1
誰も悪くない。
油蝉の声が聞こえる。その身体をしきりに震わせて唸るような繰り返し音は、パトカーがものすごい形相で一心不乱に車を追跡する音にも、救急車が通行車両の間を優遇され、一早く現場へと急ぐ音にも聞こえた。
馬鹿な話だ。蝉など夏の間しか生きられないというのに、急いでどうするというのだ。公園の木々の間を飛び回って、木に張り付いてゆっくり今を噛み締め、ミンミン鳴いていればいいだろうに。
どうして皆、そんなに生き急ぐのだろう。
また油蝉の声が聞こえた。パトカーは一般車両に傷をつけて通りすがっていった。救急車は「どいてください」としきりに怒号でアナウンスしている。
法治国家の行く末と、死の運命に抗って利益を手にした現代の行く末。アノミーとチープな怪我に絶たれる生命。本当に大事なのはどっちなのだろうかと最近は思ったりもする。
「ねえ、お母さん見てみてー」
庭で遊んでいた息子が、虫籠を掲げていた。
「おおーすごいねー。蟷螂と紋白蝶?」
「そうー。ぼくが捕まえたんだよ」
息子は笑いながら嬉しそうに籠を眺めていた。「もっと仲間を増やしてあげなきゃ」と、虫網片手に再び庭の花壇を歩き回っている。
私はしゃがんだ。息子の置いていった虫籠の中をじっと見つめる。緑の透き通った蟷螂と、籠の中を飛び回る紋白蝶。息子は「仲間」と言ったが、私にはどうもこの二匹が仲間の様には見えなかった。
息子が騒いでいる。振り向けば、土の上に置かれた虫網の中で紋白蝶が羽をばたつかせていた。
「もう一匹捕った! 早く籠に入れなきゃ」
息子の声が聴こえ、私は籠を息子の元へ持っていき、手渡した。地面に置いて蓋を開けた息子は、素早く籠の中に紋白蝶を放って蓋を閉じる。
「あれー?」
「どうしたの?」
「ちょうちょが一匹いなくなってる。逃げちゃったのかな」
息子は首を傾げていた。
一度は怪訝に疑った息子も、すぐに立ち上がって走り出し、再び虫網を振るい始めた。
虫籠の中では今しがた息子が放った紋白蝶がパタパタと飛んでいた。
――私は知っている。さっきの紋白蝶の行方を。
――私は知っている。この紋白蝶の行方を。
油蝉がけたたましいサイレンを鳴らしている。そのサイレンは必死に犯人を追いかけ、一心不乱に現場へと急いでいる。
ただ、犯人と現場だけに焦点を当てて――。
ききーーどごーーんーー。
「あれれー、またちょうちょいなくなってる」
「ちょうちょはね、お母さんが逃がしてあげちゃったの。ほら、徹もそろそろ家に入るよ。アイス食べよ?」
「食べるー、ってあれ。お母さん泣いてるの?」
息子に言われて私は涙を流していることに気が付いた。




