と優しい微笑み。
そこに、愛情はあっただろうか。
生まれたのは愛着だっただろうか。
鬱蒼と道の両側に生い茂った木々の連なりももうすぐ終わりそうだった。正面の奥に見えるのはアスファルトに反射する太陽の日差し。薄っすら陽炎。もうすぐ民家にたどり着く。心が躍り出す。雨が降っていた小学生の頃の帰り道のように、今の香奈枝は長靴を履いていなかった。でも長靴を履いていてもいなくても心の中にある「こうしたい」という気持ちは変わらないはずだった。長靴を履いていないから水溜まりにジャンプしようとなんて思わなかった。
大人になった香奈枝の心は「長靴の有無」によって行動をコントロールされていた。
そんなこと関係ないと思い出させてくれたのは徹だった。子育ては親を翻弄させる。思い通りに子どもがなってくれないのは親も人間だからだ。絶対服従の関係から降りた途端、徹の知らない一面を見ることが多くなった。自分の息子から学ばされることも多々あった。
意識や考え方の違いがこんなにも現実に影響があるだなんて。
感謝する。
会いたい、徹。
でも会わない、わかってほしい徹。
私も人間だから。私も子どもだったから。
徹がそう教えてくれたから。
乗用車が止まると、香奈枝はシートベルトを取った。
「秀秋、着いたよ」
腕を組み、足を組んでいた秀秋の目が開く。
「じゃあそこの家」
そう言い残して再び秀秋は目を閉じた。
香奈枝は車を降りた。
坂の上にある家に向かう。
民家の中に位置しているものの、周りの家からは少し隔たれている一軒家だった。築何十年と過ぎていることがわかる木造の一軒家。縁側のカーテンが開いていたため、覗いてみると中には一人の老婆がお茶を汲んでいた。テレビの電源が入っているようで、液晶画面がちかちかとしている。
香奈枝はいったん坂を下り、乗用車の中に戻った。
「秀秋、大丈夫そう」
後部座席のドアを半開きにして伝えると、秀秋は大きく伸びをしていた。香奈枝がドアを閉めたと同じくらいに秀秋も車を降りたようだった。トランクを開けて、黒と黄色の紐が編み込まれたロープを手に取る。
秀秋の目が変わった。
その目はスポーツ選手がハーフタイムからプレイに戻るときのようなスイッチの切り替えではない。寧ろ、秀秋は小刻みに震えていて、怯えているように見えるくらいだった。
きっと興奮しているのだろうと香奈枝は思った。
これから先、数分後に起きる未来を想像して。
秀秋にとってこれはゲームと同じようなものなのだ。リズムゲームなら一番最初はやはり手探りだ。どこにノーツが降ってくるかわからない。しかし、一度クリアしてしまえば大体の見当がつく。そして何度もクリアしていくうちに精度が高まりフルコンボも容易になる。高い難易度の曲をクリアし続ければ、低い難易度の曲が楽に感じられる。それでも、フルコンボを目指しているときは、何度もクリアしている熟練者でも多少は興奮するものだ。曲の終盤になるにつれて「いける、いける」「あと少し」なんて焦りが出ることもある。
秀秋は興奮と怯えを同時に体現しているのだ。
人間は面白い。欲深く、そして用心深く、時に我を忘れ、自分に酔いしれ、一対象にしか視点が向かなくなる。誰にも止められないほどの腹の底から湧き上がる興奮に、普段のように自分を制御できなくなる。その一瞬だけ、用心深さも理性も人間の中から消え去る。
そういう人間味を纏った人を、香奈枝は心底美しいと思っている。格好つけた紳士や凛々しい佇まいの美女モデルが美しくないとは思わない。しかし、そういう人たちは完璧に出来上がりすぎていて逆に疑い深くなる。「本当は裏で女優とヤリまくってんだろ」「清楚なふりして裏で煙草ふかしながら一升瓶に口付けて飲むようなおっさんなんだろ」真偽は別として疑念が浮かんでしまうのだ。その点、秀秋には疑念を持たなかった。人に好かれたいと思って自ら悪の道に手を染めるような人間はいないだろう。いたとしても八方美人になんてなりたいとは思わないだろう。
誰か一人に好かれるために悪に手を染めるのなら、それもまた美しい。
秀秋が誰かに好かれるために悪に手を染めているのではないのは明らかだった。香奈枝に対しての態度が冷たすぎるのだ。素っ気なく、まるで駒使いだ。利用価値のある道具としか思っていないのだろう。
それもまた、香奈枝は美しいと思った。世の中の大半の人間が少なからず人に好かれたいと思っているのに、この男は自分の肚の中と妄想しか見ていない。
人は自分と近しい者に惹かれ、自分とは遠い存在に憧れる。遠い存在に関しては、上ではなく下に遠かったとしても上下なんて考え方次第で簡単にひっくり返る。
香奈枝は「惹かれ」と「憧れ」の憧れを取った。
だから香奈枝は徹を捨ててまで秀秋の元に戻ってきたのだ。徹には香奈枝が自殺したと見せかけて。実際に徹の前で死ぬとは宣言していないが、写真や写真の裏の言葉でほのめかしていたし、勘のいい子だからとその点は気にしていなかった。
秀秋を見ると、震えが消えていた。
ジーンズの縫い目がきつそうに見える。
怯えをなくして興奮だけを残した人間は、きっと周りなんか見ちゃいない。
香奈枝はボストンバッグを持って坂を上り、家へと向かった。振り返らなかった。遅れて後ろから秀秋が上ってくるだろう。家の中にいるのは老婆だとわかっている。あとは家の中に一人だけかということを確認すればいいだけだった。
香奈枝は玄関に着き、インターホンを押した。「ごめんください」とドアを二回叩く。家の中から歩く音がする。後ろから砂利を擦って近づいてくる音がする。
どちらが先に玄関にたどり着くだろうか。
きっとどちらが先に着いても結果は同じだろう。
玄関の引き戸が開かれる。白髪頭の老婆が顔を出した。
何年振りかに見た、昔見慣れた顔を見ても、郷愁なんて微塵も感じなかった。
老婆はどうだろう。
「あのわたくし、地域貢献事業の――」
香奈枝の身体が大きく後ろに逸れる。体勢を崩した香奈枝は軒先の地面に尻もちをついた。
秀逸だった。
洗練されていた。
滑らかだった。
老婆の訝る目とと秀秋の目が合ったとき、すでに秀秋の両手には黒と黄色の編み込まれたロープが握られていた。あらかじめネクタイのように輪っかが作ってあり、引っ張ると締まるような形状になっていたロープは、滑らかに老婆の頭の上から降ってきた。首元に落ちてきた輪っかに老婆がうろたえる暇を与えず、秀秋は老婆を背負うようにロープを引っ張った。
老婆が悶えている。蛙のような、牛のような、息の詰まるような――。
数秒して力が抜けたように秀秋の背中からずり落ちた。玄関でうなだれた老婆の袖がめくれていた。か細い皺の皮膚が見える。行ってしまった惚け面。思わず「お母さん……」という声が漏れる。
「なに、お前の母さんなの?」
「……そう」
「俺に情なんてないし、そういう家族とかみたいな肩書嫌いだから関係なくやるけどいいの?」
秀秋は力の抜けた老婆の身体を床上へと雑に持ち上げる。
「まあもう死んでるけど」
そう言って老婆の履いていたもんぺを脱がした。
秀秋は自分の世界に捉われた。
先を急ぐようにベルトを外そうとする。手がもたついている。上手く外れないようだがようやく外した秀秋は、ジーンズをを脱がず下ろしたまま忙しなく固くなったそれを股座に突き付けた。ダンスでもしながら老婆の上着を脱がす。垂れた乳房には目もくれず、香奈枝に向かって手を差し出す。目の前で自分の母親が乱暴されている……香奈枝は同情しなかった。血が繋がっているからなんて戸籍上の肩書に過ぎない。そういう意味では秀秋に同情できた。
「んっ」と秀秋が唸る。香奈枝の視界に入ったのは、自分に差し出されている秀秋の手だった。
……三回……三回だ。これで四回目……。この秀秋の差し出した手を見るのは。
取り込まれた。
三回程度の過去の記憶に。
あの『誰も触れない二人だけの国』に。
気づかぬうちに狼狽していた香奈枝は、思い出したように自分の周りを見回す。地面に落ちていたボストンバッグを見つける。這いずって、手を伸ばす。……手が震えているようだ。あり得ない。あり得ないあり得ない。右手の震えを抑えようと左手で掴む。左手まで震えている。まごつく自分を否定するのに躍起になった。
ようやくチャックを掴むことができ、ボストンバッグの中から手拭いに包まれた出刃包丁を取り出す。家の中で腰を動かす秀秋の手が自分に向いている。早くしろと言っている。早くしないと、早くしないと、早くしないと私が殴られるかもしれない。私は秀秋の欲望を手助けする立場なのだから、私がまごついていたら私が喰われる。私がいないと秀秋は生きられないんだから。私だけなんだ、秀秋に必要なのは。だからこんなとこで手間取っていてはダメなんだ。私は完璧でなきゃいけない。なのに、尻もちをついたまま立ち上がれない。腰が重い。膝がうまく使えない、力が入らない。
いや。
そこで香奈枝の眼に徹の顔が浮かんだのはきっと偶然だ。偶然ではあるが好都合だった。なんせ、徹とは昨日の昨日まで一緒に暮らしていたのだ。同じ屋根の下で、親の香奈枝にたくさんのことを気付かせてくれた存在だ。顔が浮かんだだけで我に返ることができる。
徹の顔は、香奈枝のスイッチだ。カチッと押せてしまえば明るかった部屋が暗転する。世界が反転する。
今の今まで重かった腰が軽く、容易に持ち上がった。立ち上がった香奈枝はボストンバッグから手拭いに包まれたそれを取り出した。手拭いを剥ぎながら玄関の中に入った。秀秋の差し出す手が目と鼻の先に近づいてくる――。
バチチっと音が響いた。
秀秋の身体が反射的に一瞬宙に浮いて落ちる。念を押しでもう一度スタンガンをバチチチチチチチチチチチチチチチチチチッチチイチッチと長い間首に押し付けた。ビクついた秀秋の身体はそのまま崩れるように横たわった。
香奈枝は握っていたスタンガンを地面に落とした。がたたと音を立ててタイルの上に転がる。あれだけ改造に手間取った代物だというのに簡単に捨ててしまう。香奈枝はそのまま外に出て、ボストンバッグの中からもう一つの包まれていた手拭いを引きはがした。ボストンバッグの中で出刃包丁が転げる。出刃包丁を手にして家の中に戻った香奈枝は、冷静なのか開かれたままの引き戸をしっかりと占めた。振り返って目の前でくたばる母親の亡骸には一瞥もくれず、秀秋の身体に向かってそれを突き刺した。肋骨に当たった音が響く。血が漏れる。垂れる。もう少し溢れさせたい。耳の下あたりを勢いよく切りつける。血飛沫が上がる。ドクドクと血がただれてくる。続けて、鮪のたたきにでもするかのように秀秋の上半身を何度も、連続で、絶え間なく、ダンダンダンダンダンダンゴンダンゴンと叩く。意識が戻らないようにと、何度も、何度も、連続で、絶え間なく、連続で、絶え間なく、ダンダンダンダンゴンダンゴンゴン音が鳴る――鳴った。
血生臭い香りがする。
秀秋の身体を引っ張って仰向けにさせる。人肌が見えなくなるくらい秀秋の上半身は一面血液で覆われていた。右側臥位だったため片側に血液が流れている。まるで以下のかば焼きの切れ口みたいだ。香奈枝が出刃包丁で叩いたいくつもの切り口は深紅に染まっている。白い肋骨が顔を出している。肉が裏返っている。鰺の開きみたいに首から上を落として、身体を半分にさばいてやろうか。目ん玉くりぬいてあられもない姿にしてやろうか。世の中のネクロフィリアたちに高値で売ってやろうか。もっとぐちゃぐちゃにしてやろうか。お前が今まで老婆にしてきたことと同じ目にあわせてやろうか。血まみれにして血液でべたべたになった乳首を舐めながらお前の顔なんかもう見たくねえから顔を包丁で叩いて叩いて叩いて叩いてったったったたいっ――。
徐に香奈枝はスーツスカートのチャックに手を伸ばした。ジーーという音を立ててウエストが緩む。脱いだスカートをそばにゆっくりと置く。下着に手を伸ばす。ゆっくりと、放られたスカートの上に置く。
仰向けにくたばる秀秋の亡骸。ジョーロがそそり立つように天井を向いている。興奮の絶頂でこいつは死んだのかと思えば悪くない人生だったろうと弔える。
香奈枝はそっと蟹股で秀秋の腰の両横に跨り――ゆっくりと上から下へと座った。
上下に動かしてみる。何回か続けていると太腿の裏が張ってきた。考えてもみれば秀秋とセックスをしたのは数えるほどだった。私とはしないくせにこんな死体になった老婆とはするなんて……。仕方がないので前後にと動かしてみる……。
悪くない。
と思った。
悪くない悪くないわるくないわるくないわるくあいわしたいわるくないしたい。
スピードを速めると、快感がやってきた。ジャケットを脱いで、ブラウスも放って、、、。
はは、きもちいセックスなんて生まれて初めてだ。秀秋もこんな感じだったのだろうか。生きている人間や若い女性と交わっても気持ちいいと感じられず、ただただ身体に疲労感と筋肉痛が襲ってくるだけだったのだろうか。
でも、今香奈枝が感じているこの気持ちのよさは、性欲が満たされているからではないはずだ。パラフィリアのように一定の事物やシチュエーションに嗜好があって性的興奮を煽られているからでもない。
これはもっと単純な快楽だ。
うざい人が消えた顛末だ。
鬱陶しい人が消えた心地良さだ。
解放された爽快な気分だ。シャーデンフロイデだメシウマダ。
いや……安堵と言った方がいいのかもしれない。訳も分からず踊りながら泣いているだなんて恥ずかしくて誰かに見られていたら絶対に言えやしない。
涙を拭った。
拭っても拭っても溢れ出るこの涙は何処から出ている。過去も未来も捨てたというのに何処から来ている、溢れ出す。
「うわああああああああんん」
ガキが道端ですっ転んで擦りむいたように、痛みに驚いたように、痛みに耐えるように、声を荒げて香奈枝は泣いた。
子どもじゃないから、
大人だから、
母親だから、
泣けなかったのだ今まで。
――袖の露が床に一滴落ちた。
「……おじさん」
声のする方にゆっくりと顔を向ける。息を飲む。玄関の正面に位置する階段の中段に、徹が座っていた。……ああ、さっき頭に浮かんだのは妄想ではなく現実だったってわけだ。そりゃ自分の母親が突然家からいなくなれば探しに行くよな。それが私の実家だったってことか。ごめん、それは盲点。
あーあ。台無し――。
「なに、あんたのおじさんなの」
「……うん」
「私に情なんてないし、そういう家族とかみたいな肩書嫌いだから関係なくやるけどいいの?」
徹は黙ったままだった。
香奈枝はまた踊り出した。
「まあもうヤってるけど」
次の瞬間、香奈枝はいつか畑で拾った秋映のように秀秋の首にかぶりついた。ゴリゴリという音がシャキシャキという林檎の音に還元されて聴こえる。
上体を起こした香奈枝の胸には、口元から垂れただろう秀秋の血液が枝分かれするように筋を作って流れていた。胸の膨らみに沿って垂れ、乳頭まで到達して秀秋の亡骸の上にぽたぽた滴る。
「香奈……お母さんはさ、この世界は生きづらい場所だと思う?」
香奈枝は腰を動かしながらも、口は開かずに徹を見つめていた。
徹の口が開く。
「俺が殺してやるよ」
香奈枝は止まった。
天井を仰いだ。
涙がこめかみを伝う。
キュッと口角の上がった口元。秋映の赤黒い皮の色が溶け移ったかのように、香奈枝の口元は深紅に染まっていた。
目を閉じる。
あなたもきっといつか私が母を殺したように母親の私のことを殺すはず。
連鎖はずっと消えない。
ねえ、徹。何かに狂いたくなるほど人を好きになったことはある?
私はないよ。どこかの誰かは自分のことを見ていてくれるだなんて、そんなちっぽけな可能性にいつまでも縋ってしまうから。
でも、
自分の内側にしかない哀しみを見てくれている顔も知らない誰か、自分の足跡を一歩ずつ見返してくれている知りもしない誰か、そういうどこにいるかはわからないけど、本当はいないのかもしれないけど、今現在進行中で陰で自分のことを気にしてくれている人のことなら、胸を張って好きだと言える。
ずっと誰かに言ってもらいたかった言葉。
自覚もなく駄目な母親に縋って生きがいにしていた幼少期の私が一番欲しかった言葉。
秀秋の嗜好の手伝いを生きがいにして疑わなかったあの日の私が一番欲しかった言葉。
今更そんな言葉に気づいたの。
しかも息子から。
やっぱり好きだ。徹。愛してる。
血生臭い玄関。
白いタイルに赤い血がぽたぽたと床から垂れ流れている。
流れた血がスタンガンにたどり着く。
廊下に横たわる弛んだ裸の老婆。
夥しいほどの深い切り傷が残る血塗りの裸体。
その上に跨る口元を赤く染めた裸の女性。
右手に握られた血塗りの錆びた出刃包丁。
縁側の脇に放られたもんぺ、やっけ、ビジネススーツと下着。
そのすべてを階段の中段で、膝に肘をつき、組んだ両指の上に顎をのせて眺める男子中学生。潰れた慕情。
私は誰よりも恵まれたのかもしれない。
この光景が、どんな芸術作品や自然の神秘、絶景よりも美しいと思ってしまっている自分がいる。
今日この日の美しさのために過去の哀しみがあっただなんて絶対に思わない。今日この日の美しさを実現するために私は生きてきた。
胸に手を当ててみる。
心臓がドクドクと動いている。
興奮してるんだ、私……。
「殺してやるよ」過去のトラウマも未来の不安も消え、その言葉だけが切なく胸に響いている




