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教室の黒板が女子生徒によって消される。「2」が消え、「-」が消え、「3」が消え、「めざせ優勝!」が消える――。
「優勝しちゃったね」「○○くんすごかったね」「○○ちゃん普段と雰囲気違った」校門を出てぞろぞろと隊列を組み、歩きながら会話している生徒の間を縫うように、徹はチャリンコをすっ飛ばした。家に帰ると誰もいないようだった。表に車がなかったので、きっと香奈枝は仕事か掃除の道具でも買いに出かけたのだろう。着替えだけ黒のスクールバッグに詰め込んで再びチャリンコに跨った。
学校の校門に戻ってくると、加耶は校門の前にいた。自転車を一度止めて声をかける。徹は自転車をつきながら加耶と一緒に歩いた。
加耶の家まではさほど遠くはなかった。学校から二キロと言ったところだろうか。学校沿いの国道を一キロ程度歩き、横に逸れた農道を一キロ。車の通りが少なくなり、道幅も狭くなり、両側に民家が見え始める。
加耶が立ち止ると徹も歩くのを止めた。どこにでもあるような一軒家。通いなれた学校の校門に吸い込まれていくのと同じように、加耶は常習的に自宅のドアにカバンから取り出した鍵を差し込んだ。家の中に入る加耶に続いて、ゆっくりと敷居をまたいだ。
「お邪魔します」
小さくつぶやく徹に反して、家の中は静寂を保っていた。「誰もいないの?」と訊けば、「誰もいない」と返ってくる。それもそうだろう。加耶の母親がいれば門前払いだ。あれ、でも夜になれば結局会うことになるんじゃ――そんなことを考えながら、階段を上る加耶の背を追って徹も階段を上がった。
上がってすぐ正面に見えた部屋が加耶の自室の様だった。勉強机とベッドが置かれている。端にクローゼットが窺える。その隣のカラーボックスに凝った背表紙の漫画は見えず、本屋のブックカバーがかけられた文庫本が並んでいた。
女性の部屋に入ったことのなかった徹にとって、この部屋は簡素なものだった。アニメや漫画で想像できる華やかさとは到底結びつかない。間取りだけが違う自分の部屋と同等な部屋のように思えた。
指定鞄を勉強机の上に置いた加耶は、ベッドに腰掛けた。徹はどうしていいかわからず立ち尽くしていたが、自分だけ立っているのも滑稽だと感じ、スクールバッグを置き、床に胡坐をかいた。
「となりくる?」
そう言われて徹は「あ、じゃあ」と立ち上がり、加耶の隣に腰掛けた。
――静寂が降っていた。加耶は何かするでもなくベッドに座ってどこか一点を見つめていた。時計の秒針の動く音だけが聴こえて、部屋を見渡してみると、予想通りそこには時計があった。
時計の短針は6を指している。
徹の気がかりは、加耶の親が帰ってこないかということだった。定時で仕事を切り上げた両親たちが家に着くには充分の時間が経っている気がした。父親は遅番だったとしても、母親はもうそろそろ帰ってくるのではないか。「もう娘とは関わらないで」という言葉が徹の頭に飛び交う。今に玄関のドアが開く音がして、階段を上る足音が聞こえて、娘の様子を見に部屋に入ってきた母親の目に飛び込んでくる異物。その異物を理解するのにかかる時間はコンマ数秒。母親の表情が一変し、怒号が飛ぶ。
部屋の静寂は、徹の思考を促した。
しかし、加耶自身も徹が自分の家に居れば、母親が怒るかもしれないことなど想像できるはずだ。なのに黙ってベッドに座ったままだ。
何を考えているのだ。静寂は加耶にも思考を促しているはず。彼女は今何を考えている。徹を自宅に招き入れることで、母親から叱責させて滑稽な徹の姿を憐れむことを目論んでいるのだろうか。
時計の秒針が、ちゃきっ、ちゃきっ、と一定に音を刻んでいる。
一定なはずなのに、音はどんどんと早くなっていくような気がした。
秒針の音に誘発されて、徹の頭で様々な音が鳴り始める。クローゼットのドアがガタンガタンと開いたり閉まったりする。勉強机の上に置かれているノートがペラペラと開き始める。カラーボックスの中から文庫本がバサバサと落ち始める。体重移動したことで尻の下でベッドが軋む。身体が上下に動き始めたような感覚。ベッドが小さくギシギシと軋む音を立て始める。
静寂が、喧噪に変わる。ありもしない音たちが徹の頭で作り出される。部屋にある物が立てる音どころか、部屋にはありもしない音まで聞こえてくる。風がビルの間をびゅうびゅう吹き抜ける音。フライパンをおたまでかんかん叩く音。ベランダに干された敷布団をパンパン叩く音。そのある種オーケストラのような音たちは、まるでパチンコ屋の中にいるような厄介な喧噪なのに、楽器を抱えた大勢の黒服と対面して棒を振る指揮者のように、どうしてか一つひとつの音たちが聞き分けられてしまう。
徹は頭を振った。飲み込まれてはいけない。取り込まれてはいけない。捉われてはいけない。俺は俺だ。あり得ない……。再び現れる残像。加耶の美しいボディライン。毛の逆立ち、淫靡――香奈枝の目線が誘惑する――私にも加耶ちゃんにしたことと同じことできる? ――私は徹が幸せを感じるなら構わない、徹が私にとって一番大事だから――ライブハウスでの肩車――俺は華やかなアーティストではなくてアーティストに夢中になっている客衆を見に来たっていうのに――忍んだ右手の指先――。
徹は唇を噛み締めた。奥歯を頬の内側の肉にぎりぎりと食い込ませる。そうしたことで、鬱陶しかった喧噪はなかったように消えてしまった。部屋に聴こえる秒針が刻む音だけを聞きながら、静寂が喧噪を生み出していた、ということに改めて気づく。
徹は後ろに手をついた。
天井を見上げる。
後悔するとわかっていて、なぜ人は欲望に手を伸ばすのだろう。
ベッドに並んで座っている二人。
家には二人きり。
他に誰もいない。
定時から一時間が過ぎた。加耶の親が帰ってくるかもしれない。
目と鼻の先に女がいる。女子中学生がいる。背中に視線を移す。ロングの黒髪。襟から覗く首筋。肩甲骨が浮き出た背中、姿勢。二の腕がふっくらとしている。
――触ってみたい。
好奇心が消えない。自分の好奇心は倫理に反すること。だが、するなと言われて素直に引き下がれるほど胸の奥の高ぶりは消えちゃくれない。高ぶって高ぶって、沸々と沸騰して荒ぶりかけた沸点に達するぎりぎりのところ。沸点までの距離があと一歩、いや半歩でもいい、その地点まで達しておきながら我に返らせる魔法の冷却剤などあろうものか。
――以前はそう思っていたのだ。ここまでお膳立てされた環境を前にしたとき、引き下がれる奴は人間じゃない。動物じゃない。生き物じゃない。そう思っていた。
徹は見つけていた。魔法の冷却剤を。
香奈枝のため、という絶対的な依存性を。
恋人でもいい。芸能人でもいい。アイドルの追っかけ、推し。釣りに車にDIY。服を買う、買い物をする、それもまたストレス発散と称された依存の一つ。
そうやって決まり事を作って縋るしか何一つ安心していられなかった。自分本位に生きてしまったら、いつかまた自分が過ちを犯してしまうのではないかという懸念が消えなかった。誰かを傷つけるということを知っていながら欲望になど手を伸ばせない。我慢――それもまた欲望に逆らう奢り高き人間の慢心。倫理に反す欲望に手を伸ばさず我慢もしないで生きるには。
絶つしかないだろう。
今はまだ――。
徹は立ち上がった。
「やっぱ今日帰るわ」
「……うん。なんかそんな気がした」
ベッドに座ったままの加耶を残し、スクールバッグを掴んで部屋を出ようとした。ドアに手をかける直前、妙にカラーボックスが気になった。カラーボックスの中から一冊の文庫本を取り出す。
「この本借りていい?」
「うん……」
「ありがとう。じゃあまた明日」
バッグに文庫本を大事にしまった。
加耶の家を出た。
帰り道はまるで行き道と違った。
景色も、心音も。
家に着き、自転車を止めて玄関を開ける。「ただいまー」と呟くが、中には誰もいないようだった。十九時前とはいえ、外はすでに暗くなっている。家の中に電気がついていない時点で、香奈枝が帰ってきていないことは明白だった。
そのうち帰ってくるだろうと思い、言い訳を考えながら自室のベッドに寝ころんだ。そういえば、とバッグから文庫本を出す。本など学校で暇つぶしぐらいにしか読まないが、その本はまた、先の展開をそそられる話だった。本を読んでいるときに頭の中で発音している人と会ってみたいなあ、なんて考えるくらいの余裕を持ち得ながら読み進めていき、気づいたら読み始めてから二時間は経っていた。
『酒癖の悪い父親から殴られていた女子高生は、うなだれるように玄関を出た。その前に現れた少年は「ちょっと待ってて」と告げて女子高生の家の中に入っていく。数分して出てきた少年は、血まみれだった』
そんな内容の小説についつい読み入ってしまっていたようだ。腹が減ったことも忘れていたくらい。空腹に耐えかねて居間に降りていくが、真っ暗だった。まだ香奈枝は帰ってきていなかった。
さすがにおかしいと思った。固定電話から香奈枝の携帯に電話をかけてみようと思い、居間の電気のスイッチに触れる。
香奈枝が夜遅くに返ってくるのは特に珍しいことではない。しかし、必ず徹が登校する前に「今晩遅くなる」という主のことを伝えるのが常だった。香奈枝は部屋を掃除したいから友達の家に泊まれと言っていた。故に香奈枝は今日仕事が休みで家の掃除をしているものだと思っていた。
電気がついて居間の全容がわかる。テーブルの奥には棚があった。その上に置かれた固定電話に手をかけようとする。
ふとテーブルの上に置かれていたものに目を引かれた。なんだろうと手に取ってみると、写真だった。徹と香奈枝が友達になった日。あの日に撮った写真だ。
香奈枝はカメラが好きだった。徹が使い道のないお年玉を使って、母の日に一眼レフのカメラをプレゼントした。中古の安物だったが、泣いて喜んだ香奈枝はその日から家の中でも何気ない日常の一片を写真に収めた。
以前は毎日のようにカメラを手にして家の中でもパシャパシャ撮っていた香奈枝だったが、最近はめっきりそんなこともなくなっていた。そういえば香奈枝、写真好きだったなあと思いながら手に取って見る。香奈枝は泣きっ面でアイシャドウが落ちている。学校帰りでランドセルを背負ったままの徹の背中と肩には、香奈枝の手が回っていた。
無造作に写真を裏返した。何か書かれている……。この斜め字は……おそらく香奈枝が書いたものだ。
『世の中に絶対の真理なんて存在しない。覚悟を志して、生きたいように生きなさい』
なんだこれは、と思う。香奈枝にしては難しい言葉が使われていたからだろう。でも考えてみれば、香奈枝は本をよく読んでいた。言われてみれば難しい言葉を知っていてもおかしくはない。
右下には1/100と書かれていた。
すぐに想像したのは、このような写真がこの家のどこかにあと九十九枚あるということ。なんとなくテーブルの上に置かれていたティッシュを持ち上げてみる。そこにはまた別の写真があった。誕生日ケーキを前に、徹が笑っている写真だった。
思い出す――。部屋は暗い。蝋燭が十本立っている。香奈枝が一人でバースデーソングを歌っている。息を吹きかけようと徹の口がすぼむ。蝋燭の火が消えたところで香奈枝が居間の電気をつける。
「ハッピーバースデー徹!」
香奈枝がそう言った瞬間、徹は笑った。その瞬間を香奈枝は狙っていて、写真に収めたのだ。
懐かしい、そう思うよりも先に、写真を裏返していた。やはり、香奈枝の筆跡らしい文字が書かれていた。
『あなたの笑顔が私の生きがいだった』
そして右下には17/100と書かれている。
徹は電話をかけることを忘れて家の中を駆けずり回った。次々に出てくる写真。そこに映っているのは大体が徹で、香奈枝の姿は何処にもなかった。涙が目頭に光る。書かれている文字は普段の香奈枝からは想像できないような難しい言葉、普段通りのおちゃらけた言葉、優しい言葉。飴と鞭と冗談と、喜びと哀しみと楽観と。その三つを行き来する徹の心は、到底耐えられるものではなかった。あの日、香奈枝が噛み締めた言葉。言いたかったのに言わなかった言葉。本当に伝えたかった言葉。嘘でもいいから――その口癖の裏にあった本音。次々に出てくる写真の裏側に書かれた言葉は、徹の後ろから話しかけてくる香奈枝がいるかのような錯覚を覚えさせた。一枚探して、見つかって、見て、読んで、心にしまって。次へとまた探しに行く。
夜通し這いずり回った。涙の代わりに額からは脂汗が垂れる。しかし、徹はそんなことに気づきはしなかった。ただ、好奇心の赴くままに、百枚の写真と言葉を探した。
――光がカーテン越しに差し込む。隙間から射した一筋の線が徹の寝顔を映した。徹の周りには夥しい数の写真が散らばっていた。手には一枚の写真が握られている。その写真だけは、くしゃくしゃに握りしめていた。
眩い光が朝霧のように部屋を包んでいる。
やっと、夜が明けたようだ。




