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くもりのち、はれ-外伝-  作者: 夏みかん
外伝 5
9/12

はじまりの予感 前編

『くもりのち、はれ』本編以前、『異伝』との間に当たる物語。

序章に当たります。

その突然の言葉は全く予期していなかったせいか、大山康男は呆気に取られたような顔をするしかなかった。横に長い机が縦に数列並んだ会議室のようなここは康男が個人で経営している塾の教室だ。生徒の数も増えてきたためにそろそろ教室内の配置も変えようと思っていた矢先のその申し出は根本的に塾の運営を揺るがすようなことだった。それは雇っていたアルバイト講師が突然2人同時に辞めると言い出したからだった。4月の新学期となって生徒数も増えてきたこの春のローテーションは今のアルバイト講師の数でどうにか回せている状態にすぎず、今ここで2人に抜けられた場合、新しく人員を補給する以外に方法はない。かといってメインとしている中学生を教えられる人材、とりわけ長期に渡ってのアルバイトと教え方や人望を考慮すれば1日や2日でどうこうできる問題ではなかった。康男が運営しているこのさくら塾は今本部となっているさくら塾西校とさくら塾東校の2つが存在している。さくら塾東校はこの町である桜町の中心にある一番大きな繁華街となっている桜ノ宮から電車で20分程度西に行った場所にあり、雑居ビルの3階部分を借りて運営しているかつては本部となっていた場所だ。そして西校はそこからさらに電車で20分程度西に行った場所にあり、塾長である康男の家のすぐ近くに去年建てられた3階建ての立派な建屋となっていた。今ではそこが本部となっていることもあり、規模も大きいために生徒数は東校の約3倍にものぼる。その西校のアルバイト講師である大学生2人から辞めたいと言われて動揺する康男はその2人の意思の固さにもはやそれを了承せざるを得なかった。もちろん能力に見合ったアルバイト料に不満があるわけではない。不満があるのは生徒の方であり、最近の生徒、とりわけ中学3年生の女子生徒の態度がどうにも我慢ならないというのがその理由となっていた。元々教え方に面白みもなく、人気もない2人だったが貴重な戦力に違いなかったため、康男は2人が去った後の教室で頭を抱え込むしかなかった。たしかに中学3年生の女子生徒、その中でも4人組の態度の悪さは康男もよくわかっている。だが、あるアルバイト講師に限りその態度はなくなって実に真面目に授業を受けてくれていることもあって、中学3年生の英語と数学の授業はそのアルバイト講師である大学生の新城直哉に任せていた。モデルのような容姿に若者に人気のスポーツカーを所有している新城は女子生徒たちからの人気は抜群であり、教え方も上手い講師である。康男も信頼をおいているその新城が私用などで来られない場合の代役に当てた講師はその女子生徒たちにことごとく悪態をつかれて精神的に追い込まれていたのだった。康男は自分の机の上からローテーション表を取り出していろいろ吟味するが、どう考えても今いるアルバイト講師の数で全てを回転させることは不可能である。週2日ないし3日で授業を依頼しているのを週5日ぐらいにしないといけなくなり、そこまでとなるともはやアルバイトの域を越えて社員となってしまう。大きなため息をついた康男は同じ引出しからさくら塾のローテーション表を取り出してもう一度深いため息をついた。


「二股を頼めるとしたら・・・1人か・・・」


今現在、週2日のところを週4日として快諾してくれそうな人物のその名前を見つめる。康男が最も信頼をおき、教え方も上手く生徒からの人気も高いその人物に頼むしかないと決めた康男はさっそく東校に繰り出すべく準備を進めるのだった。


教室の真正面に位置するホワイトボードの一部を指差し、ここが重要だと説明している講師を熱い視線で見つめているのは中学2年生の新垣愛里あらがきあいりだ。なかなかの美少女であり、学校での人気も高い彼女は軽くウェーブがかった髪をかきあげるようにしてから今講師が言った個所を赤くマーキングし、再度熱い視線を送る。そんな愛里を斜め後ろから睨むようにして見つめているのはやや細長の目をさらに細めた村上雅人だ。サッカー部に所属し、チームを引っ張るキャプテンでもある雅人は女子生徒からの人気も高く、自分でもモテているとの自覚もある。そんな雅人が愛里を好いていることは誰も知らないせいか、愛里よりも美少女である同級生からの告白を断っている雅人に対して他の男子生徒からの嫉妬は大きい。ちょっとモテているから調子に乗っていると陰口を言われながらも愛里を好きな気持ちを口に出来ない雅人はそんな連中を無視しつづけているせいか、学校でも塾でもやや孤立した立場にある。


「よぉし、時間だな・・・ほんじゃ今日はここまでにしようか、お疲れさん」


午後9時ちょうどの時計を見上げつつそう言った講師の木戸周人は雑然とした中でてきぱきと手際よくホワイトボードに書かれた数式を消していく。ここでアルバイトするようになって丸1年が経過した周人にとってこの環境はたまらなく好きだった。皆さっさと片付けをし、家が近い者は徒歩、あるいは自転車で帰宅する。遠い場所の生徒には車での送迎があるのだが、それは周人の仕事ではない。それは雑用に雇っている康男のかつての教え子であり、周人の中学時代の後輩である八塚浩志やつかひろしの仕事なのだった。塾所有のワンボックスカーで送迎を担当している八塚は周人の故郷でもあり、康男がかつて塾を開いていたN県に住んでいたのだが、高校卒業と同時にこの桜町にやってきて康男の塾を手伝いながら一人暮らしをしていた。小太りな八塚は彼女もなく、消極的な性格もあっていい出会いすら見つけられないでいたのだが、つい最近好きな人、正確には気になる人ができたと漏らしながらも何も出来ない小心者だった。そんな八塚はすでに塾の真下で車を待機させている。早々と去っていく生徒たちに気をつけて帰れよと声をかける周人はいまだに席に座ったままの愛里を見て小さく微笑んだ。


「みんな行ってしまったけど・・・帰らないのかい?」


優しい口調は授業中も変わらない。周人が声を荒げて怒鳴ることな滅多にない。羽目を外しすぎた男子生徒を一喝する時ぐらいであり、塾に入って半年になる愛里がそれを見たのはたった一度しかなかった。


「家近いし、あわてることないから」


愛里は少しだけ頬を朱に染めてそう言う。


「近いって言っても、変なのはいるんだから、なるべく友達と帰ったほうがいいよ」

「心配ないよ、私強いし」

「空手を習っていても、不意に襲われてすぐさま対応できる人間なんてそうそういないよ。君は可愛いから特に気をつけないと」


何気ない一言だったが、可愛いといわれた愛里は顔を赤くしてうつむいた。そんな愛里を玄関口の辺りから見ていた雅人は不機嫌そうにしながらスリッパから自分の靴に履き替えると勢い良くドアを閉めて周人と愛里を驚かせた。


「じゃぁ、先生が送っていってよ」

「そうしてやりたいけどな、今日はこのあと塾長と会議なんだ」

「会議って・・・お酒飲むだけでょう?」

「酒飲みながらの会議だよ。ま、大人の都合のいい言い方だけどな」


苦笑しながらそう言う周人は愛里に早く帰るよう急かした。今ならばまだ帰り道が同じ友達と一緒に帰れるはずだ。仕方なく渋々それに従う愛里に苦笑した周人は電気をそのままに玄関の戸締りをして下まで降りていく。やや狭い路地に面した階段を出ればすぐ横に大通りがある。パチンコ店のネオンや消費者金融の看板がきらめくそこは人通りもあり、明るい場所となっていた。


「気をつけてな」

「はぁ~い」


女子生徒の可愛らしい声を聞きながら手を振る周人は車を出そうとする八塚に事故には注意しろと声をかけた。八塚はうなずくとゆっくり車を発進させて大通りの角を曲がっていった。友達4人と一緒に帰る愛里は周人に手を振りながらやや芝居がかった投げキッスをしてみせる。苦笑しながら手を振る周人は鼻でため息をつくとすぐそばの自動販売機でタバコを買うとそれをポケットに入れながら教室へと続く狭い階段をゆっくりと上っていくのだった。


買ったタバコを机の上に置いた周人は生徒用のパイプ椅子に腰掛けると机と平行になる形で白い壁を背もたれにする。週末ということもあってか幾分リラックスしているが教室内は禁煙であり、一服できないのが残念だった。といっても周人がタバコを覚えたのはつい一ヶ月ほど前だが。まだ二十歳前の周人が好奇心からタバコを買ったその日からついつい止められなくなって今に至っている。それでも朝晩のトレーニングを欠かしていない周人にとってタバコがもたらす影響は少ない本数もあってさほどないだろう。もう体を鍛えても仕方がないと思いつつも幼い頃から身についた習慣は中々消えなかった。だが、あるトラウマから夜のトレーニングの中にジョギングを入れられないのは今でも変わらなかった。


「いや、待たせたね」


ドアを開くや否やそう言って入って来た康男に笑みを見せて立ち上がった周人は戸締りは万全ですと言うとタバコを手に取ってから財布と携帯電話をズボンのポケットに押し込んだ。2人はそのまま塾のすぐ近くにある居酒屋に向かったのだった。そこはいつも利用する深夜まで営業している居酒屋だ。魚料理をメインとした味も良いメニューが揃っており、塾の講師たちでちょくちょく来ては夜中まで騒ぐことが多かった。だが今日は周人と康男の2人だけであり、アルバイトを始めてから初めてのことに周人もどこか緊張を隠せなかった。まずは軽く乾杯をした後、周人の仕事をねぎらった康男はすぐに本題へと入るのだった。


「電話でも言ったが、西の方で2人講師が辞めてしまってね・・・・新しく入れるにも余裕がない。そこですまないんだけど君に掛け持ちをしてもらえないかと」


回りくどい言い方をせずにそう切り出した康男の口調、表情から困った感じが滲み出ていたせいか、周人は少し考えた後でそれを快諾した。康男はそんな周人に何度も頭を下げつつ2枚のローテーション表をテーブルの上に置いた。


「週のうち2回はこっち、2回は向こうをお願いしたい。とりあえずの曜日はこれ・・・・いけるかな?」

「まぁ、いつも暇ですからね、問題ないですよ」


新しい編成で書かれた表を眺めながらそう言う周人を周人らしいと思う康男はビールを一気に飲み干すとすぐにおかわりをオーダーする。周人はやってきた焼き鳥を頬張りつつも表から目を離さなかった。


「向こうの中学生担当のメイン講師は2人。君と同じ年の大学生だ。どっちも美男美女だよ」

「そうですか・・・」


興味が無いのか素っ気なくそう言うとタバコを取り出して火をつける。そんな周人につられてか、康男もまたタバコを取り出して近くにあったマッチで火をつけた。


「やはりまだ彼女を作る気にはなれないかい?」


突然言われたその言葉に一瞬ピクリと反応したが、ビールを飲んで間を空けると自嘲気味に微笑む。教え子だった頃にはない、左頬の傷を見つめる康男は黙ったまま返事を待っている。


「作る気もなにも・・・そういう感情を無くしてしまったみたいですね、僕は」

「・・・まぁ、さすがにまだ早いか」

「早いと言うか・・・無理ですね。正直怖いんですよ、もう一度同じ目に遭うのが、好きな人を失うことが・・・」


自分の全てを知る康男を前に本音を言う周人だが、康男以外に本音を言う事はまずない。そして周人の心の傷を知っている康男は何とか力になってやりたいと思いながらもこればっかりはどうもできないことを理解していた。


「もう後1分早ければ彼女は生きていたかもしれない・・・そう思うと、つらいです」

「だが君は見事に仇を討った・・・」

「ただの自己満足ですよ」


タバコの煙を揺らす周人の表情から悲しみが見て取れる。普段の周人からは見ることも感じることもないその表情に康男は胸が痛むのを感じてしまった。周人にとって一番つらい出来事を話題にしたことを詫びる。


「すまなかった、無神経だったよ」

「いえ、塾長なら別に問題ないです」

「お詫びに、もし誰かに彼女とのことを聞かれたら、トレーニング中に遭遇した結果の悲劇だと言っておくよ」

「別にいいですよ、約束を破った報いだと言ってくれて」


そう言って笑う周人に刺々しさもなければ責めているような節もない。康男は周人の中の自責の念が3年近く経った今でも全く薄れていないことに辛い気持ちで一杯になるのだった。


5月の半ばから掛け持ちとなった周人は残り一ヶ月もないために早速その準備を始めるのだった。まず向こうでの授業の進行状況とこっちの体制変更に伴う引継ぎ、そして向こうにいるアルバイト講師への挨拶もある。俄然忙しくなってきた周人は通っている専門学校の勉強、自己鍛錬、そしてアルバイトと充実感を持って生活していた。親元を離れ、一人暮らしを始めて1年。ひょんなことから車も手に入れたことを含めて寂しさもあるが楽しくもある。それでも胸に空いた穴を埋めるような心ときめく恋は今をもってまだない。17歳で恋をし、初めて付き合った彼女を失ってから約3年、今でもまだ彼女の存在は絶対的なのだ。法が裁かなかった憎き仇を討ったが、それはただの自己満足にすぎないと思っている。果たしてそれで彼女が喜んでいるとも思えない。周人は時折財布の中に入れている彼女と一緒に撮ったプリクラを見つめては大きなため息をつくのだった。


今日はさくら西塾のアルバイト講師との顔合わせもあって、周人はバイトの日でもないのだが借りているワンルームマンションの1階にある駐輪場へと向かっていた。17歳の時に中古で買って以来ずっと乗車しているそのバイクは周人にとって相棒といえる存在でもあった。車を利用することは滅多に無く、マンションの近くに借りている駐車場代を考えればもったいない感じもしてしまう。やはり乗り慣れたバイクの方が心地よく、何より融通が利く分使いやすかった。バイクにまたがってキーを差し込み、ヘルメットを被ろうとした瞬間、何かジッと自分を見つめるような視線を感じてその動きを止めた。顔を動かさずに目だけを動かして様子を探るが周囲に人の気配はない。


「気のせい・・・とは思えないけど」


つぶやくようにそう言いながらヘルメットを被り、エンジンを始動させてゆっくりと通りの方へとバイクを進めていく。慎重に周囲を伺いながらも何の異常も見つけられずにそのままバイクを加速させるのだった。


「なかなか鋭いが・・・・あれがそうとは思えないな」

「でも確かよ・・・・間違いなく彼ね」


やや長めの髪をした男が真横にいる肩まで伸びた茶色い髪を指で後ろへ流すような仕草をする女性へと目をやった。口元のほくろが妖艶な雰囲気を出しているが、だからといって何の感情も湧いてこない。


「よし、なら、計画を実行しよう」

「無駄だと思うけど・・・」

「無駄なら無駄で、次の手はある。それにあいつが我々の脅威になるかどうかも知りたい」


男は口の端を小さく歪めて笑みを作ると背後にいる白人と黒人の男たちを無視してさっさとドアの方へと向かって歩き出した。


「あなたのそういう動きが、彼を脅威にするかもね」


ため息混じりにそうつぶやいた女性は今いるビルの屋上から見える景色を見渡した。


「上から見下ろすことしかしない人間にはわからないことか」


吐き捨てるようにそう言うと女性もまたさっきの男が出て行ったドアへと向かって歩き出し、その後に2人の外国人が続くのだった。駐輪場を見下ろせるビルに人気が無くなったせいか、周囲に静寂が訪れた。


さくら塾西校のすぐ裏手近くに空き地があり、そこは生徒たちの駐輪場ともなっていた。周人はバイクをそこに止めるとヘルメットをしまい、少し髪を直すように手でかきあげるようにしてから職員室となっている1階のドアへと向かった。そこではすでに中では西校のメインアルバイト講師2名と康男が待機している。少しばかり緊張した面持ちの周人は軽く深呼吸をしてからドアをノックし、中からの返事を待ってゆっくりとドアを開いていった。


「こんにちは」


過去2回しか入ったことのない職員室の中では背中を向け合う形で若い男女が座っていた。玄関の方を向く形で座っていた女性が周人の顔を見て一瞬アッとした表情をしてみせたが、椅子ごと振り向いた男性は無表情のままだった。ドアの傍に座っていた康男が立ち上がるとスリッパに履き替えた周人の背中を押す形で2人の方へと誘導する。2人もまた立ち上がると狭い場所ながら並んで立つのだった。


「彼が木戸周人君だ。向こうを含めた現在一番の古株講師だ。僕のかつての教え子でもあってね、とにかく仲良くやってくれ」


そう紹介された周人は自ら1歩出て2人の前に立つと愛想の良い笑みを浮かべて見せた。


「木戸です。来月からよろしくお願いします」


そう言って頭を下げる。


「青山です、青山恵。よろしくお願いしますね」


そう言ってにこやかに微笑む恵に笑みを返しつつ右手を差し出した周人にためらいなく握手をする恵を見た新城は一瞬だけ憮然とした顔をしてみせたのを見逃さない康男。


「新城です。よろしくお願いします」


軽い会釈をしながらそう挨拶した新城とも握手をした周人は簡単な自己紹介を交わすと新城の隣の席をあてがわれた。5月の連休明けからはここが周人の席となるのだ。


「木戸さんは、週2回ですか?」

「あぁ、そうなるよ・・・・」


そう言いながらもどこか鈍い反応を見せる周人に恵と新城の表情が曇った。気難しい人なのかなと思う恵に小さく微笑んだ周人は2人が自分と同じ年齢であることを確認してからにこやかに話し始めた。


「せっかく同じ場所で仕事するんだし、同い年もあるからタメ口でいこうよ。トータル的にオレが先輩でも、こっちでは2人が先輩なんだしさ」


気さくな周人の言葉に一旦顔を見合わせた恵と新城だったが、今の申し出に賛同する。


「仲良くやってくれ。木戸君にゃ迷惑かけるが、よろしく頼む」


そう言って頭を下げる康男に、同じようにした周人は微笑む2人にも笑顔を返したのだった。新城はいつもと違ってどこかテンションの高い恵を不思議に思いつつも何も言わなかったが、ここ最近で恵が気になってきているせいか少し周人に対してライバル心のようなものを抱きつつあった。


「青山さんは美人だろう?それにこっちの女子生徒は美人が多いぞ」


バイクに跨ってヘルメットを手にした周人にそう言う康男は何故か自慢げだった。そんな康男に苦笑しつつそうですねと返した周人は一旦そこから真横に位置している建物へと顔を向けた。


「確かに美人ですね。でも、いくら美人がいても中学生にときめいたりしませんよ」

「一人とんでもないのがいるからな。期待しといてくれ」

「楽しみにしておきます」


ヘルメットを被りながらそう言うと周人はエンジンを始動させた。そのまま片手を挙げてバイクを走らせると土煙を巻き上げつつ舗装されていない砂利道を走り去っていった。その後ろ姿を見つめつつ苦笑のようなちょっと意味ありげな笑顔を作った康男はさっき周人がしたように校舎となっている建物を見上げるような仕草を取った。


「とんでもないのは容姿だけじゃないんだが、君ならどうにかできると期待してるよ」


康男はそう言うと小さなため息をつきつつ職員室の方へと向かうのだった。


薄暗い部屋の中にいるのは5人の男だった。窓には分厚いカーテンが敷かれて照明も落とされたその部屋の真ん中には円を描く形で大きなテーブルが置かれていて、そこに置かれた豪華なソファに5人が座っているのだ。体は部屋の正面に向いており、テーブルの上に置かれた分厚い書類を開いたままその視線の先にある白い垂れ幕の方に顔を向けていた。


「今現在をもっても『キング』の容態に変化はありません。どう精密検査を行なおうとも脳に異常は見当たりませんが廃人と化しております。そして『四天王』ですが、ヨーロッパに大野木、朝鮮半島に御手洗みたらい、中東に西原、そしてアメリカには大場を派遣して活動を行なっている次第です」


それぞれ今言った名前の人物の写真とプロフィール、そして活動報告がスライドのようにして次々と白い幕に表示されていく。


「そしてかつて『キング』に関わった者全てのリストも8割方できあがっています。動向もふまえて全て」

「『キング』が倒されたという情報は今や日本の裏社会では有名だ。いや、世界中に広まりつつあり、だからこその危機もある、早々に手を打たねば」

「かの『キング』を倒した男では次の『キング』にはなりえないのか?」

「倒したといってもまぐれでしょう・・・それに、我らの手を噛む可能性も高い」

「『四天王』も動いてはいるが、歯止めは必要だ」


様々な意見が飛び交う中、報告を行なっていたやや長髪の男がすっと立ち上がり、手を挙げて全員の注意を引いた。


「その件に関しましても動いております。早いうちに手を打つ準備もしておりますので、もう少々お時間をいただきたく」

「急げよ」

「はっ!」


その言葉と同時に照明が灯り、カーテンが独りでに開いてまばゆい日の光が部屋を支配していった。まぶしく目を細めながら資料を手に男たちが会話を交わしながら部屋を後にしていく。いずれも名のある代議士であり、うち2人は現職の大臣でもあった。


「福山君、何とか早急に頼むよ」


5人の中でも一番若いと思える男が長髪の男、福山耀司に近づくとそう言って肩を叩く。


「わかっています。国家の安全に関わりますので、こちらとしても全力で当たらせていただきます」


その返事に満足そうな顔をした男は大股な感じで会議室を出て行った。そんな5人の後ろ姿を見て深々とため息をついた福山は資料の入った分厚いファイルを手に自分も会議室を後にすると来賓用にあてがわれた自分の部屋に戻り、ゆったりとしたソファに腰掛けて懐からタバコを取り出した。そんな福山の目の前にコーヒーを置いたのは昨日福山と一緒にビルの屋上から周人を見ていた女性、江崎千江美だった。


「すまない」

「サービスよ」


薄く笑う表情もどこか妖艶である。そんな千江美に笑みを返した福山はコーヒーを飲みながら彼女が『破滅の魔女』と呼ばれていた所以を思い出して目つきを鋭くした。組織の内部に入り込み、情報を仕入れた後は色仕掛けをもって内部で分裂を起こさせて組織自体を破滅させる魔女。『キング』の王国内において『四天王』の一人大場圭介の彼女だった千江美がその王国の崩壊後、身を隠していたのを強引に見つけて自分の計画に賛同させた福山はともすれば自分の身を滅ぼすかもしれないこの女に心を許してはいなかった。


「バカな大国の不始末のせいで世界のバランスは狂ってしまった。その防壁だった『キング』を失い、今やこの国も不安定だ。早急に次の『王』を見つけねばならないというのに」

「けど、『魔獣』にその地位は必要ない。何度も言って悪いけど、彼はそんなものに興味はないわ」

「だが脅威となるかもしれん男をほっとくわけもいかん。今の実力も知りたいしな。もっとも、政府がしっかりしていれば『王』など必要ないというのに・・・」

「同感ね」


そう言う千江美は福山の目の前にあるテーブルに腰掛けた。ミニスカートから覗くしなやかな足を優雅に組替えるそこについつい目が行ってしまう。


「明日にでも接触するが、君はどうする?」


足に視線を受けているのは承知している千江美だが、何も言わずに微笑むとこれ見よがしに足を組替える。


「モニター越しなら見る、そうでないなら見ない」

「俺はモニターで見るから一緒に来るといい」

「そうするわ」


意味ありげに微笑んだ千江美はテーブルから降りると福山に背を向けた。そのせいか、鋭い目つきをした千江美に気付かない福山はそのスタイルのいい後ろ姿をジッと眺めているのだった。


そのワンルームマンションの7階に周人の部屋はあった。さくら塾東校から歩いて数分の近い位置にあるそのマンションからはなかなかの夜景を見ることが出来る。春ということもあって風がない分肌寒さを感じない中、ベランダでタバコの煙を揺らす周人は手すりに腕を置いてぼんやりとその夜景を眺めていた。実家を出て一年経つせいもあって一人での生活にも慣れてしまった。故郷にいる仲間とも連絡を取らず、お盆休みや正月にも帰ることが無かったその地へ想いを馳せるが、浮かんでくるのはある少女との思い出ばかりだった。普通よりやや可愛い感じのその少女だが、笑顔が誰よりも可愛かった。幼なじみの紹介で知り合い、恋に落ちて付き合ったのが17歳の初夏。楽しい日々を重ねて心と体も重ね、愛を深めていった矢先に彼女はこの世を去った。何があろうと絶対に守ると誓いつつ、その誓いを果たせずに終わってしまった。早く帰ると約束しておきながら遅くなり、結果、彼女は命を落としてしまった。深く傷ついた心はまだまだ癒える様子を見せていないが、それではいけないと思う自分もいる。ぼんやりとそんなことを考える周人は一番の親友でもあり、幼なじみでもある佐々木哲生から言われた言葉を思い出していた。


『向こうに行ったら元のお前でいてほしい。芝居やフリじゃなく、ごく普通のお前でいてくれ』


全てに絶望してただひたすらに彼女の仇を討とうとした自分が周囲に迷惑をかけてきた、それまでの友達も失った。だが、その替わり心から信頼できる親友を得ることが出来た。


「みんな元気にしてんのかなぁ・・・」


つぶやいた矢先にタバコの灰が風に舞う。あわてて携帯用の灰皿に灰を落とすがもうほとんど残っていなかった。見上げる夜空に赤みがかった月が浮かんでいる。そんな月を見つめながら今の自分が彼女を失う前の自分に戻っているかどうかを客観的に考えてみるが、答えが出るわけも無かった。


夕方に教材を運ぶのを手伝って欲しいと連絡を受けた周人は康男が待つ塾専用のワンボックスカーが置かれている駐車場へと向かっていた。そこはさくら塾東校から少し離れた場所に存在している廃工場の隣にある小さな駐車場であり、人通りも少ないことから夜には不良たちの溜まり場となっている場所でもあった。そのせいか、夜に車を取りに行く八塚は時々絡まれたりしては周人に応援を要請しているほどだった。元々駐車場自体も工場の物だったのをそのまま利用しているにすぎない。


「先生!」


可愛い声に周人が振り返れば、そこには愛里がいた。今日は暖かいせいか薄着でラフな格好となっている。今時の子らしいやや露出が大きい服装が気になったが周人だが、自分がどうこう言うことではないので黙って笑顔を向けた。


「よう、散歩か?」

「本屋まで。先生は?まさかデートとか?」

「んな相手いないよ」


目を細めてやらしい顔をした愛里に苦笑を返す周人。


「んじゃデートしてあげようか?」

「遠慮しとくよ」


何を思ってそう言ったかはわからないが、さすがに中学生とデートをする気にはなれない。デートをすること自体には抵抗はなくなっている。亡くした彼女のことが心にあるが、それを持っていても恋愛感情抜きでデートはできると自分で思っている周人だったが、愛里はそういった対象でもない。たしかに愛里は美少女だが、そういった対象にならないのだ。


「ま、当然か」


周人にほのかな恋心を抱いている愛里だが、相手にされてないことは判っている。一方通行な片思いだが、告白する気も無ければ彼女になりたいという想いもなかった。愛里にとって周人は憧れの存在なのだ。


「今から塾長と西へ部材運びなんだ」

「そう。いってらっしゃい」

「君も気をつけてな」


そう言って手を挙げる周人に笑顔を向けた愛里は本屋へ行くためにやや大きめの道路へと出た。そこに停車している窓まで黒塗りのワンボックスカーに眉をひそめたが、あまり気にすることなくその車の横を通って大通りに出るのだった。


「ターゲット、少女と別れました。駐車場に人影なし、接触します」

「ダニエルとジャックを待機させろ・・・『ハンター』を出せ」


モニターやらものものしい機材を積んだそのワンボックスカーの中で福山がスーツ姿の男の報告を受けて鋭い口調で命令を出した。同時にどこかのビルの屋上からと思える斜め上空から駐車場を捉えた映像が一番右端の画面に映し出された


康男はワンボックスカーの後部座席を潰して積んでいる教材の前であぐらをかいていた。そのせいか、福山の部下からの監視に引っかからずに駐車場は無人だと判断されていたのだ。そして周人が錆びて開かなくなった本来の扉をくぐり、今現在の扉となっている鎖をまたいだ瞬間、言い知れない殺気が駐車場を満たしていることに気付いた。ビリビリと感じるその殺気は駐車場の奥から放たれている。注意深く様子を探る周人が駐車場の中央付近に来た瞬間、鎖の内側に白人と黒人の男が仁王立ちをして出口をふさぐ格好を取った。顔だけを動かしてそっちを見るが、正面からの殺気に注意を怠らない周人はすぐさま正面を向いた。そして数秒後、軽トラックの陰から姿を現したのは黒い仮面を付け、ウェットスーツのような黒いものを着込んだ筋肉質の男だった。真っ黒な仮面は目の部分だけが丸く抜かれており、表情を垣間見ることは不可能になっていた。


「貴様が『魔獣』だな?」


仮面越しのせいか声がくぐもっているがはっきりと聞き取ることが出来る。


「人違いですよ」


どこか動揺しつつもそう受け流す周人だったが、仮面の男から感じる殺気からして相当な腕の持ち主だと判断していた。


「調べはついている・・・俺は貴様を狩る者、『魔獣狩り』」

「たいそうなネーミングだけど、人違いだって」


その言葉が言い終わらぬ矢先、矢のようなスピードで間合いを詰めた『魔獣狩り』の右拳が周人の腹部にめり込んだ。吹き飛ばされて硬いアスファルトを転がる周人は息苦しさを押し殺しつつも片膝で立ち上がった。


「問答無用かよ・・・」

「本気を出せ・・・でないと死ぬぞ」

「人違いだっての!」


そう言う周人に向かってまたも電光石火の速さで間合いを詰めた男は下から跳ね上げたかかとであご先を狙った。だが、わずか数ミリの違いで避けられて空振りに終わった蹴りだが、そのまますぐにそれを振り下ろして周人の肩にかかとをめり込ませた。うめき声と唾を吐きつつその衝撃に耐えるも返す足で胸元を蹴られてさらに地面を転がる。意識が朦朧としながらも押し寄せてくる吐き気を我慢する周人はこのままでは殺されると思いつつも戦う気を呼び起こせないでいた。


「ターゲット、反撃の様子なし」

「どう思う?」


スーツの男の報告に片眉を上げつつ隣に座っている千江美にそう問い掛けた福山は予想を遥かに裏切る周人の様子にもはやこれ以上の調査は不要だと思い始めていた。


「どうって・・・とても本気じゃないわね。もっとも、復讐を抜いた彼にしたらあんなものかもしれないけど」

「話にならんな」


吐き捨てるようにそう言う福山の言葉から周人の真の実力を知らない者の反応が予想通りであったため、千江美は心の中で福山をあざ笑っていた。実際に『キング』との死闘を見ていない者が想像できるほどあの戦いは簡単なものではない。それに今見ている限り、無意味な戦いで周人が実力を発揮する程度の男であれば今ごろとっくに第二の『キング』となっていると思える。


「適当に痛めつけた後撤収させろ」

「さっきの少女が接近中!」


福山の語尾にかぶさるようにスーツの男の声が響く。あわてて左端のモニターを見ればさっき周人と接触していた愛里が裏路地を通って駐車場の前に姿をあらわしていた。


「区画を完全に封鎖していたのに・・・・仕方がない、うまく少女を気絶させろ」

「追い出すべきでしょう?」

「時間がない!」


福山の命令を受けて白人の男、ダニエル・ハインバーマンが倒れこんでいる周人を見て震えている愛里へと回り込むようにして近づいていく。


「先生ぇっ!」


悲壮な声で叫ぶ愛里を少し霞む目で見ていた周人はゆっくりと愛里の背後から近づくダニエルを見て急激にその意識を覚醒させた。次の瞬間、ダニエルの手刀が愛里のか細い首筋に叩きつけられ、愛里は力なくその場倒れこみそうなところをダニエルに担ぐ形で持ち上げられた。


「所詮は噂の一人歩きか」


つぶやく仮面の男が四つんばいの周人にとどめをさすべく一歩を踏み出そうとした刹那、周人から爆発的な殺気、怒気、闘気が噴出したかと思うとそれらが合わさって強烈な鬼気の風となって吹きすさんだ。


「こ、これは・・・」


歩みを止めた仮面の男、愛里をかついだダニエル、入り口を防いでいたジャック・テムカーンの全身から嫌な汗が噴出してくる。いまだかつて感じたことの無い恐怖、悪寒が全身を駆け巡る中、目の前の周人がゆらりと立ち上がった。


「そうかよ・・・『魔獣』の名前からは逃れられないってことかよ・・・・わかったよ、オレはどこまで行っても『魔獣』だ。その現実を受け止めてやるよ」


目つき、雰囲気、そして鬼気。どれをとってもさっきまでの周人ではない。


「ちょっと待ってろ、後で相手してやる」


鋭い声で仮面の男にそう言うとやや早足で愛里を担いだダニエルに向かって歩き出した。だがその前にジャックが立ち塞がる。2メートル近い身長のジャックはモスグリーンのTシャツから覗く太い腕に力を込めてファイティングポーズを取った。


「ジャック臨戦態勢・・・どうします?」

「やらせてやれ・・・どうせすぐ終わる」


モニター越しとはいえ様子が変わった周人を見ていても過小評価の福山にため息をついた千江美は周人の雰囲気が『魔獣』と呼ばれていた頃のそれに戻っていることに戦慄していた。


「それよりも少女を彼に返したほうがいいわ・・・でないと全滅よ」

「何を言っている?」

「彼、本気になったわよ」

「だから全滅だと?君は知らないだろうがね、ジャックとダニエルはアメリカでも3本の指に入る強者の教えを受けた男だ。テレビで人気の格闘番組に出たならば確実に圧倒的強さで優勝できるほどの腕をもっているんだぞ?」

「知ってるわ・・・アイスキューブ・ゴッドワルドとゾルディアック・アーロンの2人は。でもね、おそらく彼はその2人よりも強いわ」


その千江美の言葉に返事をする気もなれない福山はリラックスしたような態勢をとってモニターを見つめた。忠告はしたわよと言ったきり黙りこんだ千江美はやや緊張した面持ちでモニターを睨むように見つめた。脳裏に浮かぶのは『キング』と死闘を繰り広げた周人の強さ。この程度の相手など多少のブランクがあろうとも負ける要素が見当たらない千江美は周人の今の実力を見逃さぬようにただじっとモニターに映る2人に注目するのだった。


信じられない光景を前に、康男はどうすることもできずにいた。突然現れた不気味な3人、そしてその中の仮面の男に一方的にやられる周人。中学の頃から周人を知っている上に『キング』との抗争も話で聞いて知っている康男にしてみれば、こうも簡単に周人がやられている光景は認めたくない現実だった。柔道をたしなむ自分が14歳の周人と立ちあって呆気なく敗れた過去も今では自慢だ。それほどまでに強い周人がやられている中、突然現れた愛里が白人の一撃で気を失っている様子を見ながらも何もできない自分が歯がゆかった。それと同時に車内にいながら周人からの鬼気を感じて怯えている自分もいる。そして今、黒人と向き合う周人を見るしかない自分がわずかながらわくわくしていることを不謹慎だと思うのだった。


先に動いたのは周人だった。さっきまでとはまるで違う動きでジャックの右側面に回り込んだ周人に反応したジャックもさすがだが、そこに太い腕で大きな拳を突き出すが周人はもうそこにはいない。パンチを繰り出して伸びきった右腕の手首と二の腕を両手で掴むとその関節に強烈な蹴りを叩き込んだ。折れはしなかったものの凄まじい激痛にジャックの顔面が歪む。その顔面に稲妻のような速さの蹴りがめり込んだ後、ジャックは両膝をアスファルトの地面について崩れ落ちるように倒れこんだ。自分と同等の強さを持つジャックの呆気ない敗北に怒りをみなぎらせたダニエルは愛里を地面に置くと地響きを立てて周人に迫る。周人は一瞬だけ気を失っている愛里に視線を向けてから迫り来るダニエルへと鋭い視線を向けた。次々繰り出される拳と蹴りを全てかわす周人は焦りを見せたダニエルに向かってニヤリと笑った。屈辱よりも戦慄が走る中、ダニエルは絶妙のタイミングで周人の腹部に拳を見舞った。だが、周人はその腕を半身になってかわすと伸びきったその腕を凄まじい速さで逆上がりするようにして両足でダニエルのあご先を蹴り上げた。そのまま両足で首を挟みつつ腹筋の力のみで上半身を起こすと顔面にパンチをめり込ませ、着地と同時に力の抜けた腹部に右拳をめり込ませた。泡を噴きつつ白目をむいたダニエルはそのまま大の字に地面に倒れるとピクリとも動かなくなった。そんなダニエルに目もくれず、周人は突っ立ったまま呆然とした様子の仮面の男の方へと向き直った。


「待たせたな」


そう言いながらゆっくりと近づいてくる周人を見てますます嫌な汗が背中を伝うのを感じる男は息苦しさからその仮面を脱ぎ捨てた。


「言っておくが、俺はその2人よりも強いぞ」

「あぁ、けど、オレほどじゃぁない」


そう言って笑う周人に対し、仮面を脱いだ男は緊張感がありありの表情を見せるのだった。


モニターを見ている車内は緊張感に満ちていた。どう見ても周人がジャックを倒せるはずもないと思っていた矢先、呆気ないほどにジャックは撃沈、さらにはダニエルも子供のようにあしらわれてしまったのだ。


「信じられん・・・・なんという強さ、技だ・・・」


震える声でそう言う福山の横では緊張した顔つきだがまだどこかに余裕のある千江美が睨み合う周人と『魔獣狩り』を映すモニターを見つめていた。ジャック・テムカーンは元アメリカ海軍の少尉であり、固い軍規に耐えられずに除隊して日本に流れ着き、今では福山の推し進める計画に協力している外人だ。だがその強さはアメリカで『凶獣』と呼ばれている海軍中佐アイスキューブ・ゴッドワルドから拳法の手ほどきを受けた怪物なのだ。その怪物を赤子同然に叩きのめし、さらにはダニエル・ハインバーマンすら叩きのめしたのだ。ダニエルはジャックに実力で劣るとはいえ、元アメリカ海軍軍曹の肩書きを持っている上にアメリカでも最強と噂されている海軍大佐ゾルディアック・アーロンから直接武術をならった強者だ。その2人がこうもあっさり負けることなど夢にも思っていなかったために福山のショックは計り知れない。


「しかし、八神はそう簡単に倒せないぞ」

「彼は何者なの?」


つぶやくような福山の声に千江美が反応した。この千江美にしては珍しく情報に疎いが、それはこの計画に興味がない証拠だとも言える。この計画の全容、木戸周人の今の強さからその脅威の度合いを測り、2代目の『キング』になる資質があるかどうかの見極めを兼ねての調査であることは承知している。元々この計画に興味がなかった千江美は今の周人の状態を知りたくて参加したようなものだ。だからか、八神と言われた『魔獣狩り』の正体も実力も把握していなかった。


「八神タクヤ。裏の世界で素手での殺しをしていた殺し屋さ・・・あの『七武装セブンアームズ』を超える実力を持っていたとされていたがそういうものに興味がなく、『キング』の目からも逃れてきた男。裏では有名だよ」


八神に信頼をおいているのか、自信ありげにそう言う福山を心の中であざ笑う千江美は『七武装』や『四天王』そして『キング』を知らぬ者の言い草だと鼻で笑いつつも表情には出さずにモニターを静観した。


「恐ろしいわね・・・3年近く経つのに衰えを知らないなんて」


心の中でそうつぶやきつつもはや周人の勝利を確信している千江美は周人が『キング』という立場に興味がない男だとも理解しているせいか、もはやこの計画に関する興味が失せているのだった。


睨む周人の体から発している鬼気に衰えはない。噂には聞いていた『魔獣』の強さを目の当たりにしながらも八神は自分の勝利を思い描いていた。


「オレを襲った目的は?」

「知る必要はない・・・お前は俺に倒されて終わる」

「たいした自信だけどな、そりゃ無理だ」

「見たところ『キング』を倒した強さはもうないようだな」

「あぁ、ありゃもう無理だ・・・けど、『キング』以外なら負ける気はしねぇ」

「俺は『七武装』よりも強いぞ」

「かもな。でも、あの神崎ほどじゃないな」


馬鹿にしたようなその笑みに八神の表情が鬼に変わった。殺し屋、しかも素手をポリシーに多くの人間を殺してきた。そんな彼をスカウトしてきた福山から言われた『政府公認の殺し屋』という立場に魅力を感じてこの仕事を請け負った。罪に囚われずに殺しができると仕事を受けたが、まさかこうまでプライドを刺激されるとは思ってもみなかったせいか、そうさせた周人に対しての怒りは最高潮である。自分は『キング』には叶わないもののそれに次ぐ実力者だと自負して今日まで生きてきた。つまりは『キング』を倒したこの男を倒せば文句無しに自分がナンバーワンとなるのだ。その自分に対して格下と思っている『七武装』神崎京よりも下だと言われればこうもなろう。素早いパンチを繰り出しながらタイミングを微妙にずらした蹴りを織り交ぜる。それら全てをかわすかいなす周人の動きは予想の範囲内だ。なぜならば今のコンビネーションは力をセーブしての攻撃に他ならないからだ。そして徐々に力とスピードを増していく。ある一定のリズムの中に微妙な変化を生じさせてそれ狂わせるのが八神の持ち味だった。そしてその変化に気付いた頃にはあの世行き。その証拠に周人は避けきれずに受けていなすのがやっととなっていた。そんな周人の側頭部に脅威の速度を持つ蹴りが放たれた。これで意識を奪い去った後で頭を砕くのが八神のフィニッシュだ。だが、その八神の描いた構想は意外な形で崩れ去った。同じスピード、同じ強さの蹴りが八神の蹴りと激突する。足首同士がぶつかり、反発しあって戻るのを信じられない思いでみつめる八神は悪鬼の如き笑みを浮かべる周人を見て身震いをし、一旦間合いを置いた。


「貴様・・・」

「残念だけどな、やっぱお前は神崎以下だ」


そうつぶやいた周人が神風のごとき速度で間合いを詰める。迎え撃ちにかかる八神の蹴りを身をかがめて避けた周人はそこからさらに加速して左の肘をみぞおちに叩き込んだ。八神の呼吸が一瞬止まる。さらにそこから右わき腹に拳をめり込ませた刹那、左右同時に足が跳ね上がるのを見たのを最後に、八神の意識は吹き飛んでいた。強烈な打撃が左右同時に頭部に炸裂したのだ。激しく脳を揺さぶられた八神はそのまま糸の切れた操り人形のごとくアスファルトに倒れこみ、動かなくなった。


「目的聞くのを忘れたなぁ」


つぶやく周人が足下に落ちていた黒い仮面を拾い上げる。そしてその視線がガレージの入り口付近に向けられて止まった。


「おいおい・・・マジかよ」


呆れたような口調をするがそれは場違いと思える。なんと両膝立ちのジャックが銃口を周人に向けているのだ。どうやら気を失わずに済んだジャックが怒りに任せて銃を抜いたようだ。ワンボックスカーの中では対応に困ってどうしていいかわからないスーツの男と福山が焦った声でジャックに無線で呼びかけている。だが、周人の攻撃で右耳に取り付けられていた小型無線機は地面に落ちていてもはや誰の声も届かない状態だった。周人は冷静な目をただジャックの銃口にだけ向けて意識を集中させた。右手に持っている仮面を親指と人差し指、そして中指だけで持ちながらその時を待った。


『パン』


テレビドラマにはない乾いた、それでいてシンプルな音が人気のない駐車場に響き渡った。モニターを見ていた3人と車の中の康男の目に飛び込んできた光景は半身になって右手を前に伸ばした周人と右手を押さえるジャックの姿だった。ジャックの膝の前には黒光りしている拳銃が落ちている。しや、よく見れば拳銃のそばにはさっきまで周人が持っていた黒い仮面もある。


「まさか・・・よけた?」

「よけながら仮面を投げたのよ・・・凄いわ」


震える声の福山に千江美の声がかぶさる。だが千江美の声には動揺はなく賞賛が込められていた。


「ど、どうしますか?」

「一時撤退する。車を出せ。3人はあとで回収だ」

「で、ですが銃は?」

「意外と『魔獣』がどうにかするわ」


そう言いながらあごでモニターを指せば周人はジャックにパンチを浴びせた後で銃を遠くに、いや、偶然にも福山たちがいる車の方へと蹴り飛ばした。すかさず近くまで来た銃をスーツの男が素早く拾い、そのまま福山が車を急発進させるその様子を見ながらため息混じりにやれやれと言うと倒れている愛里をそっとお姫様抱っこする。


「どうやら、また何かが始まろうとしているのかもしれないな」


疲れたようにそうつぶやきながら倒れている3人を見渡した後、塾の車へと歩み寄る。


「塾長、無事ですか?」

「あ、ああ・・・・君こそ大丈夫なのか?」

「ええ。まぁ、痛かったですけど」


のそのそと車から出てきた康男の無事を確かめた周人はあれだけの戦いの後ながらさわやかに笑って見せた。


「新垣さんも無事みたいですし」

「しかし君ってあそこまで凄かったんだね・・・正直びびった」


その感心したような言葉に苦笑した周人はとりあえず愛里を塾に運ぶことを提案し、康男もそれを了承した。


「村上ぃ!お前も来い!」


その声に驚く康男がきょろきょろしてみせれば、駐車場の裏手から雅人がひょっこり顔を出した。一旦逃げようかと考えた雅人だが、愛里のことが気になるほうが恐怖を抑え、周人の元へと走り寄ってきた。


「いつから気付いていたんですか?」

「最初からだよ。お前に頼みがある、一緒に来てくれ」


あの状況で雅人のことすら気付いていた周人に驚く康男だが、とにかく愛里を休ませるために塾へと急いだのだった。周人は雅人の背中に回ると愛里をそっとおぶるようにさせてやった。戸惑う雅人だが、小さな2つの膨らみを背中に感じてしまいドキドキしながらもそっと愛里をおんぶしながらゆっくりと歩き出す。愛里の温もりを直に感じる思春期の少年は顔を真っ赤にしながらも力強く歩いて行くのだった。

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