file1-A:転換の夜
お勉強不足に付き知識不足はお許しいただきたく。
赤く、黒く、紅く、畔く、朱い。
この赤は何だ―――――血だ。この黒は何だ――――――血だ。この紅は何だ―――――血だ。畔は。朱は。――――――全て血だ。
鮮血なんて綺麗なものじゃない。赤黒いと表現する方が余程適切で、見るだけで吐き気が込み上げてきそうな生々しい血の沼がそこにはあった。動脈血と静脈血が混ざり合っているのか、ドロドロともサラサラともわからず、まるで赤い絵の具と黒い絵の具を水と一緒にぶちまけたような、変に現実感のないグロテスクが生理的嫌悪感を引き上げている。
更にこの音。ぺちゃくちゃと咀嚼音が耳を這いずり回る。
血の流れを辿るとそこに音源があり、意識してしまえば逃れられない。夥しい赤以上の非現実がそこにある。
食人。カニバリズム。アントロポファジー。それを表す言い様はいくらでもある。だが、口に出したいかといえば別問題で、その行為には通常嫌悪感を抱かせる要素しかない。
僅か十メートル先に転がる細い腕のようなもの。血だまりに浮かぶソーセージに似た管。濡れそぼったピンク色は脳漿だろうか。他にも、乳房、足、骨片、毛髪。それら全てが半分くらい揃っていて、残りはどこにもない。
考えずともわかる。彼の胃袋に消えたのだ。
俺という観客に気づかずひたすら死肉を貪る男の年の頃は未だ十代半ばで、やや軽薄な印象はあるもののどこにでもいそうな普通の青年である。
はは。普通。普通、か。
自らの思考に思わず自嘲する。
そうだ。彼は普通ではない。普通であってたまるものか。いや、そもそも普通とは何なのだ。一般的、日常的という意味であるのなら、こんな状況で立ち尽くせている俺こそ普通じゃないのではないか。
逃げなければ。今更思い出したような思考に身体がついていかない。
ザ。平時なら気にも留めないであろう小さな足音は、夜の静寂を乱すくらいなら十分過ぎた。
男の血走った目がしっかりと俺を捉える。咥えているのは、人の手だ。血で染まってわかり辛くはあるものの、口からはみ出た細い指は見間違い様がない。小道具の指輪が妙に存在を主張している。
男は指を吐き捨てて、ニタリと気色の悪い笑顔を浮かべた。露出した歯茎と突き出された舌が、血に濡れていてもわかるほどに黄ばんでいて、汚らしい。
幸か不幸か。その気持ち悪さが俺の硬直を解くのに一役買った。
一目散に駆け出す。ゴールがあるわけじゃない。ただ、目の前の怪物から逃げ出す為に俺は足を動かし続ける。
見えなくなればいい。いなくなればいい。忘れてしまえばいい。
身体だけでなく、思考までもが逃亡に支配される。
何から逃げたいのか。何に捕まりたくないのか。もしくは、何から目を背けたいのか。
何もわからないまま、背後の足音を消し去ろうと走り続けた。
男の足は決して速くない。だがそれは追いつこうとしていないからで、走っている俺に対しアイツは歩いて距離を維持しているのだ。捕まえようと思えばいつでもできる。それをしないのはこの『追いかけっこ』を愉しんでいるからに他ならない。
しかしそれならそれでいい。このまま走り続ければいつか誰かが見つけてくれるだろうし、警察だって黙ってはいまい。
せめて商店街の方まで逃げ切って――――――。
「っ!!?」
角を曲がろうと一瞬速度を落としたその時だった。右腕に鋭い痛みが走った。
反射的に腕を振り回そうとするも、しかし全く手応えを感じない。何かに当たった感触がないのではなく、そもそも腕を動かした感覚がないのである。バットを振ったつもりですっぽかしたようなそんな奇妙な違和感。
「な」
それもそのはず。俺の二の腕から先はなくなっていたのだから。
鋭利な刃物で切ったようにすっぱりと切れた断面から、赤黒い液体が勢いよく流れ落ちていく。今まで一度たりとも感じたことのないような激痛が、神経を、脳を駆け巡る。
痛い。痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い!
言葉すら、悲鳴すら、喉の奥が突っかかって出ようとしない。神経を弦にギターを弾くような苦しみが、延々と身体を掌握する。
だがそれ以上に不快なのは、俺の内より生まれ出でた感情だった。
美味しそう。極上の美味を前にしたかの如き食欲が、コンコンと湧き上がってくるのだ。今すぐに自らの傷口に喰いついてしまいたい。その欲求はあまりにも甘美で魅惑的であり、本能が訴えてくるようでもあった。
痛みと、衝動。歯を食いしばってどうにかそれらを抑制しながら、俺は背後にいた男を睨みつける。
どこから取り出したのか、右手には包丁。刃を紅く染めているのは俺の血で、左手に切り取られた細腕をぶら下げている。あの包丁で腕を斬られたと思って間違いないだろう。
十メートルは離れていた距離を一瞬で―――足音がなかったから恐らく一足で―――詰められた。およそ人間の持ちうる身体能力ではない。オリンピック選手でも実現不可能な現象だ。
しかしそんなことを理解したところでもう遅い。足の速さに決定的な差がある以上走って逃げるのは難しく、近くに車や自転車なんかもない。夜中のビル街だけあって人の気配は全くないし、最寄りの警察署だってまだ百メートルは先だ。
どうあっても逃げられない。であればこの先どうなるかは想像に容易い。
死。それも、往生とは程遠い、暴力による死だ。
フィクションでしか見たことのなかった、現実離れした災厄が今この時俺を襲おうとしている。きっと、殺した後はさっきの死体みたいに食べるのだろう。ハイエナのように食い散らかすのだろう。
不思議と恐怖はない。ここに至ってまだ、俺は現実感を得ていないのだ。よくできたスプラッタムービーを3Dで見ている、という感覚が最も近いのかもしれない。
だから浮かぶ感想も的外れ。こいつも美味しそうと思ったのかな、なんてどうしようもないことを考えていたりする。
コンクリートに座り込んだまま動かない俺に対して、男はゆっくりとその汚物じみた口を近づけてくる。
ああ。そうか。勘違いしていた。
こいつが変なんじゃない。俺が変なんじゃない。俺達が変なんだ。
極度の緊張で薄れゆく意識の中、血と脳髄と共に弾け飛ぶ男の姿と、遠くで銃を構えた黒と金の斑髪の少女だけが変にくっきりとしていて。
「またね」
どうしてか、少女がそう言った気がしてならなかった。