それは、とつぜんのこと
バクバクとはやる心臓を落ち着かせて、ふぅと息を吐いた時、
─────ピロロロ、ピロロロ
誰かが来たことを知らせるオートロックのチャイムが鳴った。
驚きのあまり、まだベランダの地面に体重をかけていた足の方に体が揺らいだ。股が裂けそうになって、外に出ていた足をベランダの床につけたとたんに座り込んでしまった。
覚悟を、決めていたはずなのに。生きていて、良かったと思った自分がいた。
ふぅっと息を吐いて、あいつが来たのだろうかと、思い返して一度目は無視をしたが、時間を空けずにもう一度鳴ったチャイムに警察を呼ぶ覚悟を持って恐る恐るリビングに設置してあるモニターフォンに映る人を見る。
「なん、で」
小さなモニターに見えたのは、駅で別れた彼だった。どうして、ここを、いや知っているか、しばらく通ってくれていたし、だとしても、あのそこで別れたはずなのに、何か、やらかしてしまったのか。
私は、三度目のチャイムに意を決して出ることにした。
ピッと音を立て、通話がつながって、私は問いかけた。
「…どうしたの? 何か、あった?」
「どうしても確かめたいことがあって…。 携帯に連絡して、返事なかったのはわかってたんだけど、急でごめん…嫌かもしれないけど家に入れてくれない?」
「…」
「お願い、入れてくれるまで、ここにいる」
彼は、強引なことはあまりしない。思い出す限り、私の帰りをオートロック共通部分でずっと座って、頑なに私の帰りを待っていた事や、ご飯を一口でも食べるように言ってくる、それでも傍若無人なお願いをしてくる人ではない。こんなふうに、無茶なお願いをして突撃してくるのは、上の出来事以外では覚えがなかった。軽口ではない脅しをしてくるような人ではなかった。
だから、急を要する何かがあったのだろうとそれだけはわかった。連絡をとってくるほどなのだ。電源を落として確認をしなかった…というよりきっと来ていても返答しなかったのに、それでもやってくるとはよっぽなんだろう。
だが、はいどうぞともいえなかった。この部屋を見て、どう思うかと考える。玄関で用件が終わらないなら、引っ越しをすると誤魔化せば良い。そうだ。ダンボールの上に置いてあるあれらはどこか、段ボールを一つ開けて、しまってしまおう。
「わかった。 開けるね」
「ありがとう」
マンションとしてはあまり高さがないため、エレベータはギリギリついていない。くるなら階段でくるはずだ。私は、メモやひとしきりおいておいた書類たちの乗っていたタンボールのガームテープを急いで剥がして、全部をしまおうとしたが、こういう時に限って、ガムテープは粘着力が高く、うまく剥がれない。
焦っていて書類を片手に握りしめているのが原因だと思い至り、一度、床に書類たちを置くと、段ボールをしっかりと押さえ勢いよくガムテープを剥がすことができた。
床に置いた書類たちを拾い上げ、入れようとした時、玄関のチャイムが鳴った。
ビクッとなるが、置いた書類はをいれガムテープは後から貼ればいいと、段ボールの中に全てしまって、玄関に急いだ。
一応とドアスコープも除いて、彼だとわかって、鍵をカチャンと開けて、ドアを開けた。
「お邪魔します」
彼は、パンパンなビニール袋を片手に、階段を最上階まで上がったのにも関わらず、息も切らさずにそこにいた。
玄関に入れると、重そうなビニール袋を玄関すぐの廊下にどざっと置いた。ゴンっという音がしたので、缶や瓶などの重たいものも入っていたのではないだろうか。
彼は玄関をキョロキョロと眺めている。まずは話を聞かなくてはいけないと思い直し、声をかけた。
「…あ、の…どうしたの?」
「散々泣いてたのに、駅に置いてかれたから」
「え、あ、ごめんね…」
しょんぼりしながらヘラっと笑う彼に、確かに、駅で一人でうずくまって泣いている男性がいたらジロジロと見られたかもしれない。最寄駅で、彼の会社の人もいたかもしれない。浅はかなことをしてしまったと反省していると
「半分冗談だよ。 入ってもいい?」
「部屋、ちょっと、あれだから、ここで、聞くから…」
「駅において行かれたの、すごく辛かったなぁ」
「…半分、冗談って言ったくせに」
自分がやってしまったことで引き合いを出されてしまうと、困ってしまった。半分冗談とは言ったが逆を言えば、半分は本当なんだから。引越しと言い通せばいいかと、どうぞと、中に入るよう促した。私が先を歩いて彼が廊下の後ろをついてくる。
「なんでスーツ着てるの?」
「…落ち着く、から?」
「これから出かける予定あった?」
「違う、けど」
確かに寝る予定だったとしたら、スーツなのはおかしいだろう。だけど、私が着慣れているのは結局スーツで、最後に自分と一緒に戦ってきた戦闘服と一緒にいきたかったのだ。
私がリビングに案内すると、彼は玄関を見た時とは違い、驚いたようにその場に呆然と立ち尽くしていた。
大丈夫?と声をかけると、気を取り戻したのか、キョロキョロとダンボールで埋め尽くされていた部屋を見ていた。
「ごめん、しまっちゃってて…クッションとか、お客さんに出せるもの、ないの」
「こ、れは、引っ越すの?」
「…そう」
「いつ?」
「…」
正直今日にでも去る予定だったが、予定が狂ってしまいお得意の妄想趣味レーションもできておらず、なんと言ったらいいか分からず答えに一瞬詰まって一瞬詰まってしまった。
「近いうちに」
「どのあたりに?」
「遠く、かな」
「具体的に」
今日は、ずいぶんと聞かれる。答えのないものにうまく答えられないのは私の弱点だ。少しでも本当が混じっていれば、なんとか話をできるが、答えがあっても、今回は、答えてはいけなかった。
「それは、置いといて…、駅に置いて行ったの怒っているならごめんなさい…家にきたのは何か話があったんじゃないの?」
そう、逆方向に家がある彼には珍しく強引に入ってくるほどの何かがあったはずなのだ。
「…うん。とりあえず…コップ貸してほしくて」
「…ごめん、片付けちゃって、家に何も飲み物なくて、お水しか出せないけど、いい?」
「お願いしていい? マグカップできたら二つがいいんだけど…」
「わかった」
床にしか座れないが、フローリングに直接座るのは、足が痛いだろうと思うと、クッションたちを入れていたダンボールと食器類の入れてあるダンボールを開けた。
彼にクッションを渡して、下に引いてもらう間に水を入れてこようとすると
「俺が入れるからちょっと待ってて」
「え?」
「キッチン借りるね」
クッションに私を座らせて、マグカップを持って、彼は慣れたようにキッチンに向かった。
何が何だかよく分からないが、ぼやっと、開けたままのベランダを眺めていた。あの日のように、揺れるカーテンはついていない。ただ、夜空が浮かんでいた。




