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 人は二面性や両面性、矛盾を抱えた生き物だ。これはきっと万人に共通する。しかし、当の本人たちはそんなことに気づいていないこともしばしば。人間の身近なところに辻褄が合わないことが転がっている。宿題をしなきゃいけないのはわかっていても、ゲーム機を握って気づけば夜更かし。セクハラパワハラ上司は嫌いだが、彼に媚びを売っていけば会社での地位は安寧だ、楽勝、と思っている。酒癖が悪いとわかっていながら酒が手放せない。子どもの気持ちをわかっていながら離婚はおろか、不倫にまで手を出す。もっと言えば、結婚をしたところから間違いだったと我に返るが、もう時は過ぎてしまっている。


 香奈枝が二面性に気づいたのは一度目の結婚よりももっと前、一人目の旦那と交際し始めていくらかが過ぎた頃だった。


 同棲を始めて二日も立たないうちに秀秋の本性は現れた。


 彼が香奈枝とのセックスを拒み続けた理由。それは単に秀秋が紳士で、香奈枝のことを思って、性行為目当てではないということを香奈枝に伝えたかったからという訳ではなかった。


 その日、秀秋は血まみれで帰ってきた。


 玄関の鍵を開け、出迎えた香奈枝は言葉を失った。反して、秀秋は飄々と家の中に上がり、「今日の晩飯なにー」なんてしゃべっている。


「何があったの?」そう聞いても、秀秋は答えなかった。問い質すように畳みかけると、渋々と言った感じで秀秋はこう言った。


「お前たちはいいよな。自分の欲を発散させる対象が倫理に反していないんだから」


 突然の言葉に香奈枝は言葉を失う。欲? 倫理? 何を言っているのだ。訳が分からない。何が起こった。混乱している頭を整理するように、香奈枝は冷静になる。


「事故?」

「この血が俺の血に見える?」


 秀秋はテーブルの上にあった林檎をつまんでいる。真っ白いワイシャツに着いた赤黒い血を香奈枝は眺める。当然、それが秀秋の血かどうかなんて判別できるはずもなかった。


 ということは、だ。


「誰かの血?」

「そういうこと」

「そういうことって!」


 香奈枝は秀秋に詰め寄った。淡々と話す秀秋に腹が立ったのだ。他の人の血ということは、誰かと喧嘩したのかもしれない。人の血痕(けっこん)とは不安をあおるものだ。何か良からぬことを秀秋がしでかしたのではないかと心配になり、気が動転する。


「ちゃんと話して!」


 香奈枝はテーブルを叩いた。


 秀秋は怠そうにリビングにあったソファに腰掛けた。


「フェチってよく言うじゃん。それだよ」


 そう言われても香奈枝にはよくわからない。「ちゃんと! わかるように!」そう促すが、秀秋の語る言葉はとぎれとぎれで、抽象的で、香奈枝には気が動転していることもあってか到底理解できなかった。


「香奈枝は何フェチだ?」

「今そんなことどうでもいいでしょ! 早く話して!」

「どうでもよくねーよ。いいから答えろ」

「わかんないよそんなの」

「そーか」

「それが何なのよ」

「いいか。お前らは恵まれてるんだよ。世の中が正しいと決めた枠組みの中にすっぽりと納まることが生まれながらにできている。なあ、考えたことはあるか。もし自分が大嫌いなあいつだとしたら。お前の大嫌いなあいつは、どうして自分を嫌いにさせるのか……。どんな人間もな、好き好んで誰かに嫌われたいとなんか思ってないんだよ。たとえそれが見ず知らずの赤の他人だったとしてもだ」


 香奈枝は秀秋が狂ってしまったのではないかと思った。普段ならこんな論理染みたことなど喋らないはずだ。私の知っている秀秋はもっとおしとやかで、笑顔が素敵で、ちょっとしたことにでも気が利く優しい人だと。


 優しい人だと――。


「俺は誰かに嫌われたいとなんか思ったことは産まれてこの方一度もない。でも、でもな。俺は、生きていく上で娯楽や趣味はどうしても必要だと思ってる。毎日会社に行くために電車に乗って、窓から毎日同じ景色を見て、うんざりするくらいの満員電車に揉まれて、会社では好きでもない女や馬鹿な男たちに仕事ができるお人よしだとみられて、ろくでもない作業を押し付けられる。そんなうんざりする暮らしの唯一の俺の楽しみを、誰かから奪われる権利なんてどこにもない。どこにもないんだよ……」


 秀秋の声はだんだんと震えを増しながら衰弱していった。今にも泣きだしそうに体を震わせている。「どうすればいい、どうすればいい……」とひたすらに呟き始める。「俺は人間が嫌いだ。人間に揉まれながら生きなければならない社会にいると息が詰まる。それは俺が優しくないからか? 自分では行動せず不満を主張するのは間違ってるか? じゃあ俺がこの世界から出てけばいいのか? 俺が死ねば丸く収まるのか?」


 何を思ったのか、気づくと香奈枝は秀秋を抱きしめていた。「秀秋くんが死ぬ必要なんてない。私が……私が何とかするから……」


 香奈枝の抱きしめた腕はきつく、柔らかく、秀秋の背中を包み込んだ。このとき秀秋の中に生まれたのは安堵だった。今まで誰にも言えなかったことを香奈枝にカミングアウトしたことで心に大きなゆとりが生まれた。そして、香奈枝が泣きながら抱き着いて来たことで感じられた信頼。「こいつは俺の見方だ」という絶対的な信頼と安心感。


 その一方で、香奈枝の中に生まれたのは、どうにかしなきゃ、という自分に対しての責任だった。そんな訳の分からない男など捨ててしまおう、さっさと別れよう、とんずらここう、といった考えは頭の隅にもなかった。秀秋の胸に頬を寄せながら、香奈枝の目には確かに白いワイシャツを斑に染めた血痕が映っていた。映っていたはずなのに、映ってはいなかった。一般人が血痕を見た際に感じる不安を、このときにはすでに香奈枝は感じていなかった。



 さて、イネーブリングの始まりだった。香奈枝は責任を自らの意思で負った。誰かに指摘されるまでは気づくはずもない自らが陥っている依存と共依存の関係性。無意識に感じ取った「彼には自分が必要だ」といういわば承認欲求。互いが互いを必要としている関係性。二人が作った環境は、ちょっとやそっとのことじゃ抜け出せないのだ。まさに、『誰も(さわ)れない二人だけの国』。きっと他人から見れば歪な関係性と環境に見えることだろう。どうして香奈枝さんはあんなに必死なの? 人殺しの秀秋の手助けをしようとしているの? なぜそこまでする?


 ちょっと羨ましく思えてくる。彼らは二人だけの国を作り上げたのだ。もし、地球に存在する人間が二人だけだったとする。若い男と若い女が一人ずつだ。――誰にも否定されないはずだ。ツイッターで批判されることもないし、学校や職場で噂されることもない。


 そんな二人だけの世界で生きられるのなら、きっと人は思うがままに生きられる。のびのびとストレスフリーで生きられる。鬱屈も邪念もどこかへ吹っ飛ぶ。だって、二人だけなのだから。他に人がいないのだから。誰にも邪魔されないのだから。産まれないことが一番の幸福だなんて悲観、思うはずもないのだから。



 秀秋はすでに三人殺していた。そして、香奈枝が共犯に加わってからさらに三人殺した。その六人のいずれにも共通するのは、七十歳を超えた淑女、ということだった。


 とてもずさんな犯行だった。


 インターネットで目星をつけた田舎の過疎地に二人は車を走らせた。民家に入る手前の路上に車を止め、歩いて犯行に及ぶ家を探す。見つけた家のインターホンを押すのは香奈枝の役目だった。秀秋は家の中から出てくる人が見える位置で待機する。留守だった場合は素直に立ち去り他の家を探す。出てきたのがおじいさんだった場合は、香奈枝が保険屋のふりをして適当にあしらう。おばあさんが出てきた場合、香奈枝が一人暮らしかどうかを質問し、一人だった場合にのみ、秀秋が家の中に押し入る。


 よぼよぼのご老体の息の根を止めるのは容易なことだった。事前に用意したケーブルで背負うように首を絞めるだけだった。


 よぼよぼのご老体からの失禁と脱糞は、秀秋の興奮を誘った。

 上着を剥ぐとき、陰茎が膨らみ始める。

 全裸にさせたところで興奮はさらに増した。カチャカチャとベルトを取り、カチカチにしたそれを興奮をそのままに何の躊躇もなく差し込む。

 それを香奈枝はじっと眺めている。

 数回腰を動かしただけで秀秋は恍惚に達してしまった。

 秀秋が香奈枝に手を差し出した。 

 香奈枝は懐から手拭いの包みを取り出す。

 手拭いをはがし、差し出された掌の上に錆びれた出刃包丁を置く。

 すぐに飛沫が上がる。

 (はらわた)(えぐ)る。

 淑女の裸体の上には、黒い血が絵画のように広がった。

 再び股間が騒ぎ始める。

 腰を振りながら、乳頭に付着した血液を舐めまわす。

 白目のアインシュタイン。

 前戯も女の喘ぎもないセックス。

 家の外からは時折鳥の鳴き声が聴こえる。

 ただひたすらに腰を振る息遣い。

 床が軋む音。

 静寂が降る音。

 耳鳴りがする。

 出刃包丁が骨を叩いた。

 舐めまわす舌使い。唾液の音。

 香奈枝はそれらを片耳で聞きながら、茶の間の畳の下に穴を掘っていた。



  *



 子どもが生まれた。何色にも染まらない肌の色。おぎゃあと泣く。肉厚な小さな手をそっと握ってみる。


 ふと我に返る。


 血縁が遠い昔の文化のように、現代では馴染みのないものに思えた。


 ふと我に返る。


 普通の毎日に戻らなければ……。


 赤子の目が香奈枝を見つめた。


 香奈枝の口角が上がった。


「かわいいなあ」


 誰も触れない二人だけの国は、赤子によって簡単に崩れ落ちた。


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