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この話はフィクションです  作者: 面映唯
【スケープゴート】
14/29

 噂というものは歯止めが利かないようだ。どこから発生してどこから広まっていったのか当人たちには予想もつかない。気づいたときにはすでに蔓延していて歯止めが利かない状況。ほとぼりが冷めるまでの間はとても居心地の悪い空間。昨日まで普通の毎日だったのに、明日も同じような日が来ると思っていたはずなのに突然景色を変えた今日。昨日から見れば明日。日中の空は青いはずだと思っていたが、朝っぱらから真っ赤に染まることもあるようだ。唐突に現れた真っ赤な空。同じように唐突に変化する真っ青な空を待つしかない。


 だが、真っ青に空が染まる日がいつかなんて予想もつかない。当人たちだけに見えている真っ赤な空の下で生きている間は、安寧だった「過去」と居心地の悪い「現在」と明日も続くだろう「未来」の痛みに耐えていくしかない。


「なぜ俺はあんなことをしてしまったのだ」と、あの日の後悔をずっと背負っていかなければならない。


 たとえ元の真っ青な空に姿を変えようとも、一度真っ赤になってしまった時点で「真っ赤な空になった」という過去の記憶として当人たちの経歴に植え付けられる。


 徹は学年で顔や名の知れるほど有名ではなかった。朝、登校してみれば、教室に行くまでの階段でも廊下でも視線を感じる。何かひそひそと呟かれている気持ち悪さ。被害妄想かもしれないと逃げるように教室に入れば、教室の方が気持ち悪かった。視線を感じるくらいならまだよかったのだ。ひそひそなんてまだいい方だったのだ。教室内では露骨に視線を感じ、ひそひその声がちゃんと耳に入ってくる。


 面白いくらいに噂が広まっていた。たかが一日でだ。毎日面倒臭そうな鬱屈面(うっくつづら)で生活していた生徒たちの表情が、妙に明るい。思春期の中学生には火に油を注ぐ様なネタだったのだろう。性や恋愛に関して敏感なのかもしれない。徹と同じで好奇心旺盛なのかもしれない。


 たった一日でこんなにも変わってしまうとは、人が落ちていく様子はそれだけ気持ちのいい感情なのだろう。


 徹にはその気持ちがよくわかった。ありきたりの毎日をぶち壊す会心の一手。誰も予想していなかった光景。明日もちゃんと来ると思って眠りについたのに、朝起きてみれば人智を超えた軍事技術のミサイル兵器が空から星の数ほど降っている。異星人に侵略されているとテレビキャスターが喫緊(きっきん)した様子で連呼。逃げようと外に出ればゾンビの群れ。見るからに正気ではない人々が隊列をなして襲ってくる白兵戦。


 皆が心のどこかで密かに隠し持ち、普通ではない背筋がぞくぞくするような生き心地を望んでいる。誰かの幸せを嫌い、嫉妬し、なぜ自分が毎日毎日好きでもない仕事に明け暮れていて、あんな貧相でブスな輩たちが幸せそうなのだと癇癪(かんしゃく)を起こす赤子の心。構って欲しい。だからちょっかいを出す。幸せを見ているのが辛いから。信頼に亀裂を入れて、存分に旨い飯を食うおかずにする。


 これは誰にでもありうる感情だ。


 だけれども、幸せを壊される側はたまったもんじゃないよねって話だ。自分が幸せではないときは壊したくなるが、自分が幸せなときは壊されたくない。他人の悪口を言うのは楽しいが、言われるとキレる。図々しく、そして自分本位な生き方。他人の尊厳を無視して尊重すらしない欲深さ。


 人間は傲慢だ。怠慢だ。慢心だ。それでいて満身(まんしん)創痍(そうい)薄弱嘆く。三慢、七慢八慢九慢。人の慢など腐るほど。いつから我慢は善だと見られるようになった。自分本位に自惚れて他人を軽んじたのはどっちだ。


 徹はこのときそれを一番よくわかっていた。人間の傲慢さは両方の立場になったことがある者だけが知れる。


 徹は自分の数えきれない煩悩に苛立っていた。自席に座って。音が消えた教室で。自分の心臓以外がスローで動く教室で。孤立した雰囲気に浸って。



 昨日、双方の親が学校に呼び出された。二十一時近くになって現れた加耶の母親はえらく激怒していた。当然だろう。若気の至りなんて言えたものじゃない。ましてや未成年だ。「女性は罪を背負わされて生きているのよ」「男はこれだから」だなんて言葉も聞きたくなかった。


 でもそれくらいのことを徹はしたのだ。


 香奈枝も夜勤だったようだが、呼び出されて二十時過ぎには会議室に来ていた。


「もう金輪際娘と関わらないで」


 加耶の母親の一言で五者面談は幕を閉じた。


 昇降口で別れ際、香奈枝が何度も頭を下げていた。


 それを徹は呆然と眺めていた。


「ほらあんたも」と香奈枝に頭を押されて頭が下がる。自分の上履きが見える。フローリングに傷がついていて汚い。

 と、意外と冷静でいられる自分に驚く。もっと申し訳なさや贖罪の気持ちが表に出るのかと思ったが、そうでもなかった。俺は悪いことをしたのか。確かに悪いことをした。でもそれって俺の役目じゃなったか? 俺の大好きな普通の毎日じゃなかったっけ? 俺の思う普通はこれだよね? あれ、なんでだろう。普通の定義がいっぱいだ。頭が上がらない……。


 顔を上げた徹は、母親に連れられて帰る加耶の後姿を目にしていた。隣ではまだ香奈枝が腰を折ったままだった。


「帰ろ」


 身体を起こした香奈枝が言った。


 夜遅かったので自転車は置いて香奈枝の車で帰った。車内では二人とも無言だった。家に帰ってからもそれは同じだった。香奈枝は一人居間で夕飯を食べていたようだが、徹はそんな気にはなれなかった。風呂にも入らず、寝間着にも着替えず、指定ジャージ姿のままベッドに倒れこんだ。そんな徹を香奈枝は許した。「気分が乘らなくても夕飯ぐらい一緒に食べなさい」と普通なら言ってきそうなものだが、香奈枝が徹を呼びに来ることはなかった。


 翌朝も同じだ。昨日しゃべらずに寝てしまったことで、なんとなく口を開く気になれなかった。香奈枝は「朝ご飯は?」「歯は磨いた?」「学校まで送ろうか?」などいつも通り話しかけてくれる。徹は顔を横に振ったり縦に振ったりするだけで、口では返事をしなかった。


 ジャージに着替えて、指定鞄を背負って、玄関で靴を履く。玄関のドアを開けて外に出る。閉まりかけたドアの向こうから「いってらっしゃい」と囁く程度の声が聞こえた気がした。


 自転車で通っていた道を歩いてみると、また違った風景が見えた。自転車だと感じる疾走感もないし、風も感じない。昨日までは、数分で通り抜けていた農道が、永遠に続いていくように長く感じる。


 走った。学校に遅れてしまうからではなくて、なんとなく同じ景色にいたたまりたくなくて。内から心臓の音が聞こえる。鼓動が(うな)りを上げる。止まって歩く。脱力感と疲労感が全身に走る。服の内側で熱気がむんむんと行き場を無くしている。


 そして学校に着いて校門を抜ければこの様だ。毎日通っていた学校がまるで一度も行ったことのない他校のように感じる。昇降口も、階段も、廊下も教室も。授業と授業の合間の生徒が群がる時間はとても長く感じた。その代わりなのか授業中は短く感じた。早く終われと以前なら思っていた授業中が、もっと続けばいいのにと願ってしまうくらいに。


 放課後になって生徒は部活に出かけていく。部活のない帰宅部の連中はいつも通り教室に残ってだべる。昨日までなら隣で話していた加耶も、今日はすぐに席を立ちあがり相川と水無瀬の方へ行ってしまった。


 畑中と姫野は徹の机に寄ってきた。「なあなあ最近、欅坂にはまってんだ。アイドルではまったの初めてかも」といつも通りの会話。


「畑中も欅坂聴いてみろよ。月スカとか避雷針めっちゃいいよ。あと平手さんの角を曲がるとか。畑中は音楽とか興味なさそうだけどさ」

「あ、ああ聴いてみようかな」

「あら珍しく素直だね」

「うるせーな。俺だって多少は興味あんだよ。欅だってお前に訊くまでもなく知ってたわ」

「嘘、誰推し?」

「……あの新しく入ってきた子」

「二期生か。特徴を言え、特徴を」

「バレーやってたって言ってたっけな」

「ああ! 保乃ちゃんか。可愛いよな」


 姫野と畑中の会話が続いていく。


「徹は欅わかるっけ?」と姫野が徹に振る。

「俺も結構好きだよ」と徹はいつも通りを装って答える。

「どんな曲聴く?」

「青空が違うとかキミガイナイとか」

「徹、だいぶ聴いてんなそれ」


 放課後はいつも通りだった。いつも通り他愛もない話だった。誰かの視線も感じないしひそひそと噂をする声が耳につんざくこともない。なのに、そのいつも通りが息苦しかった。気を使われているんだろうということが徹にはわかった。畑中なんてアイドルの話なんか口にしたこともないだろうに合わせてくれている。


 徹の大好きないつも通りは、簡単に嫌いなものになってしまった。


 なんとなく過ごす時間は長くも短くも感じられた。姫野と畑中が帰り、相川と水無瀬も「じゃあね、また明日ー」と加耶に手を振っている。


「徹もじゃあね!」


 相川は元気いっぱいに徹に手を振り、水無瀬と一緒に教室を出て行った。


 二人だけになった教室はしんみりとしている。さっきまでの話声は消えた。相川の甲高い声も、姫川の「うそー」という口癖も、この教室には残っていない。


「なんか思い出すね」


 水無瀬の机に腰掛けていた加耶は呟く。夕日が差し込んでオレンジ色になった窓の外を眺めている。


 思い出しているのはきっと加耶が徹に告白した日のことだろう。あの日の放課後もこんな風に夕日が綺麗で、上手い具合に窓枠の形が生徒たちの机の上に大きく影を作っていた。


「なんか言いづらいんだよね。友達と誰と付き合ってるって話になったときにさ、私から告白したって」

「恥ずかしい?」

「いや……」と加耶は顔を振る。「恥ずかしいんじゃなくて、みんなの見てる理想が男子の方からの告白だからなんだと思う」


 徹は窓を眺めている加耶を見ていた。髪の毛のてっぺん辺りに夕日が当たって白い輪っかを作っている。黒髪が少し茶色気を増していた。


 絶世の美女――クレオパトラでも楊貴妃でも小野小町でもないあなたが、それに勝る美しさを纏っているように見えた。


 ――これはあれだ。何かを失う直前になって気づく本当の価値。後悔することによって対象の価値が跳ね上がる、もっと大事にするべきだった、という後悔。


 物事の価値はいつも終わった後に現れた。生きているときには周りから否定され続け、死んだ後にやっとノーベル賞をもらった皮肉な学者にとって、死後の名誉は価値があるのだろうか。


 徹は無価値だと思った。自分が死んだ後の世界になんて興味がない。ただ、その名誉ある学者と徹との違いは、徹はまだ生きていて明日が待っているということだった。登下校中の不慮の交通事故などで明日死んでしまわない限りは毎日明日がやってくる。


 生きていかなければならない。鉛のようにのしかかった後悔と、再び後悔を繰り返してしまうかもしれないという不安と、その二つに耐えて生きていく現在の重さ。それをちょっとだけ軽くするのが、先の見えない愚図な希望だというだけ。


 後悔も不安も少しの希望も、死んでしまったらどうでもいいことなのだと徹は悟っていた。自分の死後の世界で名誉な偉人と讃えられようが、否定され続けたままの醜い学者でいようが、死んでしまったらどうでもいいことなのだと。


 死んでしまえば、この美しい加耶の姿もどうでもよくなってしまうのだろうか――。


 加耶が呟く。


「難しいよね。誰かのことを好きになって付き合いたいって思うのに、女の子は好きな男の子からの告白を待ってなきゃいけない。だからいろいろあざとくなったりアプローチするわけなんだけど、それでも女の子の好意に気づかなかったり、逆に近づきすぎて嫌われちゃったりするし。男の子は男の子で告白するのにも勇気がいるだろうしさ。難しいなあ、恋愛って。もっと私も軽く考えられればいいんだけどね」


「加耶は……」徹は固唾を吞む。「加耶は、俺から告白してもらいたかった?」


 首を振った。


「まあそれも少しはある。でも、私は付き合って徹くんと一緒に居られれば何でもよかったから、今となっちゃどうでもいいことかな」


「ごめん」徹が謝ると、ずっと楽な姿勢で窓の外を見ていた加耶の身体が突然動いた。


「いやいや、徹くんが謝ることじゃないよ。別に付き合ったらそういうことはいつかはすることだったし。ちょっと早まっちゃっただけ。それに私が泊まろうなんて言ったのも悪かったし。それにね、前も言った気がするんだけど覚えてるかな。うちの家族ってそういう恋愛の話がタブーみたいなところあるのよ。もっと恋愛に関して打ち解けた話ができるような家族だったらさ、こんなことにもならなかったのかもしれない。うちのお母さんさ、真面目すぎるんだ。自分がいろいろ苦労してきたからだと思うんだけど、結構厳しくてさー。風邪ひいても学校行けーとかうるさいんだよ。友達にね、仲のいいカップルがいるんだけど、彼氏が彼女の家までお見舞いに行ってるって聞いたら羨ましいなあって思って。あ、あとね! それに……」


 加耶はそこで黙った。一寸俯いて、身体を窓の方へと向き直した。そのときに揺れた彼女の髪が、徹の目にはとても魅力的に映った。小野小町のような、そんな女性の魅力を感じた。


「なかったことにしちゃおっか」


 加耶は窓の景色に向かって呟く。机を降りて、窓を開けた。桟に腕をついて手の甲の上に顎をのせる。


 窓から入ってきた涼しい風が、彼女の髪の毛を揺らした。


「ねえ知ってた? 過去ってなかったことにできるんだよ」


「は? どうやって?」徹が聞くと、加耶が驚いたように振り返る。


「え、どうやって? どうやってかー。忘れるとか?」

「自分でできるって言ったのにわかってない……」

「ごめんごめん。そうだよね。私結構適当なところあってさ。明日のこととか昨日のこととか考えられないんだよね。こないだ読んだ少女漫画でさ、ヒロインが好きな人からのメール見返してベッドでゴロゴロしてたんだけど、私は見返したりしないし、ゴロゴロもできないし。今しか見えないんだ。今日あったこと、よくても今日の晩ご飯何かなあ、ぐらいでさ。だからさ、徹くんも過去に捉われちゃ駄目だよ。今回の件はこれでお仕舞い! 明日もちゃんと学校来るんだよ? わかった?」


 香奈枝が約束するときのような言い草に、徹は「はいはい」と軽く答えてしまう。「はいは一回!」と加耶が言ったため、笑ってしまった。


「えーなんで笑うのー? 誤魔化さないでちゃんと約束して。明日から隣の席が空席になったら話し相手がいなくてつまらないでしょ?」


 ちゃんと約束して、と言うあたりがまさに香奈枝みたいだった。徹は「はい!」と元気よく返事をして、加耶の元に歩み寄る。


「小指出して」と自分の小指を出しながら言うと、加耶も理解したようで小指を出した。


「『ゆーびきーりげーんまん――』」


 二人の掛け声の中、徹の心の中は何かが終わっていくような感覚だった。恋愛を軽んじるのは簡単だ。深く深く考えるときりがないから「面倒だ」「お前なんでそんなむきになって恋愛してんの?」とこじつけて、己の真面目さをひた隠そうとする。


 何かが始まったということは、いつかは何かが終わるということ。指切りの掛け声が始まると同時に、舞台の幕が閉まっていく。そして、掛け声が終わったと同時に幕は完全に閉じてしまう。


 小指と小指の絡まりが解かれる。


「じゃあね!」


 加耶の声がした。

 もうそこには誰もいない。

 教室を見渡しても、掌の上に残像も。


 繋いでいた手はいとも容易く離れていった。


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