それは、しげきてきなあじ
キッチンから戻ってきた彼の手には、二つのマグカップ一つを私に渡すと、行儀悪くてごめん、と言いながらもう一つのマグカップを床に置いた。
そのまま床に座ろうとするので、私が自分の下にあるクッションを渡そうとすると、
「いいから、それ、飲んでみて」
「…クッションて書いてあるダンボールから一個とって下にひいてくれたら、のむ」
そういうと彼は苦笑しながら、クッション外箱に大きく書いた書いたダンボールから一つを取り出して、そこに座った。意図することは分からないが差し出されたこれを飲めばいいのだろう。味が分からない私としては、先に聞いておきたかった。これが一体なんなの飲み物なのか。
床に置いてあるマグカップも手元にあるマグカップもどっちも真っ黒なのだ。
「これ、何?」
「アイスコーヒーだよ」
「…飲めば、いいんだよね?」
「うん」
じっとみてくる。匂いがしないけど、彼がいうのだからそうなのだろう。
「いただきます」
出されたのなら、彼から出されたならきっと毒でも飲んでしまいそうだと思いながら、一口飲む。こくり、と喉を通ったのに、思わず呆然としてしまった。喉の奥が少し、ひりつく感じがする。ただそれだけ、そう。ただそれだけで苦味を感じない。
ついに、苦味さえ私は、感じられない体になってしまったんだと、泣き出しそうなのを必死に堪えた。
「飲んだ? 味は?」
「ひとくち、飲んだよ、苦いよ。 喫茶店で無理して飲んだか、確認したかったの?」
「うん、こっちも一口飲んで」
「? こっちは、なに?」
「同じアイスコーヒーだよ」
「…なんで同じの飲むの?」
私は一体何を確認されているのだろう。コーヒーなら今飲んだはずだし、もう私は味を感じられないことをこれ以上知りたくなかった。
「水出しコーヒーで美味しいって噂だったから、飲んで?」
「…」
ずいっと差し出され、コップを交換され、さっきよりも少し薄く見えるそれ、水出しコーヒーというから、薄いのが普通なのかもしれない、ボトルに入っているとしっかりと色まで見ないから、こんないろだったんだと思いながら揺らぐ、黒い波を見ていた。
「これ、飲んだら…きた理由とか、なんで飲ませたのかとか、教えてくれるの?」
「うん、ちゃんというよ」
飲むまでこの人は言わないつもりだろう、とふぅと息を吐いてそれを飲んだ。やっぱり味がしない。下をひりつかせるような、あの苦味は感じない。喉の奥を刺激するような感覚もない。無味と言ってもいい。
水出しだからだあろうか、私が、もう感じられない体になったのだろうか。飲み終えた後、二杯を一口ずつしか飲んでいないのになんだか少し喉が渇く感じがしたが、コーヒーの時もよく感じていたから、きっとそれなのだろう。
彼を見ると、真剣な眼差しでこちらを見ていた。首を曲げ、何をそんなに真剣に見ているのだろうと思ったが、一口ずつ飲んだから、きっと答えがもらえるはずだろう。
「味は?」
「水出しだから、薄く感じたけど、苦味はあったよ」
「…そっか」
彼は、立ち上がるとキッチンに向かった。私は、彼のことを目で追うことはなく、コトッと床に置いた二つのコーヒーたちを見て、唯一の私の苦味が、救いが、なくなったことにとても悲しくて、これから救いなんてずっとないはずなのに、最後に、こんな思い知りたくなかったなと、顔を伏せて、味覚ともさよならなんだなと想いに耽っていた。
キッチンから戻ってた彼の手には、調味料があった。うちには、もう調味料はない。冷蔵庫の中は空っぽで、冷凍庫に唯一、いつか食べたかった料理があった。今更解凍したところで、もしかしたら、お腹を壊してしまうかもしれないけど、作ってくれた事と思うと捨てられなかった。
あっちに行って、たらふく味わう予定で、捨てずに冷凍庫に保存した。それ以外は、何もないはずなのに、床には、彼の手によって液体レモン、めんつゆ、醤油が並んでいた。
「これが、どうしたの?」
「今、君が飲んだもの」
「……え?」
「両方ともコーヒーじゃない。めんつゆをとレモンと醤油を混ぜたものと、めんつゆを薄めただけのもの」
「な、え、」
「苦いんだ?」
彼が、床に置いてあったコップの中身をひと口ずつ飲む、と思いっきりむせていた。ティッシュすらないこの部屋でどうしたらと、まず、お水を飲ませなくちゃと思い、一つのマグカップをうばい、中身を捨てて、何度も洗ってお水を入れて渡した。
受け取った先から、こくこくと喉を鳴らして飲む彼を見ると、どんな刺激物を作ったんだこの人はと思った。
「はー…すんごいしょっぱかったし、酸っぱかった…」
「そりゃ、これいれたんでしょう…? 飲まなければよかったのに…」
「君に飲ませて、自分が飲まないのはダメでしょ」
よく分からないところで真面目で笑ってしまいそうになる。だが、笑うことはなかった。
「お店で言ってくれた、味、わからないの本当なんじゃないかって、思ったんだ」
「…」
ひゅっと、私の喉が鳴った。言い訳はできないところまで来ているだろう。彼は、同じものを飲んで、息が乱れるほどの味がするものを私は感じることができなかったのだから。あの時、口にしなければよかった、でもそう思っても、もう溢れて消えた言葉は彼の中で確信になって消えることはないのだろう。私は、目を閉じて、観念したように頷いた。
「…お店でトイレに行ってる時に、備え付けのガムシロップ、コーヒーに混ぜたんだ。 だけど、何も言わなかった。 何か入れたとか、甘くなってるとか、何も言わなかった」
トイレに行っている間に、コーヒーにそんな細工をしてると誰が思うだろうか。確かに苦味があまり感じないと思ったが、だから飲んだ後、ずっと私のことを見ていたのか。
「一個だと勘違いって思われるといけないから、ちなみに三、四個入れた」
「待って、よくそんなに入れたね?」
思わず反論してしまった。いや反論してはいけないのだろうが、思い切りが良すぎないだろうか。
味覚がおかしくなっているとはいえ、本当に味がしていたらどうなっていたことか。甘いものは好きだったから、いいけど、と思いながら彼を見る。やっぱり、泣き出しそうな、怒りをどこにやっていいかわからないような、そんな顔をしていた。
そんな顔を最後にさせたくなかったな、と苦笑いをこぼした。




