冒頭だけの話
「氷室くん、お茶」
「自分でいれればいいだろ」
ベッドにうつ伏せで転がりながらスマートフォンを弄る女は、ベッドにもたれて文庫本を読む男をじっとりと睨めつけた。
「ここの家主はお客様にお茶も出せないのね」
「はあ? お前、客じゃないだろ」
文句を言いながらも男――この部屋の居住者である氷室恵介は文庫本を床に伏せ、立ち上がった。部屋と玄関を繋ぐ廊下に出て、脇のキッチンに置かれた冷蔵庫からお茶の入ったポットを出し、麦茶でいいかと尋ねる。
部屋の女――三宅佳奈は不満そうに
「私、紅茶党って言ったよね」
と言った。
「嫌なら自分でいれろよ」
「ケチ」
「要望はお茶としか聞いてない」
恵介が麦茶を入れたグラスを差し出すと佳奈は素直に受け取り身を起こした。グラスに口をつけながらもその表情は不満そのものだ。
恵介は元の場所に腰を下ろしながら、どうしてこんなことになっているのかとこぼれそうになる溜息を飲み込んだ。
氷室恵介と三宅佳奈は友人ではない、ましてや恋人なんて親密なものでもない。同じ大学に通い、同じゼミを受講するだけの他人だった。こんなことになるまで言葉を交わしたことすらなかった。
事の始まりは数日前に遡る。
アパート近くのコンビニでアルバイトをする恵介がその日の勤務を終えてアパートに戻ってくると、部屋の前になにかがうずくまっていた。しばらくすれば日付が変わる時間、明かりはアパートに面した道路の街灯だけで薄暗く、深夜の住宅街はしんと静まり返っている。それは男の恵介でも不気味に思えた。アパートは二階建てで各階に二部屋だけの小さなもので、恵介の部屋は二階の奥にある。部屋に入るにはそのうずくまったなにかの前を通らなければいけない。つばを飲み込む音が大きく聞こえた。
覚悟を決めゆっくりと出来るだけ足音を立てないように足を踏み出す。嫌でも視界に入るそれは近付くごとに鮮明に浮かび上がり、人であることが分かった。膝を抱え顔を伏せ、更に長い髪が顔を覆い隠しているせいで誰かは分からないが女である。得体のしれないものでなかったことに恵介は胸を撫で下ろしたが、次に浮かんだ疑問は何者かであった。本人としては大変不本意であるが、恵介に部屋を訪ねてくるような女の友人はいない。
とはいえ、こんな時間に女をひとり、しかも自らの部屋の前に放置できるほど恵介は酷な人間ではない。恐る恐る声をかけると女は顔を上げた。その目は虚ろで視線は空中を揺らいでいる。
正直に言えばあまり関り合いになりたくなかった。だが、声を掛けた手前放り出すわけにもいかず、気遣う言葉をかけるが一切の反応はない。仕方なく部屋に入るように促すとやはり返答はなかったが素直についてきた。
夏の手前とはいえ、夜はまだ冷える。やかんのお茶をコンロで温めてから出した。
明るい部屋で見る女の顔は見覚えがあった。思い出すのに時間がかかるのも無理のない話だ、なにせ恵介は本当に女の顔を見たことがあるだけだったのだ。同じゼミの三宅佳奈が誰かと話している姿を恵介は見たことがなかった。無口というより他を寄せ付けまいとする雰囲気をまとった彼女がどうして自らの部屋の前にうずくまっていたのか恵介は思い当たらず困惑した。
そしてその夜、佳奈が言葉を発することはなかった。