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翌朝、なんて事のない朝だった。閉め忘れたはずのカーテンは閉まっていて、淡い太陽の明るい光を通して寝起きはその眩しさで清々しかった。ガキの頃、寝る前にカーテンを閉め忘れただけでこっぴどく叱られることもあったなと、寝ぼけ眼を擦りながら、伸びをしながら、起き上がった。
階段を降りると「おはよう」と声をかけてくれる何の変哲もない朝。徹だけがきっとその言葉に侘しさを感じていた。当たり前の日常がかけがえのないことのように思えてきて、「おはよう」とたった四文字の言葉でさえ優しさで溢れかえっている。
台所に入ると「朝ご飯できてるよ」と香奈枝が爽やかに言う。お盆の上には茶碗に盛られたご飯とお椀の底に麹が沈殿していない味噌汁。今しがた入れたのだろう。茶碗とお椀の間にはレタスとトマトのサラダ、箸があった。
「昨日の夕飯食べるからいいよ」
「いいよそんなこと気にしなくて。私が食べるから徹はそれ食べなさい」
徹は素直に「……うん」と頷いて、「いただきます」と言って台所を出た。
居間のテーブルの上にお盆を置いて箸に手を伸ばす。口の中がぱさぱさだった。水分が欲しい。トマトから口にした。次にレタスに手を付けた。お椀を持った。味噌汁は味がちょっと薄かった。給食の味噌汁はちょっとしょっぱいんだよな。比較して思い出して知った。茶碗を持った。白米を口に運んだ。香奈枝が「健康にいいから」といって米を炊くときに入れる五穀米。昔は玄米だったっけ。嫌いで残したこともあった。香奈枝は激怒して三日は口をきいてくれなかったっけ。その程度で怒らなくてもいいのに。
『朝の忙しい時間に作ってるんだから残さず食べなさいよ! それともあんたが朝ご飯作る? 当たり前に飯が出てくると思わないでよ!』
そんな頭の中で聞こえた香奈枝の声が懐かしい。今では徹も朝食を作ったりするような間柄だ。当然、飯を残すなんてあり得ないを通り越して皆無。徹も香奈枝も頭の中に飯を残すという概念はなかった。
我に返ると、懐かしいことばかりだった。そして気づけないことにたくさん気づけた。自分のことばかりを考えて生きていては気づけないことがたくさん見えた。自分の世界だけで生きていると見えないことがたくさんあった。一歩後ろに後ずさってみる。驚くくらいに自分の足取りと香奈枝の足取りが浮き彫りになっていた。
あのとき苦しかったことが、あのとき身勝手に「嫌だ」と怒鳴ったことが、魚の骨が食道に刺さるかのように、酷く胸の奥につっかえてじんじんと響いていた。香奈枝は自分のことを思ってあんなことを言ってくれたんだ。ああやって導いてくれていたんだ。
香奈枝の足跡には、徹という息子への優しさで溢れていた。
チン、と音が鳴る。
香奈枝が朝食の乗ったお盆を持って居間に入ってきた。対面に座って「いただきます」と手を合わせる。徹が昨日残した夕飯を香奈枝は口に運んでいた。
「今日学校に行ったら加耶に訊いてみる」
「うん。仲良くね。無理強いはダメだからね」
「わかった」
畑中ではなく加耶の名前を口にしたことで、何か言われるかと思ったが、特に指摘されることもなかった。淡々と進んでいく会話に耳を傾けるだけだった。
朝食を終え、身支度を整える。指定のジャージを着る。歯磨きをする。鞄を背負う。すべて身支度を終え、徹は玄関に行き靴を履いた。「いってきまーす」と知らせるように少し大きく声に出す。
「待って」
ドアに手をかけながら振り返ると香奈枝が立っていた。
「何?」
「いってらっしゃい」
「は? それだけで呼び止めたの?」
「あー! なんて口の利き方するの。母親なんだから当然でしょ? 息子の学校へ行く姿を目に焼き付けてから仕事へ行くの。そうすれば今日も一日頑張ろうってスイッチが入るのよ。わかる? この気持ち」
一瞬戸惑う。でもすぐにへらっと口角をあげた。
「わかんなーーい」
「もう、そんなんだから加耶ちゃんにも愛想つかされちゃうのよ」
「それとこれとは別」
「同じです」
「はいはい分かりました」
「はいは一回!」
「はいよ、じゃあね、行ってきます」
徹は再びドアの取っ手に体重をかけた。
「待って」
「今度は何だよ」
徹は再び振り返った。そこにいたのは、さっきと変わらず突っ立っている香奈枝だった。
「笑って」
「はい?」
「嘘でもいいから、笑っていってきますって言って」
香奈枝の顔は凛としていた。澄んだ目つきで笑わず、誤魔化さず、まっすぐに徹を見つめている。
纏った雰囲気に圧倒されたのだろう。自然と徹の心も澄んでいった。いつもみたいにきもいとか気色悪いなんて言葉は浮かばない。
「いってきます」
徹はおどけて笑って見せた。
*
自転車に跨る。
漕ぐ。
坂を自転車が下る。
風を顔面に受ける。
農道を抜けていく。
景色が変わる。
ふと思い出す。
普通の日常が好きだなんて思っていたこと。
過去は置いていこう。
未来も。
頓着なくあけすけになろう。
現在に。
学校に着き教室に入るといつもと雰囲気が違った。朝のホームルームが始まる数分前には席についている生徒も多いはずだが、座っている人はおろか、教室にだって生徒が数名しかいない。よくよく見ると、いつもなら机の横や上に置かれているはずのクラスメイトたちの指定鞄が見当たらない。代わりにスポーツブランドのナップサックやエナメルバッグ、黒や青単色や、チェック柄の入ったリュックサックが置かれていた。
黒板には黄色いチョークで大きく書かれた「2-3」という文字。吹き出しの中に書かれているのは「目指せ優勝!」という文字。
徹は溜息をついた。今しがたチャリンコの上で過去も未来も考えないと誓ったばかりなのだが、こんなにもすぐに欠点が浮き彫りになるとは……。どうやら徹は今日がクラスマッチだということを忘れていたようだ。昨日の帰りのホームルームで担任が「頑張りましょう」と言っていたのが薄っすらと思い出される。頓着なくあけすけになろうとは思ったが、これでは頓着がなさ過ぎて生活に支障が出るみたいだ。
徹は指定鞄を机に置いた。周りの机を見渡すと小学校の頃の遠足を思い出した。皆が各々の華やかなリュックサックを背負う中、徹は一人ランドセルをしょって学校に登校した。
「徹くん、今日は遠足の日よ!」担任の道端でツチノコでも見つけたような金目鯛みたく丸い目をした顔が思い出される。「すみません、忘れてました」なんて誤魔化したっけ。
とりあえず机に鞄を置いたが、今日がクラスマッチだということをわかっているとはいえ、詳細については何も知らなかった。どうしようかと悩み、他の生徒についていこうと決断し顔を上げると、徹が教室に入ったときに居た数名の生徒は、すでに教室内からいなくなっていた。
どうせ体育館だろうと思って歩き出そうとする。
「徹、やっぱり教室にいた」
姫野の声が聞こえ、出かけた足を引っ込める。廊下を駆けてきたようだ。教室後方の扉から顔を出す。
「ほら言ったじゃん。どうせ徹のことだから今日クラスマッチだって忘れてたんだよ」
「それ本当だったら大分やばいやつだよ」
姫野の後ろから相川と加耶が顔を出す。
「え、嘘でしょ? 本当に忘れてたような顔してる」加耶が口を手で覆う。
「まあ徹だからな」姫野はなぜか自慢げだった。
「畑中が昨日の放課後変なこと思いつくからでしょ?」
「帰りのホームルームでボーっとしてるから聞いてないんだろうなって思ってさあ」
「それでわざわざ放課後だべってるときにクラスマッチの話題出さないなんてねえ」
畑中と水無瀬が笑いながら顔を出す。
「意地悪いな、お前ら……」
「ほら、早く体育館行くよ。もうラジオ体操終わっちゃったし」
「その怒りをバスケットボールに込めろ」
「顔面に当てちゃえ」
「それはちがーう」
「八つ当たりだな」
本当に意地の悪い帰宅部の連中だ。
五人の笑顔につられて徹は教室を後にした。
普段体育の授業で使う体育館とは密度が違った。全クラスの生徒が一堂に集まるのだ。ステージに座って観戦する者や、ギャラリーの上から眺める者。途端に学校の体育館ではなく、大会が行われているかのような、そんな賑やかさになった。
予選は必ず三試合行えるような組み合わせになっていた。その三試合ともコテンパンにされ、ボロ負けを喫した徹たちのチームは、同クラスの予選を抜けたチームを応援するだけとなった。
「まさか本当に恨みもないやつの顔面にぶち当てるとは……」
「ほんとよ。あの子鼻血出してたよ徹」
「ああ、あれは俺の目にも不憫に見えたぞ徹」
「まるで俺が当てたみたいに言うんじゃねえよおめーら……」
ギャラリーの窓際で座っていた姫野、相川、畑中はまるで茶番みたいにそんなことを言った。「まあまあ、全部漆戸くんのせいにしてこの件は終わりってことで」と、水無瀬までこの件に乗っかっていた。
「なんなんだあいつら」
「でも楽しかったな。初めてだし、この六人で同じチームになったの」
徹がギャラリーのフェンスに肘をかけている隣で、加耶はフェンスに背を預けて姫野たち四人を見ていた。
「相手ははた迷惑だったろうな。三試合中三試合とも顔面にデスボール食らわせるとか正気じゃねーよあいつら」
「ねー。友美があんな速い球投げるとは思わなかった」
「そこじゃねえ……」
バスケと一口に言えども、中学のクラスマッチだ。素人が数合わせのチームでできることなんてたかが知れている。ほとんどがバスケ部やバスケ経験者たち、運動自慢の生徒の大人げないプレーで負かされて終わりだ。
それでも、加耶は楽しかったと言った。どこがどう楽しかったのか徹にはわからない。運動がさほど得意ではない徹は、ほとんどボールに触らせてもらえなかった。挙句、パスをもらってもドリブルする暇すら与えてもらえない、バスケ部の傲慢極まりないディフェンス。無理矢理パスをしたらしたでバスケ部でも経験者でも何でもない相手チームの素人の元へとボールは吸い込まれていった。
「ボロ負けだったなー」
「確かに。私なんてほとんど走り回ってただけで役立たずだったし。でもゴール入ったときは思わず手あげちゃったな」
加耶は身体を翻し、徹と同じようにフェンスに肘をかける態勢になった。
「なんで。プロの試合でもあるまい」
「そういうのじゃないのよ。なんか、よくわかんないけど嬉しかったんだよねー」
フェンスに肘をかけて加耶はバスケットボールを追う生徒たちを眺めていた。加耶の瞳に注視していた。朧げでどこか虚ろに見える瞳だった。徹は一度強く目を瞑った。開いてもう一度見る。いつかの自分を鏡に映したかのように、加耶の目は充血していた。
「俺も自分のことってよくわからないから大丈夫だよ」
加耶は首を振った。
「ううん。多分……よくわからないんじゃなくて、わかろうとしてないんだよね。わからないままでいたいんだと思う。わからないから嬉しいって思えるっていうか……嬉しくなった理由がわかっちゃったらさ、きっとこれから先同じようなことが起こっても嬉しくならなくなっちゃう気がしない?」
「よくわかんないな」
「私も。できることならずっとよくわかんないままでいたい。その方が気が楽だからさ」
手前のコートで応援の声が舞っている。機敏な動きでフェイントをかました男子生徒は、素早くパスを出した。出されたパスは恐ろしく正確だった。手元にすっぽりとはまったボールに、受け取った女子生徒は一瞬たじろぐ。一寸置いてシュートする。
ワーっと歓声が上がる。
シュートを決めた本人は信じられないといったふうにあたふたしている。パスをした男子生徒が両手を挙げて詰め寄っていた。
二人がハイタッチをする。
流れですぐプレーに戻る。
たったそれだけのこと。たかが一瞬ハイタッチしただけのこと。すぐに我に返ってプレーが再開される。それまでの一瞬の時間。
その尊さに徹は目を閉じた――。
「ねえ、今日加耶の家泊まり行ってもいい?」
「いいよ」
拍子抜けする。
「え、いいの?」
「じゃあ駄目」
「待って待って、どういうこと」
徹が慌てるのを見て加耶は笑いを漏らす。
「いいって言ってるんだからそれ以上聞くなよ」
唇を尖らせた加耶の横顔。
コートから歓声が上がった。また誰かのシュートが決まったのだろう。




