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ペンの蓋を閉じる。
香奈枝は写真の裏に言葉を書き終えた後、一枚だけを残してすぐにその写真を家の至る所に隠し始めた。本棚の隙間、棚の中、電気の裏、トイレ、洗面所、思いつく限りのところに隠した。
最後に、一枚だけ残した写真を居間のテーブルの上に置こうとする。写真に写るランドセルを背負った徹と身を寄せる香奈枝の姿。手にした写真の中に吸い込まれるようにあの日の光景が蘇ってくる――。
徹が写真の裏を見ることを想像する。裏側に書かれた文字を目にしたときの徹を想像する。右下の数字の意図を理解して家中を探し回る徹の後ろ姿、表情、そんな想像と一緒に手にしていた写真を置いた。
サヨナラの時間だ。
黒いボストンバッグを手にした香奈枝は居間を出る。玄関で靴を履き、ドアを開ける。
びゅうっと隙間風が吹き込んだ気がした。これはきっと遣らずの風。香奈枝はこの家を出るべきではないのかもしれない。
香奈枝はドアに手をかけながら家の中を振り返る。
「いってきます」
誰もいない家に、笑って呟いた。
田舎の街道は緑で溢れている。数メートル先が山の入り口のように思える。太陽の日差しで白けたアスファルト。ここを歩くのももう最後か……。そう思うだけで感傷に浸れる人間の心は美しいのかもしれない。そして、それは香奈枝も人間であるということでもある。私もまだ人間でいられるのか。娑婆中溢れているそこら辺の人と同じ人間だと思うと、それだけで救いになった。
昔はよく母に連れられて一緒に歩いたな、と懐かしむ。土日や小学校が休みの日には、よく林檎畑やプルーン畑に連れられたものだった。香奈枝の母は百姓だった。
秋が近づくと、道路から見える林檎が赤く色づき始める。
今はもう荒れ果てた土地でしかない。
香奈枝は母の作っていた林檎畑へと足を踏み入れた。畑の側面に連なる鉄柱に沿ってかけられた鹿よけのネットは腐敗している。奥に進むと、当時物置として使っていた木造りの小屋があった。小屋の周りには汚れたコンテナや古びて内容のわからない新聞紙が転がっていた。小屋の窓ガラスは抜けている。戸を開けようと試みるが、木が腐っているようでギシギシと音を鳴らすだけだった。
抜けた窓枠から中を覗く。烏除けの割れたcd、鳥除けのラジオ、よれたマイカー線、色をなくした合羽、四尺の脚立が横たわっている。
農家にとって動物は天敵だった。特に鳥や鹿には、てんで価値のねえことしてくれる、と母がよくぼやいていたことを思い出す。鳥除けには今じゃ『鳥追いカイト鷹』という鷹の形をした凧があるくらいだ。風が吹けば凧の要領で飛び回っているのを来るときに通った道沿いの農家でも見かけた。鹿よけにだって今じゃ電気柵があるくらいだ。
時代の流れを感じた。
あの日の記憶が降ってくる――。
荒れ果てたこんな場所でも、いるだけで蘇ってくる。「カラスの野郎、こんねいいもんくいっちらかしてって」と文句を言っている。脚立に上って葉摘みをする母が鳥喰いの林檎を落とす。地面に転がった林檎を香奈枝は手に取ってみる。
もったいない。そう思ってかじってみる。
まだ蜜の入っていない青さを残したあいかの香り。
でも、そんな林檎に皮ごとかじりつく。
あの頃の香奈枝は、林檎の本当の味を知らなかった。鳥喰いでも、青くても、母が捨てた林檎でも、あの林檎の木に囲まれた畑の中で食べる林檎が、旨いと思っていた。
「お母さん、この林檎ちょっと色が違う」
林檎を一つ食べ終えた幼い香奈枝は、もう一つ食べようと木の根元に転がっていた林檎を手にしていた。
「そりゃ秋映ってんだ」
香奈枝は手にした林檎を覗く。香奈枝の知っている赤い林檎とは色が少し違った。赤というよりも濃い赤だった。赤黒い林檎。かじってみるとシャキシャキと歯ごたえがある、赤い、紅い、黒い黒い林檎。
林檎の品種を新しく覚えた香奈枝は心を躍らせた。
「あたし、これ好き!」
香奈枝の口元には、赤黒い皮の色が溶けて映っていた。まさに秋映の字の如く、秋の夕日が彼女の口元を紅く映したようだった。
なんで泣いてんのよ私……。
頬に伝った涙を手の甲で拭う。
あの日の記憶には、捉われちゃ駄目だ。私は私だ。あの日が幸せだったと嘆く暇があったらさっさとけじめをつけろ。戻りたいだなんて思うな。でも少し……ちょっとだけ想像してしまう。あの日の母の姿が香奈枝に変わり、地面に落ちた林檎を美味しそうにかじっている徹との光景を。
過去は置いていこう。
未来も捨てる。
香奈枝は歩き出した。




