にがいあじは、しあわせのあじでぬりかえる
彼は、大きく目を開いて、口元まで持っていっていたパンケーキのフォークを机までに下げてしまった。
あぁ、そんな顔をさせたかったわけずじゃなかった。と思いながら、どこかでこの人のびっくりした顔が好きで、あわよくば、あなたの記憶に一ミリでも自分のことが残って欲しかったのだと気がついた時に、背筋がゾッとした。
ーーーーこれ以上、この人に、また傷を背負わせるのか
「…なんてね。冗談だよ。 びっくりした? 徹夜することも増えて、コーヒーが飲めるようになったの。 すごいでしょ?」
「…」
私は、こんな仕事してきたんだよと、話をずらした。伝えてしまった本音をどうか、かき消して欲しいと願って、実際にあった仕事の話を口早にいろんなことを伝える。納期が短く大変だったことや先輩たちとなんとか乗り切ったことや徹夜した日もあったこと。
パンケーキは口元に運ばれない。フォークから目線を上に上げて、彼の顔をほんの少し盗み見る。彼は、じっとこっちを見ていた。慌てて、下げてコーヒーを口元に運んだ。
目はあわせない。黒く、自分の姿を反射するコーヒーに目を落としながら、視線から逃げるように話を続ける。
「ーーーっていう仕事があって、でも、先輩たちと一緒にできて面白かったよ」
「…そか、いい先輩たちだね」
彼は、そう言葉を発すると、パンケーキを食べ勧めてくれた。よかった。
パンケーキが、食べ終わったら、全部が終わる合図になる。パンケーキがなくなっていく様子を眺めている。
残ったコーヒーは冷たくなって行き、店内の寒さからも、お手洗いに行きたくなった。カフェインをとるようになってから、トイレが近いのは事実で、でも食べている途中に席をあまり外したくないと、コーヒーに手を伸ばさないで、お手洗いを少し探すように店内に目をやる。
楽しそうなカップルから女子会で盛り上がっている人たち、たくさんの笑顔で満ちている。
最後に、楽しい場所に来られてよかった。以前の私なら、この環境そのものが怖くて、いることさえも苦しかっただろう。
それを解消してくれたのは、目の前にいる彼と、やめことで自分の心が少し軽くなったのかなと考えて店内をぼやっと眺めた。
「お手洗い?」
「へ、あ…うん。 でも食べ終わってからでいいの」
「いっておいで、俺も久々に甘いもの食べたから、もう少し時間かかりそうなんだ。」
手元のパンケーキを見ると、半分渡したうちの1/4が残っている。彼にしては珍しい気がした。早食いというわけではないが、もうそろそろ食べ終わることだと思っていたから。
「体調、悪い? 平気?」
「平気だよ。 自分だけじゃこういう店来ないし、パンケーキも食べることないからさ、ゆっくり味わってるだけだよ」
ほっ、と息をする。私に気を使っているかもしれない。だけど、自分のことよりも私が会いづらかったのではないかという人だ。それでも、体調が悪い時には、ちゃんと伝えてくれる。素直に教えてくれる人だから、安心して、お手洗い行ってくるね、と伝えて場所を把握していたお手洗いに向かう。
手を洗って、鏡を見た。髪は乱れていない、メイクもしている。血色は多少良く見えるが、やはり疲れがどこか滲み出ている女が写っていた。やつれていると言われたら確かにそうかもしれない。
───こんな状態の女を目の前に食欲が湧かなかったのではないだろうか。
最後だからと自分の欲のまま彼を誘ったことを後悔しながら、でも、誘ってく入れたのは彼の方だし、と頭をぐるぐると思案させる。とりあえず、戻らなくては、そうしてさよならをしなくては。
席に戻ると、パンケーキを食べ終わってカフェオレを飲んでいる彼を見つけた。
「ただいま」
「おかえり」
久々に食べたパンケーキは味がしなくとも思い出がつれてきてくれた。だから、この幸せな思い出を持って、私は…
「パンケーキ、久々に食べたけど美味しかったね」
「あ、うん。そうだね」
残っていたコーヒーに手を伸ばす。早く飲み切って、別れなくてはならないのだから。
半分より少し少なめのそれをのむ。なんだか、苦味がなくなっていたような気がしたが、きっと今が幸せだから、感じにくくなっているのだろう。最後は、にがい思い出で終わらないようでよかった。
飲み終えて彼を見ると、やっぱりじっと見ていて、どこか服にこぼしているだろうかと不安になって洋服を見るが、特に何もなくて、どうしたの?と尋ねても、なんでもないよと彼はいう。
「お会計しちゃおうか」
「そうだね」
お財布を出して、席を立つ。レシートは前を歩く彼に取られてしまったが、別会計をお願いしますというか、ひとまず千円を握りしめた。
「お待たせしました。合計で」
「あ、別会計を」
「大丈夫です」
「? ご一緒で、大丈夫ですか?」
「はい」
やはり、別会計を遮られてしまった。それならばと、お金を入れるトレーに私は、少ないかもとは思いながら、千円札をすっと入れる。そして財布をすぐに鞄にしまった。じっと彼に見られたが、ふいっと顔を逸らしてやり過ごす。
「…もー。じゃぁこれで」
と彼は、私の千円を使って支払いをしてくれた。よかった。付き合っていたころ、自分のお金をうまく使えなくて、恋人らしくと会計を彼がしてくれていたが、お金を渡してももらってくれず、対等でいたいと考えた私が編み出した技は、先にお金をおいてしまってお財布をしまって何ももらえない状況にしてしまうことだった。
半分こをきちんとできないことはまだ気がかりだったが、ここは頼っておかないと折半を強行した時に、物理的なブレゼントで返されたりと喜ぶことしかできないことをしてくるので、これでいい。
本当は、気にせず半分払いたかったが、仕方ない。
「「ごちそうさまでした」」
二人でそういうと、店を出た。ほんの少し、笑みが漏れた。
以前、何かのタイミングで私の大学のゼミの同期カップルと会い、たまたま一緒に食事をして会計をして店を出る時に、男の人、名前も覚えていないが、その人に
『いつもご馳走様とかいってんの?』
と聞かれたことがある。よくわからない質問に、私が、そうだけどなにか?といえば、
『金払ってんだからいらねぇだろ、いい子ちゃんかよ』
と笑って言われ、ムッときたが、私は黙った。せっかくのデートだったから無視してさろうとしたとき彼が
『お金払ってたって、サービス受けて、うまいもの出してもらったんだから、感謝くらいいうよ。 俺たちは、そうなだけ。 君が違うなら、それはそれでいいけど、俺たちの行動は俺たちが決めるから』
そういって、手を引いて一緒に帰ってくれた。その人は何か言っていたような気がするが、それでも、こういう部分が、一緒でいて心から穏やかにいられたことを思い出す。こんな些細な一言で、ほっこりできるだなんて、なんて自分は素敵な思い出を忘れてしまっていたのだろうと思った。
「家、変わってない?」
「うん」
「じゃ、駅一緒だね、いこ」
彼女がいないとわかっても隣を歩いていいのか、トイレで見た女の風貌を思うと、どこかに寄ろうと思案してしまった。
「ちょっと、寄り道したい、から。 ここで大丈夫だよ」
「じゃ、俺もいくよ」
「へ、あー、や…」
「いく先決まってないんでしょ。 昔から、一緒にいていいかわからなくなった時とかとそういうこと言うもんね」
どうやら私の浅はかな考えはお見通しだったようだ。
「ほら、いいから帰るよ」
「…はぁい」
子供みたいな返答をすると、彼は笑った。変わらないね、と。
付き合っていた頃、彼とは大学が違ったため私が知っている人はいなかったが、彼の知り合いと会うことがあり、視線に変に敏感になって生きてきた私にはわかっていしまう言葉と視線を浴びたことがある。
濁しながらも私が隣にいることが相応しく無いような発言と視線、その日も今のように避けて帰ろうとしたが、彼は、私が何か悪い考えをしていると気がついて、話を聞いてくれた。あっちが悪いからと、根気強く私が隣にいてくれることが嬉しいことを何度も説いてくれた。
そんなことを覚えていてくれたこと、些細な気遣い。
この人が私の付き合ってくれた人で本当によかったと思い出せる。
にがい記憶たちは、あの頃の幸せだった気持ちを思い返してくれていた。
駅までは、たわいのない話をする。言葉が詰まっても、無言になっても、一緒にいて穏やかで、心が痛まないのが、心地よくて
一生続けばいいと思った。




