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風月が二人を包み込むような風と光を運んでくる。普段なら真っ黒に見える夜空も、今日は天気がいいようだった。雲一つない澄み渡る藍の空に浮かんでいたのは、月の船。悠々と浮かぶ月は誰かを照らしたのだろうか。それとも映したのだろうか。ハッピーエンドにもバッドエンドにも幸にも不幸にも善にも悪にも、月明りだけは、誰しも平等に分け与えてくれるのではないか。
綺麗な月の麓で少女が何か伝えている。男は浮かない表情だった。
「男見る目ないよ」
徹は握りしめていた掌を開いた。ずっと握っていたせいで手汗でくしゃくしゃになった徹と香奈枝の写真。よれたその写真の端と端を引っ張って伸ばす。
『ねえ。最初で最後の嘘聞いてくれる? 徹も、カマキリなんだ。あの、モンシロチョウを食べちゃう蟷螂』
右下には100/100と書かれている。
蟷螂――うっすらと覚えていたのは夏の日だった。炎天下の中、半袖短パンで虫網片手に駆け回った庭でのこと。
ああ、と天を仰いだ。
今日は天気がいいようだった。曇り気のない、澄み渡る浅い藍色が、空一帯に広がっていた。丸みを帯びたお月様の周りには、小さな星々の数々。星たちはお月様の側近として周りで輝いているのか。それとも、お月様を尊敬していて自らの意思でお月様の元に歩み寄り、輝いているのか。
今夜は明るい夜になりそうだ。
「加耶?」徹が問いかける。『復縁しない?』という先程の加耶の発言。その二度目の告白の返事が聞けるのかと思ったのだろう、加耶は徹との距離をすり足で縮めた。手を腰の後ろで繋ぎ、少し前かがみで「ん?」と。
加耶の唇がキュッと結ばれていた。
目前に迫った加耶の顔。
徹はそっと彼女の耳に唇を寄せた。
加耶の耳元にふーッと息を吐いてみる。少し慄いた加耶。だが、「やめてよ」なんて言葉は聴こえない。
だから言うのだ。どくどく、ドクドク、どくどく、と響きをやめない自分の身体。言わなくてはいけない言葉は頭に浮かんでいる。一息で言えば息が詰まってしまいそうなそんな言葉。
「俺加耶のこと殺しちゃうかもしれない」
ドク、ドク、と心臓が鳴っている。大切な人にだから言えた言葉。初めて大切だと思ったから言えた言葉。もう後悔はない。なのに、加耶は、息を吹きかけただけで少し慄いてしまう加耶が、想像していた返事とはかけ離れた言葉なのに、徹がこんなことを言っても身じろぎせず、顔色一つ変えずにこう言った。
「徹くんにだったらナイフで刺されるのもありかもね」
お月様と周りで輝く星々、その麓で小さな戦慄が走った――。
言ってしまえば、こんなものカマかけでしかない。別れ話を切り出した彼氏と別れたくない彼女。「じゃあ別れる」本当は別れたくない。些細なことで喧嘩して怒って出て行った彼女を追いかけ探しに来てくれた彼氏。
自分の本心とは逆のことを言って、相手の本心を確認する。遠回し? 違う。そんなサイン気付けない? 違う。
どっちでもよかったんだ。いつかは終わるはずの終わりがちょっと早まるだけ。欲しいと思っているときには貰えず、気づいてほしい時に気づいてもらえず、妄想はいつも現実にならず、期待だけがどんどんと膨らみ、やがて萎むどころが破裂する。上手くいかない、どうして、でもそれが現実、折り合いをつけよう――そう思った途端に、破裂した風船の継ぎ目を縫ってくれるような、縫ったところでもう膨らみはしないのに、「私がしたいから勝手にやってるの」あの日、あの時、あれほど欲しかった言葉と感情が手に入る――。
徹は目頭が熱くなるのを感じてしまった。それだけですべてを許せるような、過去なんて消してしまえるような。この気持ちを偉大な哲学者たちは何と言っただろう。
承認。
それでも反出生主義もペシミズムもニヒリズムも、腐った感情が徹の中から消えることはなかった。ただ、一つ、徹の中で変わったことと言えば、「これが自分にとっての幸せだ」と、己の中で確立したことだった。
*
世の中の貞操の裏には悪意と罪があちこちに転がっている。否定された欲望が渦巻き、伝統的な価値や基準が有無をなさない秩序が崩壊した無規則な世界。異常だと嘲られる嗜好のパラフィリア。腐ったどぶ沿いの路地裏で行われる至高の無理強い。どっちもどっちなのに優劣をつけたがる執行者。騙される悪人。真実を知る狂人。貞操とアノミーが逆転しても何ら不思議ではない。というか、すでに逆転しつつあった。
民意がすべての資本主義社会は、インナーチャイルドを秘めたアダルトチルドレンたちがうじゃうじゃいる世界だった。大人になりきれない子どもたち、ヤングアダルト。彼らは本当に大人になりたいと思っているのか。今でも過去のトラウマや暗黙のルールに苛まれているかもしれない。未来にたくさんの不安を抱いているかもしれない。現実が辛くて希死念慮に毎晩脅されているかもしれない。魘されているかもしれない。お前は生きてはいけない人間だ――お前はなんでそんなに馬鹿なんだ――お前はミスばっかりだな――またあの子だ――頭悪いよねー――そんな他人からの叱責、嘲りを笑ってやり過ごす。駄目な毎日を卑下する毎日。家に帰って布団の上で死にたいと呟いてみる。無音に掻き消される。誰も聞いちゃいない。産まれないことが一番の幸福だったのに。人間は産まれた瞬間から罪を背負わされている。なぜ生まれてきたんだ。なぜ産んだんだ。すべてが鬱屈に捉えられ嫌になる。そのすべてが当人が意図ぜず、無意識のうちに現れてしまっていることもざら。
辛いだろう。
面倒だろう。
始めからなかったことにしたいだろう。
自分がいた痕跡を消したいだろう。
明日は目覚めたくないか?
でも、そんな彼らを世の大半の人間は「優しい」と言ってくれる。
そこからまた何か始まるんじゃないか?
希望が生まれる。
目的がトラウマを否定する。
自分を癒す。
そして誰かを愛す。生きる。
徹の愛した普通の日常が待っている。




