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この話はフィクションです  作者: 面映唯
【プラケーター】
15/29

 玄関の重いドアを引くと、薄暗い家の廊下が見えた。家に上がり、夕日が落ちかかっていたので街灯のスイッチを入れておく。幼い頃から香奈枝に何度も躾けられたため、習慣になっていた。


 階段を上がり自室のベッドに寝ころぶ。


 天井を見上げる。四畳半の天井に浮かび上がったのは星々が輝くプラネタリウムではなく、さっきまでいた学校の教室だった。夕日が窓から射して、窓枠が生徒の机の上に大きな影を作る。窓際の机の上に腰掛けている少女。今まで見ていたはずの加耶が徹の目に美しく映る。別人のように見えたわけではない。ただ、徹自身が加耶のことをよく見ていなかったということだ。


 無を塞ぎたくて寝返りを打つ。うつ伏せになって視界を暗くした。暗くしても瞼の裏の世界はやはり、美しいプラネタリウムを見せてはくれないようだ。浮かび上がったのはホテルの一室。あの日のことが俯瞰して見えた。自分の欲望しか見えていなかった徹が浮き彫りになる。自分の欲を誰かに必死に当てる姿。見ていて吐き気を(もよお)しそうだ。咄嗟(とっさ)に暗闇から抜けようと再び寝返りを打った。


 天井を見ても、瞼の裏を見ても、徹から加耶の残像は消えなかった。事実上、恋人関係からただのクラスメイトの関係に戻ったというのにだ。


 これほどまでに加耶に()れていたとは――。今までは加耶を目の前にしていながら、手を繋いでいながら(ほう)けていたということか。後悔というものは末恐ろしい。


 しかし、もう別れてしまったのだ。たとえ加耶にまだ恋愛感情が残っていようとも、修復されることはまずない。


 一般人と芸能人の関係になったと比喩すれば皮肉ではない。元に戻っただけだ。


 たかが数日があっという間に過ぎていったようだった。加耶から告白されたのが昨日のことのように思える。




 いつの間にか眠ってしまっていた徹が目を覚ましたのは、香奈枝が夕飯の支度を終えて呼びに来たときだった。「夕飯できたよ」香奈枝はいつも通り徹を呼んだ。徹は立ち上がり、一階の居間へと階段を下りた。


 居間のテーブルにはすでに夕食が並んでいた。座ると、ご飯に味噌汁におかずはマーボーナス。タッパに入った野沢(のざわ)()の漬物は残り物だろう。切り分けられた林檎は奮発してスーパーで買ってきたのだろうか。まだ東京に住んでいた頃は毎日のように食卓に林檎が上がっていた。亡くなった祖母が田舎から送ってきたものだった。


「いただきます」と呟き林檎を一切れ手に取る。じっと眺めるが蜜が入っていないようだった。十月後半とはいえ、ふじはもう旬の時期に入っているはずだ。


「この林檎、蜜入ってないね」

「そうみたいね」


 初めて林檎の蜜を目にしたときは、なんだこの林檎、腐ってるのか、なんて思ったことを思い出す。俺の知っている林檎はもっと白くて梨みたいな色だ。このグレープフルーツみたいにところどころ透明になっているのは何なのだ。腐ってるんじゃないのか。


 東京のスーパーで出回っている林檎が、B級並みだったということは後に知ることとなった。自分が今まで食べていた林檎が蜜なしのB級品で、本当に旨い林檎は自分が腐っていると揶揄(やゆ)した蜜入りの林檎だと知った徹は、「別に蜜が入ってなくても上手いし」とよく香奈枝に意地を張った。


 徹は林檎を口にした。シャキシャキと音を立てる。


 箸に手を伸ばす。


 味噌汁を啜る。


 茶碗を持ってご飯を一口食べてみる。マーボーナスを乗せて口にかけ込んでみる。


 ――涙なんて出てこなかった。


「ねえ徹」

「なに」

「一昨日のこと、まだちゃんと話してなかったよね」香奈枝は味噌汁を啜りながら話し出した。


 一瞬だ。ガキの頃の説教が帰ってくるかと思ったが、大体説教される前に感じる予兆のような緊張感がなかった。ただ一応話すだけだろうと高を括る。


「悪かった。もう何もする気はないよ。ちょっと好奇心旺盛になっただけ。香奈枝がこの間彼女いないの、って恋愛がらみの話してきたから俺にも恋人なんてできるのかなーとか、一緒に遊んだらどんな感じかなー、ってちょっと想像しちゃっただけ。もう別れたし作る気もないから大丈夫。もう香奈枝に迷惑はかけないよ」


「徹、聞いて」香奈枝は箸を置いた。徹は「ん」と呟き味噌汁を啜る。


「徹、ちゃんと聞いて」香奈枝は再び言う。箸を置けということだと理解した徹は、素直に箸を置いた。徹がしっかりと香奈枝と目を合わせると、話し出した。


「私ね、最近ちょっと疲れちゃった」


 徹は、始まった、と思った。


「なに、仕事でなんかあったの?」

「それもあるけど、なんかずっともやもやしてて」

「悩み?」

「悩み……なのかな……」

「なんだ、はっきりしないな。なんか不安でもあるの?」

「……うんちょっと。それでね、その、仕事休んでもいいかな?」


 徹はそれを聞いて拍子抜けした。以前の香奈枝ならもっと同僚や上司の愚痴を吐いていたはずなのに、その程度のことに口を詰まらせるほど言いづらいことだったのだろうか。


「え、いいよ全然。お金とか気にしてるの? そんなの何とかなるよ。俺、駄目なら高校いかないでバイトしたっていいんだし、香奈枝が気にすることじゃないよ」


 すると香奈枝は気が抜けたかのように肩をついた。そんなに言いづらいことだったのだろうか。


「加耶とのことは怒らないんだね」

「怒って欲しかったの?」

「いや」

「なんか思い出しちゃったんだ、昔のこと」

「昔? 香奈枝って恋愛してたの?」

「そりゃするわよ。女の子だもの。あの頃が一番楽しかったかもなあ。やっと信頼できる人を見つけて付き合い始めてさ」


 じゃあ今は楽しくないんだ……そんな言葉を徹は飲み込む。これは言ってはいけない言葉だ。感じたことを何でもかんでもすぐ言葉にするものではない。


「今からでも遅くないんじゃない?」


 香奈枝は動きを止め、あからさまに戸惑った。


「えっとそれは……」

「俺は別にいいよ。もう一回経験してることだから一度も二度も変わんないし、それにもうガキじゃあるまいし」

「徹はいつからそんなに言いたいことを素直に言えるような性格になったの?」

「さあ。香奈枝が身近に感じるからじゃない?」

「あら、嬉しいこと言ってくれるわね。好きになっちゃいそう」

「気持ち悪いわ。モンスターペアレントとかはやめてくれよ」

「そんなに私魅力ない?」

「だっておばさんじゃん」

「……ねえ徹。変なこと聞いていい?」

「なに」

「私にも加耶ちゃんにしたことと同じことできる?」


 ドグッと徹は胸のあたりに違和を感じた。


「私は徹が幸せを感じるなら構わないよ。徹が私にとって一番大事だから」


 は? 何言って――。


 頭がグラついた。


 蘇ってくる。あれが。あれが来る。


 好奇心が――。


 鳴ってもいない音が聴こえてくる。ポンポンポンポン。パンパンパンパン。今度は拍手の音だ。パチパチパチパチ。長い間隔がだんだんと狭まっていく。

 欲しい。欲しい。そのブラウスの向こう側が。ベージュのブラウスの裏側が見てみたい。下着が見える、じゃあ次は下着の下だ。その先が見たい。触れたい。触ってみたい。加耶とはまた違った身体をしているに決まっている。どんな身体だろうか。想像が止まない。滑らかで肌触りのよさそうなウェストライン。加速する。促される。いつの間にか股間が膨らんでいる。

 徹の顔が引きつった。目が見開かれる。充血したように白目に赤線が引かれる。奥へ、奥へ、知りたい、知りたい。拍手は未だに鳴り続けている。ここは何処だ。きっとライブハウス。おじさんの肩の上に乗っている。聴こえるのはアンコール前の観衆の拍手。おじさんは徹の両足を落ちないようにと両手で掴んでいる。

 右足からふっと掴まれていた手が離れた気がした。忍ぶ指先――。


 ――ああそういうことだったのか。


 徹は我に返った。


「大丈夫。俺の幸せくらい俺が決める。だから香奈枝は明日から無理しないでね。仕事休みたくなったらいつでも休んでいいし、家事が嫌になったら俺に投げてくれていい。それでお金が無くなって生きていけなくなっても、香奈枝が構わないってのと同じで俺も構わない。香奈枝が苦しんでる方が苦しい。それに案外何とかなるからさ。だから、明日は寝てなさいよ?」


 徹は自分でしゃべっていながらよくもこんな言葉が出てきたな、と思った。今しがた香奈枝への性的興奮を覚えていたというのに、一瞬で冷めて労わるような驕った言葉をかけた。


 不思議だった。香奈枝に無理しないで欲しいという気持ちが本物だからこそ不思議だった。


 襲ってしまいたい好奇心が一瞬で消えていったようだ。今は労わりたい気持ちが前面に出ている。


「ありがとう」


 そんな香奈枝の言葉に、やっぱり徹は嬉しいという感情を抱かなかった。




 食事を終え、食べ終わった食器を台所へ持っていく。徹に続いて香奈枝が食器を運んできて流しの中へと置いた。


「今日は俺やっとくよ」

「そう? じゃあ甘えちゃおうかな」


 香奈枝は台所から出て行く。ソファに座る音が聴こえたので、また小説でも読んでいるのだろう。


 水道から水を出し、ガシャガシャと汚れを落とす。スポンジを手に取って食器用洗剤をかける。ぐしゃぐしゃと二回スポンジを握り、茶碗の中を洗い始めた。茶碗が終わればお椀、皿、香奈枝の茶碗、お椀、皿、と次々に洗っていく。何か不気味だ。ただそういう自分の中にある言語化できないものへ懐疑(かいぎ)になりながら。


 食器を洗い終えた徹が居間に戻ると、「先お風呂入っていいよ」と香奈枝が呟く。「ああ」と曖昧に答え、そのまま浴室へと向かった。


 身ぐるみを全部はいで、浴槽につかる。バシャバシャと顔をお湯で拭う。


 こうして湯船に浸かっているときはいろんなことが頭の中で浮かんだ。加耶や畑中たちとの毎日毎日積み重ねた放課後の時間。あの日は珍しく畑中の機嫌がよくてみんなで茶化したな――そういえば、普段そんなに自分のことを話さない聞き上手の水無瀬が恋愛について語っていたな――相川の付き合っているバスケ部の先輩のイケメンエピソード。


 そして香奈枝のこと――。


 湯船の中では冷静になれることが多かった。そして、大概思い出すのは過去に起きた印象的な思い出だ。徹は過去に囚われているのだろうか。男性脳に無意識に操られて論理的に思い出を掘り下げていく。あの日、俺が姫野に珍しく当たってしまったのは、国語の点数が悪かったから。テストの点数が悪くても能天気に「俺も点数低いから気にすんなよ」なんて慰められてつい、自分の中の鬱憤(うっぷん)を晴らしたくなって八つ当たりしたかったから。香奈枝が寝坊して朝飯抜きになったとき、「ごめん」と言ってくれたのに「いつもありがとう。疲れてるよね」と素直に言えなかったのは、面と向かって香奈枝と話すのが恥ずかしかったから。


 思い返せば後悔ばかりだった。その日その日で起きたことを思い出して、脳内反省会をする。「俺はあのときこうすればよかったんだ」と起こってしまった事実を曲げて、あの場での最良のドラマを頭に描いては安心する。次の日には忘れている。


 きっと徹は人から嫌われたくないのだろう。


 高い理想を追い求めているのだろう。


 完璧な人間でいたいと望んでいるのだろう。


 しかし、誰にも嫌われず憎まれ口を叩かれない人間など、この世に存在しない。そのことに徹は人から嫌われることで気がついた。学校へ行けば顔ぐらいしか知らないような輩に噂話をされる。ひそひそと話されている。酷く不快だった。


 でも吹っ切れてしまった。嫌われていることを自覚したからだろう。特定の人物から嫌われているわけではないのだ。不特定多数だ。嫌われない人間なんていない。誰しも嫌いな人の一人か二人はいる。苦手な人が二人や三人いる。三つや四つの悩みや不安や取り返しのつかない後悔はあるに決まっている。


 人は一日の間に何万回と選択をしている。朝目覚めてまず服を脱ごうか眼鏡をかけてから脱ごうか迷う。階段を下りて居間に入る前に学校へ行く支度をしてしまおうか。階段を下りて居間に入るドアの直前で先にトイレに入ろうかと思って(きびす)を返す。居間のテーブルに並べられた朝食は、ご飯から手をつけようか味噌汁から手を付けようか。一度持った箸をテーブルに置き、素手で林檎を一切れ口に運んだ。


 そんな何千、何万、何億通りの中の最善の一筋を選び抜くなど、(はな)から無理に決まっている。


 受け入れるのだ。自分の過去も、後悔も、これから起こる未来でさえも。地に落ち切ったことで、今まで綺麗事だと思っていた有名人の言葉、やっとその意味が分かる。


 受け入れる――果たして好んで受け入れたのか認めざるを得なかったのかどうかは大いに疑問だが、そうすることで自然と現在は生きやすくなっていた。


 徹の肩から荷物が下りた。軽くなった。それを感じている。


 香奈枝の為に生きよう。今まで女手一つで徹を育て、さんざん迷惑をかけてきたのだから少しくらい香奈枝の為に生きてみよう。


 そう思うことでどこかの村民たちみたいに安心したかったのだ。無数の選択肢を強いられる現実に、「香奈枝の為に生きる」という理由をつけることで生きやすくなった。もう迷うことはない。たとえ自分の欲求によって友人の仲のいい関係性を壊したくなっても、香奈枝のことを考えれば諦められる。それを理由にすればいいだけなのだから。迷った選択の前で「香奈枝のため」という理由を思い出す。それだけでいいのだから。


 人生は実にシンプルだ。この世界もシンプルすぎる。自分が「シンプルだ」と思うだけで簡単に「シンプル」になってしまう。


 もう過去も未来も論理的に考えるのは疲れた。


 徹はもう一度湯船のお湯を顔にかけた。


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