微熱恋愛物語 前編
『くもりのち、はれ』 本編第十九章後の物語。
宮崎梨紗と里中龍馬の恋の行方を描きます。
毎年毎年同じ事をテレビで言っているような感じがするが、確かにこの夏は暑かった。過去最高の気温を記録したり、時折降る雨の量もまた格別だった。そのせいか、夏休みは連日海水浴やプールを楽しむ人々で溢れ返り、クーラー等冷房機器による消費電力量や水の使用量も例年を遥かに上回ったほどだ。いつもは職場の冷房設定温度も高めにされているのだが、今年はそれでは業務に支障が出るとして気持ち程度だが温度が下げられたのは幸いだった。広いフロアとはいえ、1人に対して1つのパソコンともなればそれだけで熱量は高くなっている。基本的にラフな格好が許される女性社員とは違い、半袖Yシャツ姿に作業服の男性社員にとってこの暑さは地獄かと思えるほどのものだった。パソコン画面を見ながら机の上に肘を付いた手にアゴを乗せ、気だるそうにウチワをパタパタ仰いでいるのは主任の木戸周人である。夏を前にしたこの6月に5年に渡る交際の末に結婚したばかりの新婚さんだが、9月も終わろうとしているこの時期になっても尚そういった空気は微塵も無い。左手の薬指に光る新しい結婚指輪がただ一つ新婚を臭わせる物なのかもしれないほど、この男に生活臭はなかった。
「窓を開けても閉めても暑いってのは、誰かのいやがらせだなぁ・・・」
やる気なさそうにそう言う周人は嫌に『誰かの』を強調した言い方をしながら目だけを通路の向こうへと向けていた。そんな言葉と視線に反応したのはその通路に向かって座っている形を取っている周人の部下、宮崎理紗だ。理紗は周人の言った言葉の真意を理解し、小さくくすりと笑うと軽やかな手でキーボードを叩いていく。そんな理紗を一瞬だけ見たのは理紗の目の前に座っている里中龍馬だ。すらっとした鼻筋にややきつめながら大きな瞳、そして少し長めの髪はどこかのモデルか何かかと思わせる容姿をしている。さぞかしモテるだろうとの他の男性社員の冷ややかな視線とは裏腹に、今をもって彼女もいない上に女性からの誘いは片っ端から断っている始末である。ただ1人の例外を除いて。
「木戸・・・例のデータは揃っているのか?」
そう言って理紗が見ていた通路の先からやって来たのはこの暑い中でもしっかりとスーツを着た柔らかいパーマのかかった髪形をした眼鏡の男性だった。額にかいていた汗はそれなりに涼しい環境に入ったせいか徐々にだが少なくなってきている。明るい感じの青色した縁の眼鏡を右手の人差し指でツイと持ち上げる仕草もどこか上品だ。そんな男性社員に軽く頭を下げた理紗に口の端のみを小さく吊り上げて微笑を見せたのも一瞬、その笑みが嘘のような鋭い目を周人に浴びせている。いや、正確には周人の左手薬指に光る指輪に、だ。
「相変わらず偉そうだな・・・本社に行ったら格が違うねぇ」
「フン!」
周人の嫌味すら鼻息1つでかわすその男、遠藤修治に怯えた感じを見せる周人の部下、とりわけ若い男性社員はなるべく目をあわせないようにしていた。かつてこのカムイモータース池谷工場のハード開発部門でその名を馳せた遠藤が本社に栄転になって2年が経つ。仕事ができる上に社長である菅生要も注目しているエリートなだけに、皆その存在感だけで圧倒されている人物でもあった。現に課長や部長クラスでもその仕事振りに注目し、一目置いているほどだ。だが同期であり、自身がライバル視している周人だけはそういった態度を見せていなかった。ここで一緒に仕事をしている時からなんら変わらない。
「データはこいつ。さっき里中君がチェックしてくれて、内容は完璧。まぁ本社のド偉い主任さんの目から見ればアラがあるかもしれないのでチェックは厳重に願います」
芝居がかったその言い方に理紗は表情をニヤけさせ、龍馬は無表情のまま遠藤を見る。そんな2人を見ながら目を細めて片眉を吊り上げる遠藤はデータの入ったDVDをひったくるようにして受け取ると腕組みをしてみせた。
「美人の奥さんは元気か?」
「あぁ。この夏で銀行も辞めて、今じゃ気楽な専業主婦してるよ」
軽い近況を報告しながらも、彼女の時代から頭に『美人の』を付ける遠藤に疲れた顔をする周人は手にしていたウチワを置くと遠藤を休憩室に誘った。
「ここは暑いから、冷たいもんでも飲みにいくか?」
「お前のおごりならな」
「本社のド偉い主任さんにしてはえらくセコイな・・・」
「いちいちオレの役職に『ド偉い』を付けるな!印象が悪くなる」
「じゃぁオメーも人の奥さんに『美人の』を付けるのを止めろ」
「彼女が美人なのは事実だろうが」
「もう結婚したんだから諦めたら?女々しいなぁ、このシスコンが」
「だ、だ、だ、誰がシスコンだ!それにオレは別にお前の奥さんをす、好いてはいない!」
「へぇ~・・・そう」
罵りあいながらも休憩室へと向かっている2人に小さな笑いをこぼした理紗につられてか、普段は無口で無表情な龍馬も小さな笑みを見せた。そんな2人の様子をじっと鋭い目で見ている人物がいた。理紗の隣に座っている入社2年目の相楽はやねだ。今風のコギャルめいたメイクに茶色い髪をパーマにしたこの職場には似合わない風貌だが、かつての理紗もこれに近かったために別段誰もそれを気にしたり咎めたりすることはなかった。自分の入社と同時期に横浜支部から異動してきた龍馬に一目惚れをし、あれこれ誘いを入れたりしてアプローチをかけているはやねだが一向に成果は無く、逆に邪険に扱われているぐらいだ。それでも龍馬を諦めることなくアタックしつづけている彼女を応援する者も多いのだが、どんな女性からの誘いも即座に断る龍馬は仕事以外の会話をすることはなかった。ただ1人の例外、理紗を除いて。そう、はやねは知っていたのだ。どんな女性からの誘いも受けない龍馬がほとんど毎週といってもいいぐらい頻繁にデートをしている女性こそが理紗であると。入社した当時は毅然とした態度に加えて仕事のできる女性として憧れを抱き、上司である周人にも真っ向から意見を言う理紗を尊敬していた。だが、今ではそれもない。普段の飄々としたどこか頼りなさげの周人に対して嫌悪感を抱いているはやねにしてみれば、そんな周人に真正面から意見を言う理紗は理想の女性像だった。だがある日を境に理紗からその刺々しさが消えた。それと同時期に無口無表情の龍馬が理紗に対してのみは柔らかい表情を見せるようになったのだ。これから導き出される答えは1つしかない。2人は付き合っている、はやねはそう確信していた。だが実際はそうではない。デート自体はしているのは事実なのだが、付き合ってはいない。理紗には龍馬に対する淡い恋愛感情があるにはあるのだが、どこか近寄りがたい、深く踏み込めない雰囲気を持っている龍馬に自分の想いを伝えることができていないのだ。優しい面を見せながらも、時折ひどく冷たい感じを出す龍馬に戸惑っているのもまたその要因だ。自分が好きでも相手からは好意というものが感じられない。時折見せる優しさが幻のように普段の龍馬は素っ気ないのだった。それでも龍馬を好いている要因はその時折見せる優しさなのだ。かつて想いを寄せていた周人が見せる優しさとは全く別次元であるその優しさは、さりげないながらもしっかりと心に届いていた周人のものとは違い、戸惑いを与えるのだ。それでも自分以外のどんな女性からの誘いもあっけないほどに断っている龍馬が自分の誘いだけには了承して会ってくれるというのは、自分が他の女性とは違った特別な存在なのだという認識もあってかなり心境は複雑なのだった。目の前に座る龍馬をチラッと見た理紗は小さな小さなため息をつくと仕事に戻り、そんな理紗の視線とため息を見逃さなかったはやねは唇を尖らせてパソコンの画面を睨みつけるのだった。
「どうも、こんにちは」
見かけ通りの優しい口調はその雰囲気とマッチしていた。紺色のスーツにオレンジがかったネクタイをしたスラッとしたその男性はその若々しい外見とは裏腹に四十歳に王手をかけていたが、年齢通りに見られることはまずない。童顔とまではいかないまでも、若い顔つきははっきりしていて普通よりも美形な方か。このフロアに出入りするようになってわずかに2ヶ月足らずだが、女子社員からの人気は高かった。とはいえ、彼はここカムイモータース池谷工場の社員ではなく、部品を提供している下請け中小企業の社長であった。社員は二十人程度しかいない小さなものだが、扱っている電子部品はカムイはおろかライバル会社である常盤重工の他にも多くの企業が欲しがるほどの性能を発揮しているのだ。この奥寺義人が社長に就任した際に三つの部門で大手企業と提携をし、自動車メーカーはこのカムイ、家電としてはブラッケイプコーポレーション、特殊機器に関しては西芝という3メーカーにだけ供給することを方針としたのだ。奥寺率いるアクアコーポの部品を導入した結果、周人たちの仕事は飛躍的に活発になり、今や自動車の制御を司る重要なキーパーツとして今では欠かせないほどのウェイトを占めているのだった。
「奥寺社長。今、木戸はちょっと席を外しているのですが・・・」
「そうですか・・・すぐお戻りになられますかね?」
理紗の言葉に少し周囲をグルッと見渡すようにした奥寺は近くに周人の姿がないことを確認して小さなため息をついた。理紗はその言葉にうなずき、空いている席を勧めた。
「スペックアップのデータを持ってきたので、ご挨拶にと思ったのですが」
穏やかな笑みをたたえつつそう言う奥寺はとても社長とは思えず、どこかの営業マンにしか見えない。社長というべき風格や威厳がまるで感じられないのだ。実際に理紗は初対面の時に営業マンだと思い込んでいたほどにそれらしいオーラも何もなかった。
「では待たせていただいてもよろしいですか?」
実に穏やかな口調と笑顔を向ける奥寺に対し、理紗はかなりの好感を得ていた。勧められるままに空いている席に腰をかけた奥寺はその椅子ごと理紗の真横に近寄ると持ってきていたスペックデータを机の上に置いた。
「今度、よろしければお食事とかいかがですか?」
理紗以外には聞こえない小さな声でそう言う奥寺に驚きの表情を浮かべつつも周囲の目を気にしてすぐさま平静を装うようにしてみせる。見た限りはやねも龍馬も気付いているような節はない。だが実際は龍馬の耳には聞こえているようで一瞬だけ自分を見やったのを見逃さない。
「あ、いえ・・・・まぁ」
歯切れの悪い言い方だと理解しながらもどういった返事をしていいかがわからない。一瞬だけチラッと龍馬の方を見やるが、龍馬は机の上に置かれた書類を見ているので視線に気付くこともない状態だった。
「そうかしこまることではなく、単純にあなたのような聡明で美人な方とお話したいと思っただけです」
にこやかな表情を崩さずにそう言う奥寺からはいやらしさやよこしまな感情、雰囲気は一切なかった。今言った言葉どおり、ただ単に食事を共にしたいという気持ちだけが伝わってきていた。
「まぁ無理にとは言いませんので、もしその気になられましたら連絡下さい」
決して強要せず、かといって引き下がることもしない絶妙な言い方に笑みを返すしかできない理紗は再度龍馬を見てから分かりましたと返事をした。
「奥寺さん・・・いらしてたのですか」
遠藤を引き連れる格好で戻ってきた周人の声にそちらを見やった奥寺は椅子から立ち上がると会釈をし、通路へと出て周人を出迎えた。そんな奥寺を見て少し困った顔をした理紗はもう一度チラッと龍馬を見るが、やはりその顔はパソコンの画面を見つめたままだった。
「ええ、スペックデータを届けに」
そう言いながら周人の横に立つ遠藤を見て頭を下げる奥寺に遠藤もまた軽く頭を下げた。
「わざわざすみません。あ、こっちは本社の遠藤です」
さすがに『ド偉い』という言葉を付けずにそう紹介した周人にホッとした遠藤は珍しく愛想よさを振りまきながら名刺交換をするのだった。そんな周人と遠藤が奥寺を交えて軽い談笑をしているのを見ながら、理紗は何の反応も見せなかった龍馬に腹立たしさを感じつつも付き合っていないのにそれはおかしいという気持ちに挟まれて複雑になるのだった。
その日の定時後、周人は遠藤に誘われて飲みに出かけていった。遠藤にしてみれば周人の妻である由衣に対して結婚してしまった今でも好意を抱いている上に片思いの未練がタラタラなたせいか、その由衣の話を聞きたいのだ。周人は疲れた表情をしながらもハード部門の設計主任をしている梅宮の同行もあって渋々それに付いていったという感じであり、そんな周人に苦笑しつつ残業を決めた理紗は同じく残業のために残っている龍馬の方をチラリと見やった。昼間、奥寺から食事に誘われた話は聞こえていたはずだ。なのに何の反応も示さなかった龍馬に対しての不安、苛立ちといった負の感情が湧き上がってくる。だが、別に龍馬とは付き合っているわけでもなく、ただデートをしているだけの親しい関係にすぎない。それでも龍馬に対する恋心を持っている理沙にしてみれば、かなり親密にデートをしている龍馬とは恋人同士に近い関係だという認識があるために昼間の龍馬の態度はどうにも釈然としないのだ。しかも女性からの誘いは自分を除いて全て断っている龍馬を見ているだけに余計にそう思ってしまう。
「何?」
無意識的に龍馬を見つめている、いや、睨んでいるといった方がいい目つきをしていたせいか、不意にそう言われた理沙は愛想笑いを見せつつなんでもないと答えた。そのままパソコンの画面に顔を戻したため、龍馬は表情に微塵の変化も見せないで理沙から視線を外した。
「悪いけど、今日は帰るよ」
「そう、お疲れさまでした」
パソコンの電源を落としながらそう言う龍馬はチラッとだけ理紗を見たが、理紗は龍馬を見ない。そのせいで珍しく龍馬が小さなため息と共に眉間にシワを寄せたのを見ることができなかった。そしてそのまま何かを言いかけた時、帰る準備を完了し、あとはタイムカードを押すだけとなったはやねが小走りに龍馬に駆け寄ってきた。その様子をモニター越しに見つつも無視をしている理紗を目の端に留めつつ、龍馬ははやねへと顔を向けたが相変わらずの無表情へと戻っているその顔すら気にせず、はやねは満面の笑みを浮かべてさらに一歩龍馬へと近づいた。
「私も帰るんで、一緒してもいいですか?」
そう言いきった後、チラッと横目で理紗の様子をうかがう。だが理紗は書類に目を通しているせいか2人を見ることは無かった。そんな理紗に一瞬だけ勝ち誇った笑みを浮かべたはやねだったが、それも言葉通り一瞬で掻き消えてしまうのだった。
「悪いが用がある・・・一緒なのは門までだ」
実に冷たい目、口調。さすがのはやねもその気に押されてしまったが、門では一緒に行けると自分を奮い立たせてぎこちないながらも笑顔を見せた。
「お疲れさまですぅ」
可愛い声ながらどこかトゲのある言い方に理紗が顔を上げたが、にこやかにお疲れ様と返されてムッとした顔をする。今、龍馬の彼女に一番近い位置にいるとされている理紗の余裕と受け取ったはやねは睨むようにしながらも既にフロアを去ろうとしている龍馬に追いすがるよう早足で駆けていった。そんな2人の後ろ姿を見つめつつ、椅子に深く沈み込む形を取りながら真後ろにある窓の外へと顔を向けるが、そこには夕方とは思えない明るさを持った世界があった。もう暦の上では十分に秋なのにこの明るさ、そして暑さ。小さなため息をついたのはその季節に似合わぬ秋のせいか、はたまた別の理由か。
「めんどくさい男を好きなった私が悪いのかもね・・・」
つぶやきながらすぐ横の周人の席へと視線を向ける。そこはつい一年ほど前まで好きだった人の席。だが、今はすぐ目の前にいるその人物が好きだ。その気持ちに気付いたのは今年に入ってからだが、相手も少しは同じ気持ちだろうと思っていただけにここ最近の龍馬の態度はどうにも腑に落ちない。自分と仲良く接しながらも深い関係にはならず。時折突き放すような態度も取れば今のようなこともしばしばだ。自分以外の女性の誘いを全て断ってきている龍馬は有名なだけに、周囲からもそういう話をされるが仲の良い友達止まりだと素直に答えるしかなかった。しかしながらそれを誤魔化しと取る者も多く、つい先日まで自分を慕ってくれていたはやねのように手の平を返す態度を取る者も少なくない。
「はぁ~・・・」
大きなため息をつきながら椅子を回転させた理紗はどこか膨れたような、それでいて悲しげな表情をしながらパソコン画面へと視線を戻すのだった。
「宮崎さんと、付き合ってるんですか?」
「いや、そういう関係じゃない」
エレベーターを降りて歩く龍馬に並ぶのが精一杯の歩調だが、はやねはさほど苦ではなかった。それよりも少しの時間ながら2人きりでいられることの方が幸せだった。
「デート・・・してますよね?」
「している、と言えるね」
「私とは・・・ダメですか?」
「すまんがプライベートなことに首を突っ込まれるのは嫌いでね」
ややきつい口調でそう言いきった龍馬だったが、はやねにしてみればこの龍馬が普段の龍馬だ、気にするほどのことではない。
「そぉですか・・・」
「そういうこと。じゃぁな、お疲れさん、気をつけてな」
チラリとはやねを見て早口にそう言うと、龍馬はさらに歩く速度を上げて駐車場の方へと行ってしまった。社交辞令かもしれないが、自分に対して『気をつけて』と言われて嬉しくなるはやねはお疲れ様でしたと元気良く言うと、車に乗り込む龍馬を見てから鼻歌混じりに正門へと向かうのだった。
翌朝、珍しく遅刻寸前で飛び込んできた理紗は無表情の龍馬に息切れの挨拶をして席に着くと冷ややかな目を向けるはやねを無視して周人の方へと顔を巡らせた。来ているのがわかる机の上には昨日には無かった書類が置かれている。ハンカチを取り出して軽く汗を拭きつつもゆっくりと深呼吸をしてみせる。そんな理紗を見て小さく微笑んだ龍馬に気付く者はなく、慌しく席に戻ってきた周人は机の上の書類を手に取りながら何かを考え込むようにしていた。始業のチャイムが鳴り、我に返った周人は簡単な朝礼を行っただけで再び書類へと視線を戻す。全員が緊張感もなく椅子に座って今日の業務に取り掛かろうとした刹那、やって来た遠藤を目の端に留めた者たちから緊張感が滲み出てくる。いつもと変わらぬ龍馬、遠藤にそう怯えも無いはやね、そして会釈をする理紗以外のメンバーはいつもにはないてきぱきした動きで業務を開始していくのだった。
「朝からややこしいことを言いやがって」
「それがお前の仕事だろう?」
「余計な仕事を増やしたのはお前だろ?」
睨むように遠藤を見ながらそう言うと、分厚いファイルの並んだ棚から薄めのものを数冊抜き取ると机の上に置く。お互い言葉の節々に嫌味を込めたやりとりをする2人をどこか懐かしい感覚で聞いていた理紗は小さく微笑むと起動したパソコンのメールを起ち上げるのだった。
「すみません、遅れまして」
やや小走りでやって来たその人物の声に顔を上げた理紗に笑顔で挨拶してきたのは奥寺だった。どうやら周人と遠藤の仕事に関わっているらしく、3人は朝の挨拶もそこそこに会議室へと向かってしまった。上司が、何より遠藤が消えてくれたことで緊張感が立ち消えた面々はやや緩んだ調子で業務を始めていく。はやねはマイブームになっている青りんごのアメを口の中でコロコロ転がしながら軽快なタッチでキーボードを叩いていった。結局周人たちが戻らぬまま十時を迎え、気分転換にお茶をしに行く者やタバコを吸いに行く者がいる中、トイレに向かったはやねの背中を見つつ背伸びをした理紗はグループの中で自分と龍馬しかいないことに気付いて少しそわそわしてしまう。そんな理紗をチラッと見つつ、龍馬もまた小さく背伸びをするのだった。
「あのさ」
潜めるような声だったがしっかりと龍馬の耳には聞こえていたようで、顔を向けられた理紗は少し周囲を伺うようにしながら前のめり気味に体を折り曲げて少しでも龍馬に近い位置に体を持っていった。
「今度の日曜・・・・いいかな?」
「あぁ・・・・」
高揚のない声はいつも通りだが、どこか不機嫌な感じに取れた理紗は表情を曇らせる。それを見ていながら何も言わない龍馬にどこかムッとした感じの理紗はここ最近の龍馬の態度に苛ついていたせいか、珍しく怒った顔を見せた。
「イヤならイヤで、そう言ってもらっていい!」
「イヤとは言ってない」
「口にはしてないけど、そういう感じがしたから」
素っ気なさに素っ気なさで返す自分を嫌悪しつつ、理紗は膨れっ面をしたままパソコン画面を睨みつけた。結局龍馬もそのまま何も言わず、休憩から帰ってきた者たちは言い知れないピリピリ感に戸惑いながらも仕事を再開するのだった。
昼休みを告げるチャイムが鳴り、弁当を広げる者や食堂へ向かう者などで人気がなくなったフロアに朝からずっといなかった周人たち3人が戻ってきた。出張となっている遠藤は弁当など無く、奥寺を伴って食堂へと向かう。もちろんその前に愛妻弁当を持参している周人のその弁当の中身を見ようと、あわよくば一口いただこうと一悶着を起こしたのは言うまでもないが。やれやれとばかりにため息をつきながら弁当を広げる周人を見ながら、理紗は自分で作ってきている弁当の中から卵焼きをついばんで口へと入れる。
「悪いけど、昼からもあのバカに付き合わされるからさ、なんかあったら対応してもらえる?」
『あのバカ』が遠藤を指すことは分かっている理紗は苦笑混じりの笑顔ではいと返事をした。
「里中さんもいるし、大丈夫です」
「そう言ってもらえると助かるよ」
小さく微笑みながらそう言う周人はお茶を飲みながらホッと一息ついた。その後は会話もなく、理紗も周人もインターネットをしながら昼食を終え、周人はタバコを吸いに行き、入れ違いに龍馬が奥寺と共に戻ってきた。相も変わらず無表情のままの龍馬は席に着くとインターネットでニュースを見、奥寺は愛想の良い笑みを浮かべながら理紗の横に立った。
「相変わらずお忙しいようですね?」
にこやかなその表情とマッチした柔らかい口調に理紗も笑みを返した。
「そうですねぇ・・・まぁ以前よりは幾分落ち着いていますけど」
「そうですか・・・なら食事は諦めるしかねいですね」
「あ・・・はぁ・・・」
昨日のことを思い出した理紗は奥寺に気付かれぬよう龍馬を見やったが、やはり龍馬に変化はない。完全無視といった風だ。
「また落ち着いたら、ということでお願いします」
柔らかい雰囲気をそのままにそう言う奥寺にどこか気が引けてしまう理紗は再度龍馬を見たが、やはりというか当然変化などない。最近のこの態度にどこかイライラしていた理紗は自分が龍馬を好いているため、少なくとも好かれていると思っていただけにそのイライラが急激に上昇していくのを感じていた。自分だけは特別だと思っていた。昨年の『アーク』の手の者による事件の際も自分を守って戦い、自身の過去すら話してくれた龍馬。女性には素っ気ないその龍馬が優しさを見せ、デートしてくれていると事実があるだけに、理紗は今をもって何の反応もない龍馬に疲れて始めていたのかもしれない。
「今日なら・・・今日でしたら、かまいません」
理紗は無意識的にそう口にしていた。その言葉に奥寺は驚き表情を喜びに変えて理紗に詰め寄ってきた。
「ほ、ほんとですか?いやぁ・・・嬉しいなぁ!こりゃなんとしても時間内に仕事を終わらせなくちゃ」
嬉々としてそう言う奥寺の言葉に微笑む理紗は龍馬の反応を見たかったが、どうせ何も感じていないだろうと様子を見ることもなかった。紳士的で温和な奥寺は下心無くまっすぐに自分を見ているのを知っていた。だからこそ2人で食事に行くことにしたのだが、それが龍馬へのあてつけであるという自覚は乏しい。やがて遠藤に絡まれながら戻ってきた周人がえらくテンションの高い奥寺に眉を寄せ、その原因を探るべくその場にいた理紗と龍馬を見やった。理紗はやや和んだ雰囲気を持ち、龍馬にかすかな『負の気』を感じたがそれを奥寺と結びつけることはできない周人はそう気にすることでもないとして奥寺と会話をするのだった。
周人、遠藤、奥寺は昼からも会議室から出てくることがなかった。時刻は午後4時、定時まであと1時間半。理紗は背伸びをしながら時計を確認し、定時後のことに思いを馳せた。
「宮崎さん、これチェックOKだったから、よろしく」
目の前に座る龍馬が書類を差し出す。さっきのことがあってもいつもと何ら変わらない龍馬に嫌悪感を持っている理紗は義務的な返事をして書類を受け取っただけで龍馬を見ることはなかった。
「本当に行くのかい?」
「え?」
小声ながらはっきり聞こえたその言葉の意味を理解するまで少々時間を要したが、驚きと嬉しさが体中を駆け巡るのがわかる。あの龍馬が少なからず自分を気にしていると言えるその発言は食事を了承した理紗に龍馬に対する罪悪感を与えた。
「まぁ、一度だけって感じだけど」
ばつが悪そうにそう言う理紗は苦笑いを含んだ笑みを見せた。だが、すぐにそれは掻き消えた。
「そう。きっと美味いものを食わせてくれるだろう、期待してていいと思うよ」
あまりに素っ気ない言葉、口調。もはや怒りを通り越して悲しくなってしまった理紗はそうね、とだけ答えると席を立ち、トイレへと向かった。その背中をチラリと見た龍馬は表情を曇らせて深いため息をついたが、またすぐにいつもの無表情に戻ると業務を再開するのだった。
「宮崎さん、デートですかぁ?」
何も知らないはやねが今の会話から理紗と誰かが食事に行くのだと邪推し、龍馬にそう訊ねてきた。
「あぁ、そうだ」
いつもと若干違うどこか怒ったような口調だが、普段からそういう風にされているはやねにとっては気にすることではない。
「誰と?」
その質問には答えずにタバコを手に席を立つ。そんな龍馬に仏頂面を見せたはやねだったが、これはこれで自分にはチャンスに違いないと考え、ヒヒヒと老婆のような笑い声を出して周囲に恐怖をばら撒いたのだった。
奥寺は定時ギリギリに戻ってきた。もちろん周人も遠藤も同じだ。疲れた様子の周人と違い、遠藤はどこかリラックスしている。
「一旦会社に戻りますので・・・どうしましょうか?」
そう問われた理紗はどこで食事をするのかを訊ね、桜ノ宮だと返事を受けて七時に駅で待つと告げた。その会話で理紗が奥寺と食事に行くのが周囲にバレたが、もはや理紗に隠す理由もないし気にすることもない。
「よろしければ車で行きましょう。書類を置けばいいだけですので」
「ならそうします」
奥寺という人を良く知らないが、こうまで公に宣言した上で自分に変なことをしてくる人間だとは思えない。もし仮に何かされたとしても周人に言えばいいのだ。泣き寝入りはしないタイプの理紗はそう考えて返事をしていた。そのせいか、やはりここでも龍馬へのあてつけという自覚はない。そそくさと帰り支度を整えると奥寺に付き添う形でさっさとフロアを後にしてしまった。龍馬はそんな2人の後ろ姿を見つめながらも表情を変えず、そんな龍馬をどこか複雑な心境で見やる周人は疲れた様子で椅子に腰掛けた。
「私たちも食事とかどうです?」
理紗たちがいなくなりしめたと思ったのか、はやねは昨日断られながらもめげずに斜め前に座る龍馬に向かってそう切り出した。
「悪いが残業だ。それに君と食事に行く理由がない」
いつも通りの冷たい回答に周囲は苦笑し、周人は小さく微笑んだ。事情を知らない遠藤は顔にハテナを浮かべ、切り出したはやねは毎度のことなれど落ち込んだ。
「なら遠藤さんでもいいですけど」
落ち込みを怒りに変えたのか、はやねはきつい口調と目つきで遠藤にそう投げかけ、対する遠藤は突然の言葉とその勢いに押されてタジタジとなっていた。本社の主任で仕事もできる遠藤にこうまでの態度を見せる女子社員は少ない、というか、まずいない。理紗でさえ一歩下がった位置からものを言うぐらいなのだ、周囲が驚くのも無理はなかった。
「あ・・・いや・・・まぁ、そうだねぇ」
しどろもどろになる遠藤を珍しいと思う面々をさらに驚きが襲ったのは周人の言葉のせいだった。
「行ってこいよ。若い女性が大好きなお前だ、妹な感じの相楽さんはストライクど真ん中だろ?」
「なっ!誰が!」
「お前しかいないだろ?シスコン入った本社のド偉い主任の遠藤さん」
目を細めてそう言いつつニヤリとしたやらしい笑みを浮かべる周人に対し、恥ずかしいやら腹立たしいやらで顔を真っ赤にした遠藤。周囲から失笑が漏れる中、依然として怒った風な感じのはやねと目が合った遠藤は愛想笑いを浮かべることしか出来なかった。
「どうするんです?」
「・・・・・・俺でいいなら」
もはやその気迫に押されての承諾だったが、自分のタイプとは程遠いはやねと何を食べ、何を話していいかわからない。ため息をつく遠藤をニヤついた顔で見やった周人は龍馬を誘って休憩すべくタバコに誘うのだった。それと同時に遠藤もまたはやねを伴ってフロアを後にし、残された者たちはさっきの周人の言葉を話題に笑いにつつまれるのだった。
「良かったのか?彼女を行かせても」
自動販売機で買ったアイスコーヒーを飲みかけた周人だったが、紙コップを口につけずにそう言った。龍馬は冷たい目を周人へと向けながらも取り出したタバコに火を点けてゆっくりと煙を吸い込んでいく。
「いいも悪いもないですよ。別に彼女は俺の恋人でもないんですから」
その言葉を龍馬らしいと思う反面、冷たすぎるとも思う。一口コーヒーを飲んでから口元に苦笑を浮かべた周人は相変わらず冷たい目で自分を見ている龍馬を見てため息を一つついた。
「そうかもしれないけど、近いものがあったと思っていたんだがね」
「遊びには行きますけど、それだけですよ」
「そうか・・・」
そう返すしかない龍馬の言い方にどこか不自然さを覚えるがそこはあえて何も言わなかった。
「前から聞きたかったんですが、『キング』を倒した理由って何なんです?」
飲みかけのコーヒーを白い丸テーブルに置き、胸ポケットからタバコを取り出す周人を見つめる龍馬の目は鋭さを増していた。今の部署に異動してきて顔を見合わせ、お互いに驚いたものだったがその当時の話をすることはなかった。噂で聞いたのは『ヤンキー狩り』が『キング』を狙っていた理由は復讐だというが、それが本当かどうかまでは知らないのだ。
「復讐さ」
「誰の?」
「内緒」
最後のその言葉に龍馬の体から殺気が滲み出てくるのがわかる。かつてキング配下の『七武装』の1人『龍王』と呼ばれていた頃のそれに近い殺気を受けながらも平然と煙を揺らす周人は口の端に笑みを浮かべていた。
「プライベートなことに突っ込んでくるなよ」
素っ気なくそう言うその周人の口調はまさに普段の龍馬そのものだ。真似をされた自覚もなくはぐらされた龍馬は憮然とし、まだ随分残っているタバコをもみ消すとさっさと休憩室を出て行ってしまった。
「やれやれ・・・だな」
ゆったりと昇る煙を見つめながらポツリとそうつぶやいた周人は龍馬と入れ替わりに入ってきた後輩に愛想の良い笑みを見せるのだった。
いつも接待などで利用しているというそのレストランはやや薄暗いながらも豪華なシャンデリアによる明かりが高級感を与えていた。フランス料理のお店だが、値段はそう高くはないと奥寺は言った。だがそれを間に受けるほど理紗もバカではない。運ばれてくる料理や盛り付け方のみならず、お皿なども高級感を与えてくる。その上味もまた格別だ。
「美味しいです」
素直にそう感想を口にした理紗に対して満面の笑みを見せる奥寺は心底嬉しそうだった。年も離れている奥寺だが、妙な親近感を得てしまう。時に子供っぽく、時に年相応の雰囲気を持つ奥寺に好感を得ている理紗は最初こそ来たことを少々後悔していたのだが、今ではもうそれもなかった。奥寺の話は面白く、年のせいか話題も豊富だ。そして理紗に退屈をさせないような気配りもしっかりしており、いつも知っている通りの紳士的な態度のままだった。自慢話もなく、仕事的な話もしない。雑学を織り交ぜながら面白おかしく話をし、何度も理紗を笑わせた。
「木戸さんもああ見えて昔はワルだったそうですね?」
「ええ・・・チラッと聞いただけですけど」
「普段がああいう感じの人こそ怒ると怖いというヤツなんでしょうね。実際納期に遅れそうになったときの木戸さんは困りながらも怖いオーラがでてますから」
「ふふ・・・そうですね。そういった類の電話を切った後なんて話しかけづらいですもの、怖くて」
「ハハハ・・・やっぱり?」
初めてのデート、しかも仕事上の面識しかない奥寺に対して自然に近い自分でいられることの不思議さ。気の利く奥寺は理紗の飲み物が少なくなると先に注文をし、料理に集中している時は黙っている。気配りのよさも自然であり、ようやく叶った理紗との食事だからとがっついた印象もなかった。そうこうしているうちに食事も終わり、2人は会話もそこそこに早々と店を出た。もう一軒誘ってくるかなと思う理紗に並んだ奥寺はレストランの駐車場に向かいながらそのことについて口を開いた。
「さて、では家までお送りしますよ。ここから近いんですよね?」
意外なほどあっさりしたその言葉に理紗は少々ながら戸惑った。純粋に食事だけを楽しみたかっただけなのか、それとも格好をつけているのかはわからない。だがそんな実直な奥寺に好感を得た理紗は今日、奥寺とこうした時間を持てたことに充実感を得るのだった。車でなら10分程度の距離だが、その短い時間がさらに短く感じられるほどに奥寺は楽しい会話で理紗を喜ばせた。やがて車は理紗の家の近くの路地まで差し掛かり、ここで2人の短いデートは終わりを迎えたのだった。
「今夜は本当に楽しかったです。またよろしければ是非ご一緒したいです」
「そうですね、私も楽しかったです。またご一緒させて下さい」
素直な気持ちを口にした理紗の言葉に奥寺はにこやかに微笑んだ。互いににこやかに、そして穏やかな雰囲気を持ちながら理紗は車を降りた。奥寺は外で手を振る理紗に頭を下げてから片手を挙げるとゆっくりと車を発進させ、名残惜しそうに去っていった。車が見えなくなるまで見送った理紗は奥寺という人物に好感を得ながらも、さっきまでまったく気にもしていなかった龍馬のことを思い出してため息をついてしまう。
「ああいう人の方が、きっと大事にしてくれるんだろうなぁ・・・」
ポツリとそうつぶやいてから玄関へと向かった理紗は再度ため息をつきながらドアを開くのだった。
「おはようございます」
「おはよう」
お気に入りのブランドバッグを机の上に置きながら、軽快な音をさせつつキーボードを叩いている龍馬に挨拶したがいつも通り高揚のない口調で挨拶が返ってきたのみだった。やはり龍馬にしてみれば昨日の奥寺とのデートなど気にもならないのだろう。そう思えた理紗だったが、不思議と腹立たしいことも苛立つこともなかった。
「おはようさん。昨日はどうだった?」
今やってきた周人の方がそう言いながら席につく。理紗はにこやかに楽しかったことを告げ、龍馬の様子をうかがうようにしてみせたがやはり何の反応もない。
「そうか。あの人は優しいし、お金もあるし、付き合っちゃえば?」
無責任に思えるような発言だが、理紗はそうですねとまんざらでもないような言葉を返した。その意外な言葉に一瞬眉間に皺を寄せた龍馬を見た理紗と周人はようやく反応を見せた龍馬ににんまりとしたが、どうやら龍馬はメールの内容に反応していたらしく、すぐに周人に指示を仰ぐのだった。そんな龍馬に対して深いため息をついた理紗はいっそのこと奥寺と付き合ったほうが楽だと思うが、それでもやはり龍馬が好きな気持ちが強くてそう簡単には乗り換えなど出来ないことはわかっていた。そんな理紗の心情を察する周人はチャンスを狙って一度龍馬と話をしてみようと思うのだった。そうこうしているとはやねが出社してきた。いつになくご機嫌な様子のはやねは隣の席の暗い理紗を見てどこか勝ち誇ったような小悪魔的な微笑みを浮かべてから昨日のことについて話し掛けてきた。
「昨日はどうでした?」
「ん?まぁ~、美味しいもの食べさせてもらったし、奥寺さんもいい人で楽しかったわよ」
「食事しただけ?」
「えぇ。フランス料理をごちそうになって、んで送ってもらったわ」
「へぇ。いつもどおりな紳士な人なんだ」
やたらキラキラ光るバッグから化粧ポーチを取り出しながらそう言うはやねだが、あまり感情がこもっていない言葉から興味がない様子が手に取るようにわかる。だがその会話を聞いていた龍馬の雰囲気が少し和らいだことに気付いていたのは周人だけだった。
「そういう相楽さんは遠藤と楽しんできたのい?」
始業前だが何かの資料を龍馬に手渡しながらそう言う周人に向かっていつもにはない笑顔を見せたはやねに驚くのはその場にいた全員だ。上司ながら毛嫌いしている周人に対してこうまでの笑顔を見せることなど過去に例を見ないからだ。理紗にしてみればはやねが遠藤とデートをしたこと自体に驚いたのが正解だったが。
「美味しい物をごちそうになって、雰囲気のいいバーに行って、そんで・・・まぁ、おしまいですね」
最後はどこか含みを持たせた言い方だったが、あの遠藤に限ってそれはないと思う一同はかなり振り回されたことがわかるだけに遠藤に同情をした。その直後に始業のチャイムが鳴り、軽い朝礼をした後で業務が始まる。昨日仕事上で遠藤に振り回された周人は今日はそれなりにゆっくりできるとリラックスした様子でメールを起動し、理紗もまた奥寺からのお礼のメールに目を通していた。そんな奥寺に返事を打っている理紗をチラッと見た龍馬だったが、横でやや呆けている感じの周人に怪訝な顔を見せた。周人の表情は驚きと戸惑い、そして苦笑に満ちている。そんな周人は自分を見つめる龍馬に気付き、何やらパソコンを操作すると意味ありげな顔をしてみせた。ますますわけがわからないといった顔をしている龍馬が何かを言いかけた時、画面上にメールが届いたことを示すメッセージが現れた。そしてそのメールを見た龍馬もまた驚きと戸惑いの表情を浮かび上がらせるのだった。それは昨日はやねと出かけた遠藤から周人へと宛てた愚痴のメールであり、そこには衝撃的な内容まで書かれているではないか。どうやら昨日、高い中華料理をおごらされ、あげくにおしゃれなバーに連れて行けとせがまれて渋々高級バーに連れて行き、かなり酔った2人はそのままホテルにまで行ってしまったというのだ。合意の上での行為だったが、はやねは帰り際に『遠藤さんからの誘いで断りきれなかったからしただけ』と言葉を残して去っていったらしい。そのため、不穏な動きがあれば連絡が欲しいと恥を捨てて周人にメールをしてきたのだ。もはや苦笑するしかない2人は顔を見合わせて小さく笑いあい、それを見た理紗は不思議そうな顔をするのだった。
日曜日は快晴ながら秋らしい涼しさをもっていた。十月になってのようやく秋らしい気候とあってか出歩く人が多く、繁華街も人で一杯だった。映画を見ることにしていた龍馬と理紗は早めに来たせいもあって楽にチケットが買えたが、あと10分程度遅ければ長蛇の列に並ばなければならなかったほどに混雑してきている状態にホッとした。まず映画を見て昼食、その後はブラブラする予定である。龍馬とのデートは映画が多く、遊園地などといった場所には行ったことがない。というのも以前に誘ったのだが、そういう場所が好かない龍馬にあっさりと断られていることもあってどこか敬遠しているせいである。付き合ってもいない龍馬に対して強引に出ることもできず、かといって嫌われたくないのでわがままも言えない。それにここ最近の龍馬は素っ気ない上に刺々しいせいか、理紗は龍馬の顔色をうかがう事に疲れを感じ始めているのだった。先日の奥寺との食事を思い出し、ついつい比較してしまう。自分を退屈させないように常に気を配ってくれていた奥寺とは正反対の龍馬にどう接していいか、ここ最近は悩みっぱなしだ。誰かに相談したくとも適任者もなく、こういったことで周人に相談するのも気が引けていた理紗は今日で龍馬との距離を置こうと考えている自分に戸惑いつつも映画に集中するのだった。映画鑑賞後、映画館の真下の階にあるお好み焼きのお店に入った2人はあまり会話もなく注文したものを待つ状態にあった。普段から無口で愛想のない龍馬とは元々会話も弾まないが、ここ最近は会話と呼べる物もほとんどない。付き合ってもいないのにまるで倦怠期のカップルのような状態であり、理紗が龍馬に疲れを感じる最たる原因でもある。
「里中さんさぁ・・・私といて、楽しい?」
「普通だ」
「言うと思った」
答えはわかっていたが、やはり悲しくなってしまう。何を思って自分とだけデートをしてくれるのかはわからない。以前であればひょっとしたら彼も自分を好いてくれているのではないかと淡い期待を持っていたが、今はそれもない。昨年のクリスマスイブの夜、会社で仲良くケーキを食べたことが夢のようだ。あの時の龍馬は優しく、楽しい時間を共有できていた。なのにあの時より親密なはずの今は一緒にいることが苦痛でしかない。それっきり会話のなくなった2人にモダン焼きとミックス焼きそばが運ばれてきた。やはり会話もなく黙々と食べていくだけの理紗だったが、珍しく龍馬の方から話し掛けてきたために驚いてしまった。
「奥寺さんとは、楽しかったのか?」
予想もしていなかった言葉に少々戸惑いつつ、理紗は龍馬がそのことを気にしていたのかと嬉しさがこみ上げてくるのを感じていた。
「うん、まぁ・・・それなりにね」
「彼は以前から君に好意を持っていた。大事にしてくれるさ」
その冷たい言葉に嬉しさは一瞬で消滅し、替わりに怒りが込み上げてくる。早い手つきで焼きそばを平らげていく理紗を見やる龍馬の顔に複雑な感情が浮かんだが、理紗はそれに気付かなかった。
「私、奥寺さんとのこと、真剣に考えてみようかと思う・・・だから、里中さんと出かけるのは、これでおしまい」
怒りがその言葉を出させたのか、それとも疲れからか。何にせよ最近思っていたことをついに口に出してしまった理紗は心の奥底で何かがチクチク痛むのを感じるが、それが何かを考えぬまま龍馬の返事を待った。
「ああ、じゃぁ、そうしよう」
無表情のままそう答えた返事もやはり無感情だった。もはや呆れることもない理紗は何も言わずに黙々と焼きそばを食べ終えると、自分の分の代金をテーブルの上に置いた。
「じゃぁね、さよなら」
にこやかにそう言い残し、理紗はさっさと店を出て行った。1人残された龍馬は相変わらずの無表情のままモダン焼きを食べている。だがその心の中にあるのは喪失感であることを知る者は本人を入れて誰もいなかった。
龍馬との決別宣言から一ヶ月が過ぎた。あれ以降、理紗は2度ほど奥寺と食事をしていた。結構親密になりながらもやはり奥寺は紳士的であり、食事以外に理紗を誘うことをしないし、常に理紗を気遣うことを忘れることもなかった。一度真剣なデートをしてみてもいいかなと思う理紗だったが、それはそれでふんぎりがつかない。やはりまだ心のどこかで龍馬を好いている自分がおり、だからといってそれをかき消すために奥寺とデートをするのはまっすぐな奥寺に対して失礼だと感じているせいかもしれない。だが、理紗は決心をしていた。それこそ奥寺に対して失礼であり、龍馬のことを吹っ切るためには奥寺とデートをするのが一番だと思ったせいである。そして3度目の食事の約束をした理紗はその際に一度デートをしましょうと告げる決意を固めたのだが、それを揺るがす事件がおきたのは十二月の最初の週だった。その日は朝の朝礼ではなく、朝一から周人のグループメンバー全員が会議室に呼ばれたのだった。しかも、グループリーダーの周人からではなく、ソフト開発課長である飯島直人よりの要請であり、全員が神妙な面持ちで会議室に入った。そして飯島から告げられたのは人事異動の話だった。
「え~、二月十六日付けをもって、里中君にフランス支社への転勤辞令が出た。これは里中君の実績を買ったものであり、レースマシンのソフト開発自体が落ち着いてきたせいもある。木戸主任と本人の了承は既に得ているので、今後の仕事の分担等、引継ぎに関しても木戸主任の方から指示がある」
その挨拶の後、里中から簡単な挨拶があり、周人から引継ぎに関しての話があった。理紗は龍馬がいなくなるというショックからか、その説明などろくに耳に入らず、ただただ呆然とするしかなかった。そしてそんな理紗とは対照的に、はやねが実にあっけらかんとしていることに気付いた周人ははやねが遠藤と付き合っているのではないかと邪推しながらも理紗と龍馬、2人別々に話をしてみようと思うのだった。
年末に向けて業務も忙しくなり、龍馬の仕事の引継ぎ等もあってなかなか2人と話ができなかった周人が龍馬と2人だけで飲みに行くことになったのは一月半ばのことだった。その日は金曜日ということもあり、定時で仕事を終えた2人はメンバーが全員帰った後で会社を後にし、西桜花中央にある居酒屋へと向かったのだった。2人だけの個室に案内された2人はまず龍馬の前途を祝して乾杯し、仕事の話から徐々にプライベートなことへと移っていくのだった。
「『ヤンキー狩り』と一緒に酒を飲むなんて、考えたこともなかった」
「そりゃ同じさ。1人配属になると名前を聞いた時は何も思わなかったが、いざ顔を見てビックリさ」
お互いにそう言いあい、苦笑する。お互い名前も知らず、ただ異名だけで知っていたかつての敵。それが同じ職場になり、同じ酒を飲んでいる、それだけで何か異様であり、不思議であり、おかしい。
「けど、あの時お前に負けていなければ・・・今の俺はなかった、それだけは事実だ」
今日は上司と部下ではない。かつての敵であり、今は仲間だ。年も同じ2人は上下関係を断っている今は敬語を使うことを止めて話をしている。龍馬はかつて『七武装』の1人であり、『ヤンキー狩り』時代の周人と戦った男でもある。当時日本でも十本の指に入る強者であり、『龍王』と呼ばれた実力者だった龍馬は周人に敗れ、自分の組織のボスだった『キング』が倒されたのをきっかけに真面目に働きながら大検を受けて有名私大に合格した。その後も勉強を続けてカムイに入社して今に至る。まさかそこでかつて自分を倒し、最強の『キング』すら倒した周人に再会するなどとは思いもしなかったことだ。しかも今や周人は自分の上司なのだ。当時のことを振り返る2人は敵同士だった頃の遺恨もなく、懐かしい会話を弾ませていった。そして話は『七武装』のことへと移っていく。
「荒れていた時期に、仲間がヤクザに因縁つけられてな・・・うっぷんを晴らすついでに組に乗り込んで大暴れした。多少の怪我しながら全員を叩きのめして仲間を救ったはいいが、舎弟とも言える複数の組に狙われた」
その際、龍馬は死を覚悟したと言う。だが追い詰められた龍馬を救ったのは意外な人物だった。
「追い詰められ、ボロボロにされて海に捨てられそうになっていた俺を救ったのは『キング』だった。圧倒的強さで四十人からなる武器を持った全員を叩きのめした。無傷でな。その強さに怯えたよ・・・心の底からな」
どうやらその組は『キング』に逆らう組だったらしく、それを潰しに『キング』が動いたのだ。その度胸を見込まれた龍馬は『キング』の根城に連れて行かれ、そこで『四天王』西原さとると戦わされたと言う。
「まったく相手にならなかった。全身の関節を自在に操る男でな、それでも一発顔面に蹴りを叩き込んでやったさ」
そしてその強さを認められ、『キング』が組織しようとしていた7人の中の1人とされた。当時は龍馬が4人目だったらしく、それから一ヶ月経たないうちに残る3人が決まり、『四天王』の代行者として『七武装』が編成されたのだと言う。
「お前が倒した神崎が一番最後の加入だった・・・あいつは『四天王』最強の大野木と五分に戦ったらしい。ドラッグを使わずとも俺以上の強さだったからな。そして1年半後、お前によって全てが終わった」
「神崎は強かった・・・あいつに勝てたのはラッキー以外の何物でもなかったよ。お前と戦って勝てたのも半分はヤツのおかげさ。ヤツの強さを受けてのレベルアップだったから」
左頬の傷が疼く気がする周人は、神崎との戦いを思い返しながら苦笑を浮かべた。
「『ヤンキー狩り』なんてたいそうな名前なヤツ、どうせ大したことないと思ってた。当時は全員がそう思っていたさ。だが強かった・・・何故ああまで強いのか知りたかったぐらいさ」
「全てを捨ててでも、何に替えても『キング』を殺したい、ただそれしかなかったからな」
「それが復讐?」
「あぁ・・・当時付き合っていた彼女をヤツに殺された。警察も一ヶ月で捜査を打ち切り、キレた結果さ」
あれほどはぐらかしていたことをあっけなくそう言う周人に目を丸くする。
「てっきり名を上げたいんだと思ってたぜ」
「キレて暴れて、そして勝った・・・けど、仲間がいなかったら、オレは途中で死んでた」
苦笑気味にそう言うと熱燗を飲む。熱いものが体に染み込んでいくのを感じる周人はどこか遠い目をしながらその感覚を味わっていた。龍馬は『ヤンキー狩り』、『魔獣』と呼ばれた伝説の男の強さの秘密がようやく分かったような気がしていた。愛する者を殺された恨み、辛さ、悲しさを知るからこそ、一昨年『アーク』を壊滅させることが出来たのだということも。その悲しさを2度と味わいたくない気持ちと今愛する者を必ず守るという強い意思が『アーク』を潰す原動力となったのだ。
「お前が衰えもなく『ゼロ』を倒せたのが不思議だったが、ようやく納得だ」
「『ゼロ』を倒したのは『魔術師』だよ・・・」
感心する龍馬の言葉に対して苦笑を返す周人に珍しく微笑んだ龍馬だった。




