びりびりするあじは、わたしをつかんだ
過去に何度か、彼のこの顔を見たことがある。いわゆる常識を超えた酷い行為を私も彼も許せない。ある程度は、お互い我慢する。基本的に、私たちは怒ることはあまりなく、何か問題があっても話をして解決することが多かった。美味しいご飯屋さんでもマナーのなっていない人たちが多い場合や態度の悪い店員さんがいる時でも、その場で声をかける事もなく、店内を出てから、次は行くのやめようねや時間をずらしていこうねなど、そういった感性が似ていた。だから、自分の心が狭いわけじゃないんだとわかって心地よかったのだが…それを超えてしまった出来事に出会った時に見た顔が、今目の前にある。
この顔を見たのを覚えているのは、痴漢をしていた人を捕まえた時だ。久々のデートで、私は、生きる術として人の顔や雰囲気、行動を読むのが癖になっていて、犯人になった男の行動にずっと違和感を感じていた。それを見た彼と私は、女の子に痴漢をした瞬間を目撃した。
本来なら、こういう時動くのは、難しいだろう。だけど、彼はすぐに動いた。写真を、と彼に言われ私は言い逃れができないよう触った様子を写真と動画に納めて、それが確認できた後、大股で歩く彼の後を追った。逃げられないように彼は男の腕を彼が捻り上げた。私は震えて泣きそうな女の子を抱きしめて、男と女の子の間に入った。
次の駅に降りた時、私が被害にあったの女の子を覆い隠すようにして慰めていると、犯人の男が喚き散らしていたが、とびきりの笑顔で、淡々と怒鳴っていなのに、これ以上怒らせてはいけないと思えるほどに、目が笑っていなくて、犯人が小さくなっていく様子を見て、こんな一面があったのかと感じたことを思い出す。
全てが終わった後、
「怒ったりするんだね」
と、思わず聞いてしまった。すると、
「怖がらせてたらごめん」
と謝られてしまった。昔からそうやって笑顔で淡々と怒る事が怖いと言われていたらしい。私は、怖い、というより、菩薩のような人だと思ったから、違う側面を見れて嬉しかったことを伝えた。
そう聞いて笑った彼は、どうして、痴漢を目撃して証拠を残したり、すぐ行動できたのかを教えてくれた。彼には三つ上のお姉さんがいるそうだが、学生時代に痴漢被害に遭い、電車に乗れなくなってしまった時期があったと話を聞いた。
当時は一緒に登下校はできず、力になれず助けられないことをとても悔やんだそうだ。仲のいい友達とも電車に乗れないことで出かけられないことに苦しむ姿や乗り物を変えて登下校をしたが、しばらく家に篭って、勇気を持って彼と一緒に電車に乗る練習をした際に、乗ってすぐに泣き出してしまいすぐに下車をして慰めて、そんなお姉さんの姿をずっと支えながら見てきたと離してくれた。
なんとか学校を卒業し、大学、社会人となった時には、電車通勤のない位置に住み、どうしても必要な時には車を使いどうしても乗らなくてはならない日は、人の少ない時間を狙うなどの工夫をしているが、ひどい日には恐怖を感じて乗れない日がある程だと教えてもらった。かなりの時間を費やしても今もなお囚われいてるお姉さんが頑張っていることを、お姉さんを大切に思っていることを教えてくれた。
そんなお姉さんの様子をそばで見て支えてきた彼にとって、痴漢行為は、無条件にブチギレる行為の一つになっていて、周りがどうだとかは考えず、助けると決めていたそうだ。
怒るのは元々苦手で、それでもどうしようもなく言わなくてはならない時には声を荒げないように淡々と正論をぶつけて話し合いを持っていけるようにしたが、友人には怖いと言われてしまったと教えてもらった。
そこまで話を聞いて彼は、本当に、怒ってる姿を見せてごめんと謝られたが、冷静に淡々と怒れるのは、自分を律していて怒鳴ったっていい事はないしすごいことだと思い、「怒ってる姿も、見れてよかった。無いのが一番いいけど、またあったら次も助けようね」と伝え、心では「私は、その顔をされながら淡々と怒られないようにしよう」と心に決めて指切りしたのを覚えている。
さて、散々過去を思い出して現実逃避をしたが、怒られないようにしようと思った顔が、目の前にある。どういった行動が最適解か。簡単である。
「ごめんなさい」
「何に対して謝ってるの? わかって謝ってないなら意味ないよね?」
「…」
先手必勝、謝罪攻撃は全く効果がなく、むしろ怒らせた。それはそうだ、正直何に対して怒っているのかわからない。あぁ、現実逃避したい。
「…あの、何に、怒ってますか」
「なんだと思う?」
「…トイレ、いったこと、ですか?」
「違う」
「えっと…」
思わず敬語になりながら頭を必死にぐるぐると回す。答えを捻り出したいが、本当に浮かばない。だが、怒っているのは確定である。謎かけせず、教えて欲しい気持ちでいっぱいになる。また理由がなく謝るのは怒りの火に油を注いだ後にガソリンをぶっかけるようなものだ。こんな時に大学の子がやっていたゲームのように選択肢が出てきたらいいのに。彼のことを観察すると、一つのことに気がついた。
────サッと血の気が引いた。
「ダンボール、の中身を見ました、か」
ダンボールの蓋が完全に開いていた。クッションのでもなく、食器のでもなく、日用品の彼が来たのに合わせて急いであれらをしまったダンボールが大きく開かれていた。トイレットペーパーを出した時には、畳んだから、蓋は開いていなかったはずだ。
「そうだね、正確にはメモ用紙が落ちてたからしまおうとしたら、メモの内容が見えたのがとっても刺激的な言葉だったから、嫌な予感がして見させてもらった」
「あ、あー…」
痛恨のミスというべきか、トイレに行きたくなった私の膀胱を責めるべきか、落ちたメモに恨みを馳せる。どうして最後まで上司は自分を苦しめてくるのか。憎まれているはずだが、私の方が憎みたくなった。
「ごめんなさい…」
「なんでこのメモのことを謝るの? 俺が怒ってるのは、まずはこの送り主。 誰かわかってるの?」
「ま、ぁ…目星はついてますね」
「警察は」
「…いって、ないです」
「は? なんていった?」
「いってないです!」
「はい。 君対して、もっと怒りました」
「なんで! 送り主だけって、私はなんで」
「だけなんて言ってない。 危機感があまりにない。 というか、そもそも君に怒ってたのがましただけ。」
ダンボールの方を向いて中身をガサガサと漁ったかと思うと、手には彼には見られる予定のなかったものたちがあった。しゃがみながら彼はいう。
「あんまり見たくなかったし認めたくなかったけど…この札束とこの管理人様と皆さんへって手紙何? 奨学金の死亡後のとこにご丁寧に線引いてあるの何? 保険金解約って何?」
彼がきた時にがさっと入れたものを一式ご丁寧に並べて、一つずつ追求される。浮気の証拠を突きつけられる人ってこんな気持ちだろうか、煮るなり焼くなりしてくれと思う人間の天を仰ぎたくなる人の気持ちがほんの少し理解できた気がした。
「ねぇ…死ぬ気だったの」
怒りではない、震えた彼の声が、シンとした部屋に響いた。




