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この話はフィクションです  作者: 面映唯
【スケープゴート】
12/29

3

 放課後、隣に座っていた加耶が訳もなく徹の顔を覗き込んでいた。


「え、何?」

「なんか今日の徹くんおかしくない?」

「そうか、ね」

「うん。なんか給食食べてるときすごく暗かったし。もしかして社会科のときのせい? あれ気分悪くなっちゃったよねー。誰が悪いとかじゃなくてさー」


 加耶は後ろの方で畑中と話している姫野に向かって言った。


「ごめんて加耶ー。今度から気を付けるから許してー」


 加耶は柔らかく姫野を睨んで、徹との会話に戻る。


「姫野くんっていつもあんな感じよね。いっつもふざけた感じで、ほんと懲りないねー」


 後ろから「加耶ちゃん聞こえてるー。もっと小さな声でねー」と姫野が言う。加耶はしっしと手で払う仕草で適当にあしらう。


「姫野がどういうつもりであんなキャラしてるのかは興味ないけど、今日のことに関して言うなら姫野に非はないよ」

「あ、そーなの? てっきりまた姫野くんかーなんて思っちゃってた」

「俺の予想じゃ多分姫野冥利(みょうり)だとは思うんだけど……」

「どういうこと?」

「姫野、加耶の好きそうな顔してるからよかったってこと」

「なによそれ」

「加耶は姫野のこと好き?」


 加耶は大げさにぶんぶん、と手を横に三回振った。


「ないないない。あれはないよ。あんなの好きだったら自分の身が持たないって」


 後ろから「加耶ちゃん、俺のこと話してくれるのは嬉しいけどそれディスー。もっとひそひそ話しテー」と再び姫野に聴こえていたようだ。


「ごめんごめん。顔だ、け、は、好みかもしんない。百歩、あ、いや一万歩譲ってだけど」

「一万歩って酷くないか……」


「まあ姫野だしな」と畑中がぶっきらぼうに言う。


「え、なになに、面白そうな話してんじゃん」相川(あいかわ)(とも)()が話に入ってくる。相川が寄りかかっている窓際の机では、水無瀬(みなせ)(かおり)が日誌を書いていた。


「友美ー、姫野くんってイケメンかな」

「え、嘘。加耶あんた姫野がイケメンだと思ってたの? 許容範囲広いな」


「横顔は結構シュッとしてるんだけど正面がなー」水無瀬が日誌を書きながら顔をしかめる。


「おいおい、本人がいる前でそんなことしゃべるなよー。女性から言われると余計傷つくんですけど」

「え、待って待って。姫野って女性とか言う人だったっけ? 紳士ぶらないで」

「余計嫌われるよ? どうせもう落ちに落ちて地に這いつくばってんだから、せめて素直に生きなさいよ。見栄なんか張らずに、さっ」


 水無瀬が消しカスを丸めて姫野に投げる。


「おい、やめろや。さすがにおこんぞ」

「あー姫野のくせに舐めた口きいてるー! あんた消しカスで済んでんだから喜びなさいよ。本当だったら消しゴム飛んでるとこだったんだからね」

「わーいわーい」


「うぜっ」相川が水無瀬の消しゴムを取って投げつける。


「うわっ本当に投げてきやがった」

「当たり前でしょ? 嘘なんかつかねーよ。このっこのっ」水無瀬の書く日誌の上から消しカスを取って姫野に投げる。


「うわ、あり得ねこの女っ。仕返しの刑ー」水無瀬の消しゴムを今度は姫野が投げる。相川は上手く身体を逸らす。


「ざんねーん」

「うわ、うざすぎ、ゆるさん。消しゴムちぎって投げつけたろうか」姫野は立ち上がって黒板付近に落ちた消しゴムを拾いに行く。


「消しゴムの方が痛いでしょ。頭悪い奴はこれだから……」

「うるせーよ! ちぎった消しゴムのほーがつえーんだよ。ほらっ」躊躇なくちぎって投げつける。


「あっ確かになんか舐められた嫌な感じする! 私も消しゴム持ってくるから待ってろ」相川が筆記具を取りに自席に移動する。姫野は「勝負ジャー」と楽しげにポーズを決めている。


「あのー私の消しゴムー」

「ほら」


 傍目で見ていた畑中は徐に立ち上がり、水無瀬の机に自分の消しゴムを置いた。


「あ、ありがとう」


 中学の放課後なんてこんなものだ。どうでもいいことを話して、どうでもいいことに夢中になって、そこに友情や愛が芽生える。コミュニケーションが成り立つ。


 こんなものだ。これが徹の愛する普通の毎日だ。


 ――そんな、昨日からもっと前から出来上がっていた普通の毎日を、偶に壊してみたくなる。


 普通を望んでいるはずなのに、普通をぶち壊してみたくもなる。時折、無性に腹の底から叫びたくなる。つまらない、なぜ俺は生きている。でも普通が好きで愛している。


 矛盾、ジレンマ。


 徹は机に肘をついて相川や水無瀬の動向を眺めていた。この平和的で無邪気な彼らの間にスッ、と毒針を差し込んだらどうなるだろうか。


 その未来への好奇心。


「体調悪い?」


 隣で加耶が心配そうに見つめる。おそらく徹が肘をついて怠そうな体制だったからだろう。


「全然! すこぶる好調」

「ならいいんだけど……」


 他人を心配する余裕があるなんて加耶もできた人間だ。優しいと言ってくる奴は大体優しい。本当に心配しているのではなく、コミュニケーションの間に生まれた()を埋めようとしただけだと一瞬頭に過る。


 加耶に関しては、そこを問い質すほどの好奇心はなかった。


「何?」


 徹は加耶の顔を眺めていた。「いや……」と曖昧に返事をする。まじまじと見ると、加耶の顔は整っているように見えた。こんなに美人だったっけと訝るほどだ。


 女性に好きな人ができると自然と美人になっていくと聞いたことがある。加耶の顔が整って見えるのは徹と付き合い出したからだろうか。それとも、徹が加耶の顔をまじまじと見たことが今までになく、元から美人だっただけだろうか。徹の心が綺麗になって、加耶に恋心を抱いた心情の変化からだろうか。


 ライブを見に東京へ行った日の夜。ビジネスホテルで二人は恋人まがいな行為に及んだ。普段から普通の毎日を好んでいた徹にとって、あの日の自分は普段の自分ではないという感覚を手にした。これ以上の幸福はいらない、普通の毎日があればそれで充分、そう思っていた徹が珍しく好奇心を抱いた。思い描いた普通以上に手を伸ばした。女性の身体に触れたい、普段服で隠されている向こう側の感触、互いに交わったときの感覚。それは人間が持ち得ている至極当然な欲求によるものなのか。


 徹は直観的に違うと思った。これはそんな誰もが経験する恋愛の一部ではない。もっと深くて、グロテスクで、気持ちが悪いものだ。


 俺は生きていてはいけない人なのかもしれない……。


 想い浮かんだのはそんな言葉だった。


 恍惚に至るまでの間は好奇心によって自分の感情しか見えていなかった。もっと触れたい、この後の快感を手にしたい、その快感は本当に快感なのか、自分の欲望のみが見えていた。しかし、恍惚を得た後は一瞬で我に返った。冷静になって仰向けになる加耶の上裸を眺めていたら、急に不安になった。


 俺はとんでもないことをしてしまったのではないか、と。


 普通の毎日をこよなく愛しているはずなのに突然現れた好奇心や性欲。奥が深すぎる人間の欲望に疑心暗鬼になった。


 俺は誰なんだ。

 俺はどういう人間なんだ。

 俺は何をしていたい人なんだ。

 したいことが見当たらない。

 満たされる想像が何一つない。


 俺の欲しいものはなんだ。座右の銘は? 心に固く誓ったことは? 誓ったはずなのになぜこんな汚い人間の行いをしたんだ。


 性欲は……性交は……俺がこの世で一番憎んでいたものだというのに。





 いつか思ったことがあった。自分にとっての幸せとは何か。小学校の道徳の授業で「心とはなんだと思いますか?」「幸せとはどういうことでしょうか」なんて問いを生徒に出した担任の顔が目に浮かんだ。小学生当時の徹には、「心」「幸せ」という実に抽象的で不確かな単語に頭を悩ませた。心って何だろうか。幸せって何だろうか。考えたところで答えは出てこなかった。


「考えることが大事なんです。これから小学校を卒業して、中学を卒業して、大人になってからもずっと付き纏う問いだと先生は思う。今はわからなくていい。だから、この問いは心の隅に大切に置いて、偶に思い出してみて欲しい」


 担任の思惑通り、徹の心の隅にはこの不気味な問いが未だに置かれていた。ふとした瞬間に思い出す。風呂で湯船につかっているとき、シャワーを浴びているとき、部屋のベッドの上で眠りにつくまでの瞼の裏で、学校の勉強机の上で突っ伏しているとき、教員の声がまどろみの中で聞こえている間。そして、登下校の顔に当たる風が心地よいチャリンコの上で。そんなときに決まって徹は思い出す。幸せとは何か、心とは何か。俺にとっての幸せは、普通の毎日。心については抽象過ぎてよくわからないが、自分にとっての幸せならちゃんと定義できた。


 言語化して定義できていたはずだ。


 なのに、ホテルに加耶と泊まったあの日、徹は普通の毎日を嫌った。


 徹は加耶の顔を凝視する。加耶が困ったような表情をする。首を傾げた。後方で相川と姫野の消しゴムを投げ合う姿が見える。音がする。布団を叩く音にしては鈍い音だったが、確かに相川と姫野の服に交互に当たっている音がした。


 途端にホテルでの景色が戻ってくる。自分の懐にいる少女の目は澄んでいた。すべてを受け入れている目にも、もうどうでもいいや、という虚ろな目にもとれる。そっと彼女の手が自分の首に回っていた。


 ――それでもあれは、愛情表現などではなく、多分、暴力だ。




 徹の中に何か良からぬものが潜んでいる。それは一般の中学生が気づくには早すぎる。だが、徹は気づき始めていた。


 普通の毎日だと思っていた日常は全然普通ではなかった。「普通がいい」という欲望は、逆を言えば普通じゃない自分を嫌っているということ。


 普通が好きなのではなくて、普通じゃない自分が嫌いだったから。普通じゃない自分が倫理的に反していけないことだとわかっているから。


 全部無意識だ。


 普通でいたい欲望と、普通じゃない自分でいたい欲望の両価性。徹はまだ、この後者の存在を言語化して定義することはできていなかった。


 だから苦しいのだ。


 信じられなくなるのだ。自分も、自分の考えることでさえも。


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