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それからの一週間は、以前の普通の生活と比較すれば変わったのだろうが、徹自身「香奈枝のために生きよう」と定義づけを行ったことで大して苦痛な日々ではなかった。確かにこの一週間、徹が廊下ですれ違うたびに「あの人って……」「よく学校来れるね」とわざと聴こえるような嫌がらせや、流しに溜まった残飯のように汚物を見るような視線は多々あった。それでもなんてことはなかった。香奈枝に迷惑をかけないようにしなければと常々思っていたため、学校を休むことも授業を抜けることもなかった。
ただ、放課後は、もう畑中や加耶たちと過ごすことはなくなっていた。
「徹くん」
部活動へと移動する生徒が廊下を行き交う中、後方から聞こえた声に徹は立ち止まって身体を翻した。おそらくこの声が、挨拶を交わす程度のクラスメイトや他クラスの生徒の声だったら徹も立ち止まらなかっただろう。本当は立ち止まらずに無視して進まなければならないことを徹自身もわかっていた。あの日、加耶の両親から言われた言葉が頭に浮かんだ。それが浮かんだのは、徹が立ち止まって身体を翻した後だった。
「誰?」
関わるな、と加耶の母親からの言いつけが頭に浮かんだため、反射的にそんなことを言った。加耶はその反応に戸惑っていた。
「まあ誰は嘘だけど、今自分以外の誰かに気使っていられるほど余裕ないんだわ。ごめんね。じゃあね」
徹は部活動に移動する生徒の波に乗って再び廊下を歩き出した。
加耶が声をかけてきた理由はなんとなく想像がついていた。最近の徹が、さよならも、じゃあねも言わずに帰っていたからだろう。以前なら定例となっていたはずの、放課後残って帰宅部の連中と話すこともなかった。そんな突然の徹の変貌に彼らは戸惑ったのかもしれないし、「しょうがないよな」と気を使ったのかもしれない。特に加耶は、もう別れたとはいえ、以前付き合っていたときのよしみというか、多少の罪悪感というか、曖昧に終わっていった徹との関係にまだ少し思い残すことがあるのかもしれない。
彼女との約束通り、徹は学校に来てはいる。ただ、それは本当に来ているだけに過ぎなかった。隣の席で加耶が話しかけても、素っ気ない反応ばかりだった。
彼女なりの優しさが徹に声をかけた。でも、結局他の奴らに「声かけてきなよ」って促されたのかもしれないし、お世辞かもしれないし、冷やかしかもしれない。どのみちそんな程度というのは見え見えだった。
それがスイッチだったのだろう。急に見ている光景すべてがモノクロになり始めた。コマ送りのようにスローで動く光景。女子生徒が二人きゃははと笑いながら、階段を降り切った徹の横を過ぎていく。給食室の横を通り過ぎると、担任が職員室から出てきた。生徒に慕われているのだろう。屈託のない笑みでこれから帰宅する男子生徒に手を振っている。歩いてくる。徹の横に差し掛かる。
――仕事増やしやがって――
真顔で囁かれる。
後ろから誰かに肩を叩かれる。
――気持ちよかったか? ――
耳元で囁かれる。うるさいうるさいと徹は耳を塞いで俯く。
――犯罪者予備軍だな、お前――
違う。
――最低だな、お前――
違う。
――それ目的で付き合ったんだって? ――
違う。
――可哀想だなあ、被害者――
――女の気持ちもわからない屑ね――
――ミソジニー――
――犯罪者――
――……痴漢――
痴漢は俺じゃ……。
俯いていた顔を上げたとき、モノクロの世界は姿を消していた。今の今までたくさんの生徒や教員に囲まれていた気がしていたが、徹の周りには群がるほどの生徒や教員は見られなかった。
動悸が激しく、胸が苦しくなっていた。とぼとぼと進み、昇降口まで来た徹は下駄箱に手をついてしゃがむ。
苦しい……なんだこれは。幻覚を見ていたのか? 相当やばいぞ俺……。
「大丈夫?」
見知らぬ女子生徒に声を掛けられる。徹は過呼吸の音を隠そうとする。浮き沈みする肩を抑え込みながら「……大丈夫」と伝える。
「でも、苦しそうだし……」
「本当に……大丈夫だから。やばくなったら自分で保健室行くから……ほら、部活遅れるよ……」
女子生徒の肩にはラケットバッグがぶら下がっていた。この中学の女子テニス部の顧問は厳しいことで有名だった。彼女もこれから部活に行くのだろう。徹のせいで遅れたらたまったものじゃないはずだ。
とにかく早く彼女がいなくなって欲しかった。息を整えるふりをして「ほら……もう平気だ。部活遅れないようにね、顧問厳しいでしょ、ほら、早く」
心配そうな目をする女子生徒の肩を無理矢理押した。彼女も渋々と言った感じで靴を履いて昇降口を出て行った。
彼女を見送った徹は、靴は履き替えずに校舎に戻る。職員室の前を抜けて、左を曲がってすぐの扉を開けた。中に入って、丁寧に扉を閉める。途端に気が抜けたように本棚を背にして崩れ落ちた。
動悸が激しい――胸を抑える。くっ、と歯を食いしばったところでやっと息が整ってきた。
ぜーはーと声に出しながらゆっくり整えていく。額から滴った汗が眉まで落ちているのが分かった。眉からも汗が落ちたのだろう。目頭が熱い。手で首元を拭う。気づけば首元も汗びっしょりだ。指定ジャージの襟元が濡れて色を変えている。
呼吸は落ち着いた。途端に会議室の中は静かになった。数分前のことを顧みる。ぜーはーぜーはー声を出していた自分が馬鹿みたいに思える。自分だけ空回りしていた感覚を覚える。羞恥を覚える。
――馬鹿みたいだ。
窓の外を覗くと、中庭の青々とした芝生が見えた。向こう側の校舎を覗くと、一階でも二階でも、三階でも、廊下を歩く生徒が窺えた。
声が聴こえてくる。
昇降口の方でさよならの挨拶をしている声。
職員室から漏れる教員たちの話声。
校庭の方で部活動に勤しむ生徒の声。
ははっと徹は笑った。
真っ当で、純粋で、綺麗で、美しくて、素敵で、年相応で、和んでしまうような声が自分と比較される。昇降口で友人たちと帰る生徒たち。職員室で世間話をする教員たち。外で部活をする生徒たち。誰かに気を使われるのが怖くて、迷惑をかけさせたくなくて、弱みを見せたら付け込まれるから自分は一人、誰もいない会議室でぜーはーぜーはー過呼吸になりながら本棚にもたれて体育座り。膝を抱えて何してんだ。先生の話でも真面目に聴いてんの?
――馬鹿みたいだ。笑えてくる。
はは。はははは。はははははっはははっははははッは……。
バンっ、と大きな音を立てた。もう一度バンっ、と床を拳の側面で叩く。
めんどくせえな、人間って。いっそ虫とか花とか魚の方が楽かもしれない。
どうしてうまくいかない……。
鬱陶しくなった。人間が嫌いになった。それは徹自身も含めて。
徹が初めてできた恋人に欲求を強いたのも、香奈枝が息子に性的魅力を感じたのも、全部人間だからだ。人間のせいだ。人間のせいにしてしまいたくなった。こんな人間いなければ。俺がいなければ。自立して誰ともかかわらずに一人で生きていけたら。きっと誰かに不安も外傷も疎ましさも憂いも煩わしさも、抱かせないだろう。
面倒臭くなった。この世のすべてが。そして、もう何もいらない、何も欲しくない、そう思うと同時に、もうどうでもいいんじゃないか、そんな感情が腹の底から渦巻き始めていた。
もういいんじゃないか――。
もう何もいらない――。
何もいらないということは何をしたっていいということだろう。何もいらないってことは、命も、地位も、名声も、羞恥も、世間体も体裁も、自分に対しての醜悪、誹謗、中傷、レッテルなんてどうでもいいということだ。だったらもっと欲望に素直になっていいのではないか。こんなところで笑いながら怒りを床にぶつけることもない。一般人とは違うことをできるのではないか。
そんな思想に至った徹が、手早く思いついたのは犯罪だった。万引き、窃盗、放火、殺人。確かに言われてみると、学校の先生やテレビの報道、親からしてはいけないとなんとなく教わっただけで、教わっていなかったら罪を犯していてもなんら不思議ではないのかもしれない。それは徹も、それ以外の人間もだ。そう思い始めると、犯罪だと思っていたことが犯罪ではないと思えてくるから不思議だ。なぜ他の人はこんなに好奇心をそそられる犯罪をしないで生きているのかが不思議なくらいだった。少しぐらい興味を持つだろう。ほら、頑なに押すなと言われたスイッチがあったとしたら押したらどうなるか気になるし、この部屋に入ってはいけないと念入りに言われれば、その部屋の中に何があるのか気になるのと同じだ。
徹の中に好奇心が芽生えた。罪の向こう側に興味が寄る。万引きしたら金を使わずして欲しいものが手に入る。風呂掃除なんかしなくても百円の駄菓子が手に入る。そういえば通学用のチャリンコがボロになった。誰かのを盗んでしまおう。あ、あと俺が加耶を乱暴に扱った点だけを知っている奴らは俺のことをまるでゴミ扱いだ。彼らの家を片っ端から燃やしてみよう。夜中にコンビニで買ったジッポのオイルでもばらまいて、ライターの火を近づけたら一気に広がる炎。想像しただけでメシウマだ。「火事だ、火事だ」なんて、家の玄関を開けた惚け面の家族の前に立っているのは何もいらないと思っているような人間だ。ジッポと一緒にコンビニで買ったカッターで、母親の首の根元目掛けてさっと振り抜いてみる。頸動脈から血しぶきが出て、後ろにいた父親は倒れかけた母親を支える。母親の血がかかったからだろう、父親は血相を変える。父親の首も切ろうとしたら上手くいかずに耳をかすめる。血しぶきが上がった。怯んだ瞬間、俺の手は首を刺していた。くたばる父親がスースー言いながら俺のことをじっと見つめる。なんとなく見てらんなくて、そっぽ向いたら靴箱の上の置き鏡に俺の顔が映っていた。ああなんだ、父親が血相を変えたのは俺の顔に母親の血がかかっていたからか。顔中深紅の絵の具でも塗ったのかって顔だった。奥で音がして、鏡から目を移すと、今度は奥で息子が腰を抜かしていた。後ずさっていく。馬鹿だよな、後ずさったら炎がそのうち迫ってくるだろうに。急いで階段を駆け上がった息子を追い、自室の奥の壁でへたり込んで怯えているお前の前で俺はこう呟く。「俺はもう何もいらない。だからお前もいらない。精一杯呪えよ。お前が軽い一時の感情で嘆いた俺への誹謗を。そして今ここに居ることを。この家に生まれたことを。中学に入学したことを。お前が生きてきたことを呪え。これまでしてきたすべての選択を呪え。母親の股座から産まれてきたあの日から全部呪うんだ。まあ、死ぬことなんて大したことはない。今が消える。それだけだ」
徹は唾をのんだ。無滑稽な会議室の中が、燃え盛る炎が押し迫った同級生の家に見えた。幻覚だ。そんなの知っている。徹の脳が見せた嘘っぱちだ。そんなの知っている。でもなんだか興奮した。一般人ができないことを徹はやってのけることができるという自信。お前より俺の方が上。別にお前なんか殺したくもなんともない。「殺した」という事実が欲しいのだ。殺すまでの過程が面白いのだ。それを見せつける妄想、興奮――。
横で音がした。誰かに呼ばれた。しかし、興奮を半ばに振り向くことなんてできなかった。今の俺は最強だ。格闘技も筋があると誰かに言われたことがあった気がする。誰も勝てない力を手にした者。権力が空想に変わる瞬間。あっけなく失墜する総理大臣。戦車がひっくり返ってゴキブリになる。
自分が狂っていくのが分かった。人間みんな元々は狂っているのかもしれない。それを親が幼い頃から教育して、学校に通って、社会に出て行くための基礎を築き、そうして平凡な量産型社会が助長されている。
徹は狂っている。
でも狂ってなんかいない。キノコ狩りに入った野山で、ここにはそぐわない制服姿の女子高生が徹の行く手を阻んでいて、そいつの顔が妙に愛らしく見えて、だからこそ彼女にちょっとおいたしてみたくなって、徹が彼女をいじめたらどんな顔をするだろうか、きっとこの先できるだろう彼氏には見せないだろう顔を徹には見せてくれるんだろうなという期待で溢れていて、徹はこの世の人間の誰よりもお前のことに興味を持っていて、でも世の中はそんな徹のことを悪意に満ちた目と貞操観念で皮肉する。
「じゃあ加耶は俺を許してくれるか?」
会議室のドアの横には心配そうにしている加耶の姿があった。徹はまだ本棚に背を預けて膝を抱えたままだ。
「許すって、何を?」
「顔も整ってないし、今じゃ噂で乱暴した男呼ばわりだし、柄も悪いなんて陰で言われる。それでも許してくれるか?」
「……言ってる意味が分からない」
「俺は結婚した覚えも子ども産んだ覚えも家族を作ろうとした覚えもない。俺には何もないの。大事なものが何もないの。おまけに好奇心まで奪われたんじゃあほんとにすることがない。別にそれもただの出来心だったから別にそこまでしたいってわけじゃなかった。だからいいけど、人はみんな面白がって俺が大事にしかけたものを奪っていく……。大事なものが何もないんだから俺は自由に生きさせてもらう。なるべく人とかかわらないで、誰にも干渉されずに生きていく」
「一人じゃ生きられないよ」
「知ってるよ……。嫌というほど……。でも勝手に生きさせてもらう。家庭の事情なんか知らないよ。俺がいつ産んでくれって頼んだ。いつこの家に来たいって言った? 全部そっちの勝手じゃないか。なのに怒るわいろいろ縛るわ香奈枝は頑固で融通が利かない。じゃあなに。俺は一生あんたの奴隷として生きていかなければならないわけ? 生きてることに居心地なんか感じてないよ。寧ろ死にたいくらいだ。でも人間は意外と頑丈にできてるみたいで死ねないんだよ。死ねば楽になるってわかってるのに簡単に死ねないんだよ。死にたいのに、簡単に死ぬことができない自分がくそ情けないんだよ。世の中の想いを遂げた自殺者たちより俺の価値は下。生半可な気持ちだってこと? 本気で死にたいと思ってないってわけ? そんな死ぬかもしれないような奴に生きることを前提にものを言われても響かないんだよ。じゃあ別に好き勝手させてもらう。俺は別に死にたくないだなんて思った覚えはないじゃんかよ……」
徹は話す相手を間違えていた。本来なら香奈枝に伝えることなのに、なぜか加耶に話していた。
その理由は、多分「香奈枝のために」と意味付けを行ったからだ。世間一般に言う愚痴。
香奈枝を傷つける言葉だと徹自身もわかっていた。でも言わずにはいられないくらい徹は打ちひしがれ、弱りかけていた。そんな弱っているところに見知らぬ女子生徒が声をかけてきた。「大丈夫?」と。
徹はこのとき恐怖を感じた。
小学生の頃、徹が風邪をひくと、決まって香奈枝は嫌な顔をした。面倒くさそうに小学校に迎えに来た。「大丈夫?」なんて言葉ももらえず、無言の車内を経て病院へ連れて行かれた。
弱みを見せてはいけないのだ。弱みを見せると人は嫌な顔をする。迷惑そうにする。迷惑がかかる。だから弱みを見せてはいけない。
女子生徒の「大丈夫?」という言葉に徹は怯えた。体調が悪くなったのは徹の責任なのに、この女子生徒はなぜ俺のことを心配しているんだ? 怖い。何、この引き締められるような感情……。
徹は逃げるように優しくしてくれた女子生徒を追い払い、誰もいない会議室で佇んでいた。そして加耶が入ってくる――。
加耶にはなぜか話せてしまった。何でも言えてしまう――何でも許してくれる気がした。
それもまた、徹にとって恐怖だった。




